「私は、きっと、死んだ方がいい」

「私は……きっと、生きていちゃ、いけないんです……」


 蚊の鳴くような声でささやいた彼女は、そのまま消えてしまいそうな顔をしていた。




  ※ ※ ※




「おねーさんっ」


 自分以外誰もいないと思っていた場所に自分じゃない声がいきなり響くというのは、かなり心臓に悪いことだ。


「そんなトコにいちゃ、危ないですよぉ?」


 思わず肩を跳ねさせて声の方を振り返ると、夕暮れ時の風にウェーブがかった栗色の髪が揺れていた。


 赤いリトマス試験紙みたいな淡いピンクが空を染める中、心地良い風になびく栗色の髪は琥珀みたいなきらめきをまとっている。


 少女、だった。多分、高校生くらいの。


 長い栗色の髪を小さい子みたいに耳の上でツインテールに結った彼女は、私と同じように屋上の柵にもたれかかって、柵の上に肘をついてこっちを見ていた。素直に『可愛い』と思える愛嬌たっぷりな笑顔に、思わず私は目を丸くする。


 ……私は、こんな風に笑いかけてもらえる資格なんて、どこにもないのに。


「ここの柵、低いですから。お姉さんがいくら小柄でも、そんな風に身を乗り出したら、落っこちちゃいますよ」


 少女はそう言いながらも自分は柵から体を離そうとしない。あばらより少し下くらいまでしか高さがない柵の上に肘をついたままニシシッと笑っている。


「で、落ちちゃったら、多分助からないから。落ちないに越したことはないですよ」


 何者、なんだろう。


 そう思った瞬間、少女が纏う黒い服がフワリと風に揺れて、私はもう一度肩を跳ね上げた。


 黒。喪服みたいな、深い黒。


 全身をそんな色に包む職業の人間がこの国にはいるんだと、私は嫌になるくらいに知っている。


 掃除人。国家人口管理局『リコリス』に所属する、国の名を背負う殺し屋達。


 彼らの仕事服はそれぞれの個性によって形の違いはあれども、皆一様に真っ黒だ。彼岸花の赤が、一番映える純黒。


 ……でも、そんな彼らと私、一体何が違うというのだろう。


 体を強張らせる私を叱咤するかのように、私の体を包む白衣が翻る。


 純白。黒とは対照的な色。真逆な色。


 だけど蓋を開けてみれば、私も彼らも中身は一緒。国の名を背負って人を殺している。言葉にしてしまえば、ただそれだけ。


「生きててもいいよって言われてるなら、命は大切にした方がいいですよぉ?」


 でも私は、そこまで考えて、そこまで彼女の言葉を聞いてから、はたと違和感に気付いた。


 彼女が纏っているのは、ゴシックワンピースだった。胸元を包むレースは白。コルセットベルトで絞られた腰回りから反発するかのようにフワリと軽やかに膨らんだ黒いスカートが広がっている。


 デコルテが美しく見えるオフショルダー。

袖は肘辺りからフワリと広がるラインも美しい、いわゆる『姫袖』と言われるライン。膝丈のスカートから伸びる足は編み上げのブーツに通されている。


 長いツインテールという幼子のような髪型と相まって、彼女が纏う雰囲気はどこか浮世離れしていた。


 ……そう、彼女からは、彼岸花の赤を感じない。掃除人ならば必ず帯びているはずである、武器の気配を感じない。


 喪服と呼ぶには華美で、礼服と呼ぶには陰湿な、吸い込まれてしまいそうなくらい真っ黒な衣服に身を包んでいるというのに。


「……お姉さん?」


 体ごと少女を振り返った私は、さぞかし滑稽な顔で少女を見上げていたのだろう。


 それとも、少女を凝視しているくせに一言も言葉を発しようとしない私を、さすがに不審に思ったのだろうか。


「……『生きててもいいよ』って、言われたら」


 ふと、言葉が漏れていた。


 訊ねるつもりなんて、誰が相手でもなかったのに。


「どうしても、生きていなければ、ならないものなんでしょうか……?」


 それでも訊ねてしまいたくなったのは、少女が纏う雰囲気のせいなのだろうか。


「私は……きっと、生きていちゃ、いけないんです……」


 それとも、まさに飛び降り自殺をしようとした瞬間に、少女に声を掛けられたせいなのだろうか。


 私はきっと、生きてちゃいけない。


 声に出してしまったら、なんだか気が抜けてしまって、ヘタリとその場に座り込んでしまった。私に泣く権利なんてきっとないのに、ジワリと涙腺が緩んでくる。それを押さえつけたくて両手をきつく目元に押しつける私は、きっと傍から見たらさぞかし弱者に見えることだろう。それが滑稽で、あざとくて、とことん心底嫌だった。


 いっそ私自身が片付けモノリストに乗ってしまえばいいのに。こんな、片付けられる危険がないからこそ、自分の命を高見から見物していられる私自身が、片付けられてしまえばいい。でもそんな感情さえもが、自分で自分の命の始末さえできない己の甘さなのだと分かってしまう。


「私は、きっと、死んだ方がいい」


 世間に認められなければ片付けられる。


 そんな世界で私はずっと周りから『優秀だ』と褒めそやかされて人生を送ってきた。人があぶれてて、いらないと判断されれば摘み取られていく世界で、それでも世間に『必要だ』とずっと言ってもらえることが、誇らしかった。


 ずっと、ずっと。ずっとそうやって、鼻高々と生きていくんだと思っていた。


 生物学……その中でも植物研究に長けた能力を買われて、『リコリス』の研究員として引き抜かれるまでは。


「私の研究が成功すればするほど、人が死ぬんです……! 私の研究が、人を殺すんです……!」


 私の責務は、一年中彼岸花を咲かせ続けること。季節を問わず、時間を問わずに片付けられていくモノ達へ、いつでも深紅の花を届けられるように花を管理すること。


 そして、毒の精製。植物から抽出される毒を精製し、少量で早く利き、解毒もされにくい新種の毒を研究すること。掃除人が利用する、暗殺道具としての毒を作り出すこと。


 どちらの研究も、成功すればするほど人が死ぬことに変わりはない。私が賞賛されればされるほど、私の足元には無数の死体が積み上がっていく。


 そのことに、気付いてしまった。


 私が生きることを許されているのは……私が存在できる理由は、他者の死を基盤にしているんだって。


「だったら、私は……殺人鬼と、何ら変わりはないじゃないですか。私は、人を、殺している。私がいなければ、消えない命だって、きっとあった……」


 自分が作り出したモノが、現場でどのように使われているのか、ずっと知らずにいた。


 だけど、知ってしまった。……ううん、本当はもう、ずっと前から知っていたはず。自分が生きている範囲には関係ないことなのだと、目を逸らしていただけ。そんな私の前に、分かりやすい検体を転がされたのが、最近だったというだけで。


「私……わた、し…っ!」


 今でも目に焼き付いて離れない、ひとつの検体。


 アルカロイド系の毒を過剰摂取した人間特有の死に様。何度も検体で見た反応。


 私が愛した人は、私が研ぎ続けてきた毒で、死んだ。


「……ねぇ、お姉さん」


 脳裏に焼きついた光景に嘔吐感が喉をせり上がる。


 だけどいつもみたいに胃液をぶちまけることにならなかったのは、少女の声がスルリと意識に入り込んできたからだった。


「お姉さんは、どこかの国で子供が餓死するのは、自分が食べ切れないほどの食べ物に囲まれているせいだって思うタイプ?」

「……え?」

「どこかの国で内戦が止まらないのも、天災で人が死ぬのも、みんなみんな自分のせいだぁ~、とか、思ってたりする?」


 急に向けられた問いは、突拍子もなかったからこそ、ストンと抵抗なく私の意識に落ちてきた。そして突拍子もなかったからこそ、私は無防備にフルフルと首を横に振る。


「そっか、良かった! そこからの説明だと、さすがに時間がかかりそうだったから」

「で、でも、それとこれとは、話が……」

「一緒だよ。全部、一緒」


 柵に片手を置いたまま私の方を振り向いた彼女は、ニコリと綺麗に笑った。まるで、本当にただの女子高生であるかのように。


「お姉さんが研究を成功させてもさせなくても、死ぬ人間は死ぬし、殺される人間は殺されるよ。お姉さんがやらない代わりに、誰かが研究を成功させて、誰かがそれを振るうの。その誰かが成功させないなら、凶器が別の何かにすり替わるだけ」


 だけど、彼女が口にする理屈は、明らかにただの女子高生が口にするものではなかった。優しい口調と柔らかな語調に誤魔化されずに耳を澄ませば、根底にあるのが掃除人としての現場を知る者の冷徹な発言なのだと分かる。


「……だけど」


 彼女を前にしたら、駄々をこね続ける私の方が、ずっと子供のように思えた。


 だけど。だけど、だけど。


 私が、私じゃなかったら。私が、こんな場所にいなければ。


 あの人が死ぬことはなかったかもしれない、という仮定は、きっと事実、だから。


「……だけど」


 だけど、私はその理由を正面切って口にできない。ただ片手が、言葉を代弁するかのように己の下腹を小さくさする。


 傲慢で、弱虫で。なんて卑怯。


 彼が死んでしまってからも、私はその卑怯さのせいで口を開くことができない。どれだけ口をつぐんでも、罪の証はここにあるのに。


「あのね。私、掃除人なんだけど」


 言葉に詰まった私を、彼女はどう捉えたのだろう。


 今度向けられた言葉も突拍子がなくて……私の肩を跳ねさせるには、十分な威力があった。


「お姉さんよりも、もっとずっと直接的に人を殺しているし、多分、殺した人数も多いと思うんだけども」


 そんな言葉を語りながらも、少女は笑った。


 ふんわりと。空を染め上げる優しいピンク色と同じ柔らかさで。


「私は多分、お姉さんよりも、世間一般で言う害悪度合が高いわけなんだけども」


 きっと彼女には、真っ黒な服なんかよりも、ごく普通の学校の制服が似合う。


 自分なんかよりもずっと若々しくて、初々しい彼女を見て、ふと、そんなことを思った。


「それでも、自分が死ねばいいとは思えないんだよね」


 少女は柵から手を離すと、腰の後ろで手を組んだ。踊るように一歩、二歩と足が動く。高いビルの上へ吹き上がる風がその動きを冷かして、ふんわりと広がるスカートが風に乗ってまくり上げられる。


「なんでか、分かる?」


 その下にある物を見つけた私は、思わず息を呑んだ。


「私の命に、執着してくれている人がいるからなんだ」


 スラリと伸びた白い足。その太腿に吊られていたのは、拳銃のホルスターだった。恐らくガーターベルトのような形で、一番上のベルトは服の下を通す形で腰に固定されているのだろう。


 両太腿に一丁ずつ。恐らく予備の弾倉はそれ以上。ならばあのふんわりとしたスカートのシルエットは、そこに隠した武器の存在を気取らせないための武装の一環なのか。


「私を生かす。ただそれだけのために己の命にしがみついて、足掻いて。……自分の存在理由を証明するためじゃなくて、私の存在を許容させるための対価として、己の手を血で染め続ける人間がいることを、知っているからなんだ」


 一体、彼女はどれだけの重さをそこに纏わりつかせているのだろうか。


 まるで足枷だ。どれだけ軽量化が進んでいたって、どれだけ小型化された物だって、拳銃はずっしりと手に重い。一丁でも重たい代物が、二丁もそこにあるなんて。ただの少女にとってそれは、どれだけ重たい枷なんだろう。


 だというのに、彼女の足はワルツでも踊っているかのように優雅にステップを刻む。彼女の顔は、何も知らない無邪気な女子高生そのものの明るさで笑う。


「だから私は、自分がどれだけ害悪だと分かっていても、自らの命をイチグラムだって、おろそかにできない。だってそれは、私の命に執着してくれる彼の命をも疎かにすることになるから」


 何も知らないようでいて。


 紡ぐ言葉は軽やかに、掃除人としてのそれだった。


「お姉さんの命にも、そうやって執着してくれるが、あるんじゃないの?」

「……執着」


 もう一度、ソロリと片手が下腹を撫でた。


 関係は、長かった。私が『リコリス』の研究室に入ってしばらく経った頃からだったから、5年は続いていたことになる。


 だけど彼が既婚者で、私は不倫相手に過ぎなかったということは、彼が死んでから知った。私は私で、私のお腹にその罪の証が宿っていることを伝えることはなかった。


 二人ともが関係を周囲に伏せることを望んでいて、誰も私達がそういう関係だったことを知らない。だから、なぜ彼が片付けられたのかも、理由を察しているのは私だけだろう。


 そして私のお腹に命が宿っていることも、誰も知らない。誰にも、この子の命は祝福されていない。私も、祝福を口にしたことはない。


 ……だけど。


 きっと、執着だけは、最初からしていた。


 だから。だからこそ私は、自分が死ぬべきだと思ったんだ。


「変な世の中だよね。昔は、生きてるだけで偉いって褒められた時代もあったらしいのに」


 フワリと風が止まって、静かにスカートが元の位置に戻っていく。彼女の足枷もまた、私の視界から消えていく。


「『お前がやってなけりゃ代わりに誰かがやってた。結果は変わらない』ってね、私の命に執着してくれてる人からの受け売りなんだ」


 それでも、存在そのものが消えたわけじゃない。彼女に纏わりつく重さは、変わらずそこにある。


 あるはずなのに、それでも目の前の少女は、ふんわりと柔らかく笑うのだ。


「世の中全部自分のせいだーって思えちゃうことってあるよね。分かるよ? でも」


 笑った上で、今までと一切変わらない口調で。


「きっとお姉さんが死んだところで、結果も、世界も、変わらないんだと思うよ」


 この上なく、私の心をえぐる言葉を、口にするのだ。


「だったら、そんなの死に損じゃない?」


 私が二度と飛べないように、足枷になる言葉を、口にするのだ。


「だったら、もっと自分の命に執着してくれる誰かの声に、耳を傾けた方がいいんじゃないかな?」


 ……私は、きっと死んだ方がいい。


 私の研究が進めば進むほど人は死ぬし、私と関係を持ったから、愛しいあの人は私が作り出した毒で殺された。


 私が歩いてきた道も、これから歩いて行く道も、きっと屍で造られている。


 ……でも、……だけど。


「……お腹に、……子供がいるの」


 ポツリと、言葉がこぼれた。もう一度、強く夕方の風が吹き上がって私の白衣を翻す。少女が纏うゴシックワンピースの裾も揺れる。


 だけど、今度の彼女は私に己の足につけた枷を見せつけてくることはなかった。


「わぁっ! おめでとうございますっ!」


 心底嬉しそうに笑った少女は、スカートが吹き上げられるよりも早く私の前に膝をついた。ニコニコと笑って私の顔をのぞき込む彼女は、まるで祝福を告げに来た天使のようで。


「どうかお腹のお子さんが、無事に産まれてきてくれますように」


 誰も祝福してくれなかった命を祝福し、私を生に縛る足枷を、与えてくれた。

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