※※


 エレベーターの扉が開いた先には、愛想なんて欠片かけらも感じられない廊下が伸びている。遠近感が狂いそうな廊下は、そのデザイン自体がすでに防犯性を備えているのだと、いつだったか相方に聞いたような気がした。


 そんな味気ない廊下に、あやはポンッと跳ねるようにして降り立つ。その瞬間、グラリと微かにエレベーターが揺れたような気がした。明らかに女子高生一人が降りたという揺れ方ではないエレベーターに、綾は振り返らないまま少しだけ肩をすくめる。


 そんな綾の視界に、ふと人影が留まった。


 重苦しくも艶やかな、喪服を思わせる黒いスーツ。白いシャツに、真っ黒なネクタイと手袋。サラリと落ちかかる髪はまとう黒よりなお深い漆黒。左腰に差し落とされた刀も黒いが、唯一下緒さげおだけが血のように紅い。


 その人物が誰か分かった綾は、自然に湧き上がった笑みを顔中に広げた。そんな綾に気付いたわけではないだろうが、向こうも綾の方へ顔を向ける。


 我が目を疑うほど秀麗な顔立ち。それを覆い尽くしてなお余りある気だるさ。


 綾の幼馴染にして相方。そして一時期は同い年の兄妹きょうだいでもあった相手。『リコリス』内で『首落としの椿』なんていうおっかない名前をもらってしまった人。


 遠宮とおみや龍樹たつき


「そっちの仕事も、終わったんだね」


 綾は龍樹に歩み寄りながら声を掛ける。


 この建物に入ってしばらくは一緒に行動していたのだが、途中からは別行動だった。その頃に龍樹のジャケットのボタンホールに飾られていた一輪の彼岸花が、今はない。紅を宿しているのは、刀の下緒だけだ。


 その意味を知っている綾は、常と変わらない笑みを龍樹に向ける。


「無事?」

「……あぁ」


 綾の言葉に、龍樹は酷く気だるげに答えた。はたから見れば愛想なんて欠片もない言動だが、言葉が返ってくるだけマシだと知っている綾は龍樹の声を受けて笑みを深める。


「そっか」


 掃除人は、命の片付け屋。


 命の最期を前にして、いつだって片付けられる側が無抵抗であるわけではない。取るか取られるかの現場は、いつだって命懸けだ。掃除人は片付けの数だけ、己も片付けられかねない危機にさらされている。


 龍樹が無事に帰ってきたということは、相手の命が消えたということ。自らも片付けの現場に立つ身である綾は、そのことを誰よりもよく知っている。


 それでも綾は、龍樹の無事を心の底から喜んでいる。


 今の世界は、どこでも椅子の奪い合い。


 生きていたければ、相手を蹴落としてでも己が座る椅子を確保しなければならない。自分の『特別』の無事を願うならば、他の有象無象の命が消えたことを悲しんでなんかいられない。


 殺人は、重罪。食べるためであっても、同族殺しは御法度。掃除人という身分がなければ、たった一度でも極刑物な行為。決して手を染めてはいけない禁則。


 分かっていて、それでも綾は龍樹の無事を手放しで喜ぶ。


 龍樹だって、綾の立場に立てば同じ。


 博愛主義なんかではいられない。『命はみんな尊い』なんて、無垢なことを言っていられる自分は随分前に死んでしまった。


 一度椅子から滑り落ちて、落こっちる寸前で必死にしがみついている自分達。その他有象無象にもたったひとつの命があることを知っていても、己の『特別』の命がことさらに重いのだと、痛感してしまった自分達。


 そんな自分達は、『特別』の無事を手放しで喜びながら、有象無象の命を蹴散らして生きていくのがお似合いだ。有象無象の命の重さを引きずって、奪い取ったその重みに潰されそうになりながら生きていくのがお似合いだ。


 そんな生き方しかもう、自分達はしていけないのだから。


「……そっちも、無事に終わったようだな」


 龍樹の視線が、綾の頭に向く。


 正確に言えば、ツインテールに結い上げられた髪の根元……そこに左右一輪ずつ飾られた彼岸花に。


「うん」


 屋上で彼女と顔を合わせていた時、この二輪の彼岸花は太腿のホルスターに拳銃と一緒に挿さっていた。いかめしいホルスターとそこに納められた拳銃にばかり目が行っていた彼女は、さらにその後ろに隠されていたこの花に気付く余裕はなかったのだろう。


「彼女は、飛ばなかったよ」


 血のように鮮やかな、彼岸花。


 あの時スカートの中に隠されていた花は今、綾のツインテールの根元に、周囲に見せつけるかのように一輪ずつ活けられている。


 献花が、二人分。


 彼女がもしもあのまま飛んでいたら、彼女の後を追うように宙を舞うことになった花。


「……そうか」


 龍樹はまた短く答えると、背中を預けていた壁から身を起こした。廊下を進み始めた龍樹の隣に、綾は跳ねるように歩み寄る。


「ねぇ、素朴な疑問なんだけどさ」


 綾が隣に並んでも、声を上げても、龍樹は綾に視線を向けない。ただ気だるく前だけを見据えて進んでいく。


 それが龍樹の常で、場合によっては返事はないかもしれないと分かっていながらも、綾は勝手に言葉を投げる。


「不倫って、普通不倫してた側が裁かれるものなんじゃないの?」

「一般的には、そうだろうな」

「でも今回、リストに載ったのは、戸籍上正式な妻であった奥さんの方だったんだよね?」

「不倫していた当人……研究主任もな」

「おかしくない? 世間の正義にのっとれば、片付けられるのは彼女の方だと思うんだけど」

「綾」


 今回は、答えがあった。だから綾は龍樹の言葉を求めて、大人しく龍樹を見上げる。


 そんな綾に答える龍樹は、相変わらず気だるそうで、こちらに視線もくれやしない。


「正義ってのは、常に正しいわけじゃない。世間一般の多数決で『きっとそれが正しい』と勝手に決まった意見ってだけだ」


 ただ、答えてくれる時には、綾の疑問に真っ直ぐに答える言葉をくれる。


 そして龍樹は、綾が真剣に向けた問いを、絶対にないがしろにはしない。


「正義の女神は、天秤と剣を手にしている。そして大抵は目隠しをしているんだ。己の目で、天秤に何が乗せられているのか見ることはない。天秤が傾けば、自動的に刃を振り下ろす。……正義ってのは、はるか神話の時代からそういうもんだったんだろうよ」


 しばらく龍樹を見上げて進んだ綾は、龍樹の言葉を咀嚼そしゃくするように視線を前に向けた。


 若く、有能であった研究員に手を出した研究主任。


 彼が既婚者だと知らず……いや、関係を続けた彼女。


 夫の不貞に癇癪を起こし、しかし彼女や夫にそれを直接ぶつけようとはせず、さらには夫ではなく彼女の方を片付けモノに申請した妻。


 妻の行動を知っていながら、自分が申告されたわけではないならば問題ないと関係を続けた研究主任。


 結果、命を己の腹に宿した彼女。


 そこに振り下ろされた正義の剣は、研究主任とその妻を裁いた。その理由は恐らく、『リコリス』から見て彼女が一番有能で役に立っている存在だから、だろう。


 献花を常に咲かせ続ける技術を盤石な物にした彼女は、リコリスにとっては必要不可欠な存在であったから。彼女と研究主任の血を引く子供は、遺伝子的に有望である可能性が高いから。


 それが、『リコリス』が降した正義ジャッジメント。たとえそれが世間一般の正義とはかけ離れていても、綾達が従わなければならない正義はそこにしかない。


 綾達掃除人は、緋色の女神が振り下ろす剣でしかない。そこに意思は存在しないのだから。


「……『生きてもいいよって言われたら、どうしても、生きなければならないものなんでしょうか?』……かぁ」


 ただ、綾には、幸か不幸か、考える力がある。思う気持ちがある。


「変な世の中だよね」


 何気なく呟くと、龍樹の視線が綾に向いた。静かな視線の中に疑問を読み取った綾は、今度は龍樹を見上げて、龍樹に向かって言葉を紡ぐ。


「生きたいっていう人間が自由に生きる自由も、死にたいっていう人間が自由に死ぬ自由も、ここにはないんだもの」


 その言葉に、龍樹は言葉を返してこなかった。


 ただ、無造作に上げられた手が、ポンポンと綾の頭を軽く叩く。


 その温もりに、綾は瞳を細めた。言葉がなくても、その温もりがあれば、綾にとってはそれでいい。


「そんな自由があっても、きっと息苦しいんだろうな」


 ポツリと、龍樹が呟く。


「きっと呼吸が軽くなりすぎて、どう息をしたらいいのか分からない」


 龍樹の独白に、綾は言葉を返せない。龍樹が紡ぐ言葉は、いつだって綾には難しくて、重たい。


 だから、綾は龍樹の隣を歩く。どれだけ重たい枷が足に掛かっていても。それだけしか綾には、龍樹に対してできることがないから。


「ほんっと、イヤになっちゃうね」


 フワリと何も知らない顔で笑って、龍樹の隣を歩く。


 そんな綾の頭の上にもう一度、ポンポンと温もりが宿った。






 

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