「片付けてくれよ、俺も一緒に」

「なぁ、あいつが片付けモノだって言うなら」


 涙が枯れ切って絶望でひび割れた瞳は、俺に向けられていながら、俺のことは映していなかった。


「片付けてくれよ、俺も一緒に」




  ※  ※  ※




 息子が片付けられたのは、俺が定年退職を迎えたその日のことだった。


 息子は、人通りのない、電車の高架下で死んでいたらしい。落とされた己の首を腕に抱くようにして、錆びたフェンスにもたれかかるようにして座り込んでいたという。


 その首には季節外れの彼岸花が添えられていて、駆け付けた警察はその彼岸花を見て『捜査の必要性なし』と判断した。


 朝、息子が寝ている姿を見てから家を出た俺は、息子の姿がない部屋で、息子の訃報を知らせる電話を受けた。


 世間にうとい俺だって知っている。


 彼岸花をカタカナで言うと『リコリス』。この国で、国の名の下に人を殺して回る組織と同じ名前。


 死体に添えられた彼岸花は、そいつらの署名なのだという。『超司法の下による執行につき捜査介入を許さず』という意味なのだと、俺と息子を引き合わせた刑事は言っていた。


『つまり、噛み砕いて言ってしまえば』


 そいつの淡々とした、どこかにあざけりが含まれた事務的な声が、今でも耳にこびりついて離れない。


『彼岸花が添えられた死体は、我らの捜査対象外なのです』


 ご遺体、引き取られますか? という言葉に、俺は無言で頷いた。葬儀会社の手配をしてくれたのは、刑事じゃなくて病院の職員だったと思う。


 思えば、貧しい暮らしだった。


 冴えない親父と、不良息子の二人暮らし。


 妻を早くに亡くしてしまって再婚もしていなかったものだから、息子は母の温もりというものを知ることなく死んだ。


 葬式は、申し訳程度に小さく開いた。せめて経くらいは人並みに上げてやりたかったから。それが俺の自己満足で、俺のためにしかならないと分かっていても、葬式を挙げずに送り出すという選択肢は、不思議と最初から俺の中にはなかった。


 参列者は、俺しかいなかった。最初からこうなることは分かっていたし、こうなることを望んでもいた。


 小さな葬儀会場の中でも、一番小さな部屋。それでも妙にガランと部屋は広く見える。


 この部屋から出されたら、息子はもう灰になる。そうなったらもう、俺はこの世界でたった一人。夢も、希望も、何もかもが、息子と一緒に灰になる。


 思えば、しょうもない息子だった。


 気付いた時には『不良』と呼ばれる存在で、中学に上がる頃には近所でも有名なワルだった。高校生になった今では、酒も、タバコも、オンナも、一通り経験済みだったように思える。


 ケンカも強くて、ガラの悪いカッコして。


 高校を卒業したらヤクザの舎弟になるんじゃないかとか、いやいやアイツは今現在すでにヤクザを敵に回しているんだとか、そんな噂ばっかりあるようなヤツだった。


 不良は、世間一般の考えからしてみれば『社会のゴミ』。優良な人材を優先して残すために不良な人間は斬るべしとされているこの世界では、分かりやすい不良は真っ先に片付けの対象とされる。


 だから、誰もこんな真正面から世間に突っ張ろうとはしない。息子の訃報を知った近所の人間だって、誰も彼もが『それもまた当然』みたいな顔をしていて、お悔やみのひとつ、表面上の同情さえ見せてこなかった。


 ……でも。


 でも、俺にとって、息子ってのは……


「な、何だね、君達はっ!?」


 あいつは、世間が言う『ゴミ』なんかじゃ、決してなくて。


「ここは葬儀の場だぞっ!? 君達が関与していい場所じゃないはずだっ!」

「……おい」


 ふと、その瞬間、視界を黒が染め上げた。


「あんたが、斎藤さいとう弘文ひろふみか?」


 つややかな、喪服を連想させる黒。ネクタイと手袋も黒くて、シャツだけが白い。


 男だ。気だるさが色濃く出た低い声は、ささやくような語調なのに不思議とよく通る。


 面立ちは、こんな状況でも素直に目をみはってしまうくらい秀麗に整っていた。


 身を包んだ衣服よりも深い漆黒の髪と瞳。


 こちらまで疲れてしまいそうなくらい気だるさに包まれているのに、ひざますいて俺を覗き込んだ瞳には不思議と強い光が見えた。


 そして腰には、真っ黒な日本刀。飾りの紐だけが、ハッと目が覚めるくらいにあかい。


 ……名乗られなくても、分かる。


 掃除人。


 俺の目の前にいたのは、掃除人だった。


「……何だってんだ」


 俺は、パイプ椅子にうなれるように座ったまま、掃除人に答えた。口を動かしたついでに口元が引きったのが分かる。きっと今の俺は、いびつに笑っていることだろう。


 だってもう、どんな表情を貼り付けたらいいのかさえ分からない。


「息子の次は、俺か? 仕事も、息子もなくなって、用済みになった老いぼれだから」

「違う」

「なぁ、あいつが片付けモノだって言うなら……片付けてくれよ、俺も一緒に」


 今の俺は、もう抜け殻だ。


 妻もいない。家族もいない。血縁と言える人間は、全員もうこの世にいない。


 仕事もない。親としての責務も、社会人としての責務も消えた。


 今の俺は、さぞ存在理由がないことだろう。簡単にいらないと言われてしまう人間で、……事実、簡単に消してしまえる存在なのだろう。俺だって、こんな存在、世界には不要だと思う。


 あいつよりもずっと、俺の方がずっとずっと、ゴミと呼ばれるにふさわしい。


「なぁ、頼むよ。そのために、来たんだろ?」

「違う」


 だというのに、秀麗な死神は表情を変えないまま俺の言葉に首を横へ振った。


「斎藤悠斗ゆうとから、伝言を預かっている」


『こっちの話を聞け』と決して強要してこないのに、強制的に耳目を集める声で、掃除人は一方的に用件を告げる。


 決して俺にはないがしろにできない言葉で。


「宛先が父親、つまりあんただった。だから今持ってきた。伝えさせてもらうが、いいか?」


 言葉は語尾に疑問符がついている確認形で来たが、俺はその言葉に答えることができなかった。何を言われているのか理解できなかったし、体は強張ったまま動かない。


 ただ、それでも特に問題はなかった。男は俺の沈黙を是と受け取ったのか、それとも最初から確認は形だけだったのか、俺が固まっている間に実にあっさりと『伝言』とやらを口にし始める。


「『俺は、無実だ』」


 不思議と、思考回路が止まっていても、言葉はスッと心に入り込んできた。理解もできた。


「『俺に冤罪をなすりつけて、てい良く殺そうとしている人間にはめられたらしい。きっと親父のことも殺しに来る。親父、俺と親父の銀行口座からありったけの金を引き出して、逃げてくれ』」


 不思議と、言葉は脳内で、息子の声で再生されていた。


「『俺が死んだ後でどんなフェイクニュースが流されたって、親父は俺の無実を信じてくれるって信じてる』」


 ああ、言いそうだな、とか。


 ああ、やっぱりそうだったんだな、とか。


 そんな感想ばかりが、胸の中に生まれ落ちては、次々とこぼれ落ちていく。


「『一緒に店を開くっていう夢を叶えられなくて、ゴメン』」


 そこまで言って、男はフツリと口を閉ざした。伝言とやらはここで終わったのだろう。


 小さな部屋に、今は俺と、坊主と、進行役の他に、掃除人の男がいる。


 それでもこの部屋は、不思議と静かだった。生者の音が、聞こえない。


「……あんたは」


 そんな沈黙の中に、ポタリと声が落ちた。


「その伝言を聞いて、どう思ったんだ」


 男は、伝言を伝え終わっても、俺の前に跪いて、俺の瞳を見つめていた。


 そんな男の瞳に映り込んだ俺の顔が、わずかに動いている。


「あいつははっきりと『冤罪だ』と言ったんだろう。それなのに、……あんたは、刃を振るったんだろ?」


 息子の命を断ったのは、きっとこの男の腰にある刃で。男の腕にはきっと、息子の首を落とした時の衝撃が残っている。


 男がただのメッセンジャーに過ぎないという可能性もあるだろう。でもなぜか俺には、息子を片付けたのは間違いなくコイツだという確信があった。


 息子と同い年くらいに見えるのに、男の体付きは喧嘩に明け暮れた息子などよりずっとたくましく思えた。重苦しい衣服に押し隠されて分からないようにされているが、俺には分かる。きっとこの男は、二十年も生きていないくせして、信じられないくらい人間を殺している。


「教えてくれよ。……どう思ったんだ」


 俺には、分かる。


 俺も昔はクズで、……片付けられる寸前の、人殺しのゴミだったから。


「何も」


 だというのに彼は、ただ気だるく答えた。最初から徹頭徹尾、変わらないトーンで。


「何も思わない」

「何も?」

「俺はただ、上から通達された通りに刃を振るう。そこに思考の余地はない。掃除人俺達は、そうでなければならない」


 ただ瞳だけが、その言葉にそぐわず、真っ直ぐだった。


「そうあれなければ、俺達自身がゴミだ。俺達の方が片付けられなければならない」

「己の命が可愛いか?」

「違う」


 どこまでも気だるげで、己の命にさえんでいる風情まであるくせに。


 それでもこの男は、命を燃やすように現状いまあらがって生きているのが、分かる。


「消したくない命が、俺の命の上に載っているからだ」


 その理由を、男ははっきりと口にした。答える義理なんてなかっただろうに。


 視線と、言葉と、態度と。どれに何がどう反応したのかなんて分からない。


 ただ、ホロリと。


 心の中で、何かが剥がれて落ちた気がした。


「……そうか」


 多分、分かってしまったのだろう。この男が己の命に向けている気持というものが。


 俺だって、そうだったのだから。


「……片付けられたって聞いた時、冤罪だって、分かった。どこのどいつが冤罪をでっち上げたのかも、実は大体分かってるんだ」


 ヤクザだったのは、息子じゃなくて父親の方。


 片付けられなければならないゴミだったのも、俺の方。


 随分前に、極道の世界からは足を洗っていた。持て余していた己の命に理由を載せてくれた人、……の、ために。随分強引な抜け方で、守りたかったはずの相手にまで随分な苦労を負わせたと、知っている。


 何とか職を見つけて、世間にはばかりながらも、ようやく穏やかな暮らしを始められて、息子が産まれて。


 やっとこれからって時に、俺の命を最初にすくい上げてくれた妻は、逝ってしまった。


 そこからは俺と息子の二人暮らし。ヤクザモンの俺が一人で育てて真っ直ぐに育つはずがなくて。世間から貼られた『片親』というレッテルもあって、あいつは普通の道を歩くことができなかった。


 俺が上手く足を洗えなかったせいで、昔の因縁が度々俺の前に顔を出したのも、あいつの育ちに影響したのかもしれない。


 でも、だけど。


「あいつは、俺と違って、絶対にそういう歪み方は、していなかったから」


 見た目は悪くて。素行も悪くて。


 だけど片付けられなければならないようなワルは、絶対にしていないと分かる、一本芯が通ったやつだと、知っていた。


「……二人で金貯めて、俺が定年退職して、あいつが高校を卒業したら、二人で店を始めようって、約束してたんだ。ラーメン屋をよ。……あいつの母親が残してった秘伝のチャーシューのレシピがあって。あのチャーシューだけで客が取れるからって」


 あいつが中学に上がった時に、あいつの方から言ってきた、本気の約束だった。


 二人で指切りをかわした。


 あいつが自分の口座にバイトで稼いだ金をしっかり貯めていたのを知っていた。歳を誤魔化して、いくつかのラーメン屋でバイトを掛け持ちして、修行をしていたんだってことも。


 あいつは、ワル、だったけども。


 見た目も素行もワルだったけども。


『なぁ親父! 聞いてくれよっ! 今日また俺ンに母ちゃんがいないことをバカにしてくるヤツがいてよぉ』


 自分や、家族や、友達をバカにされたら、黙っていられなくて。自分のことだけじゃなくて、自分の周りをバカにされたり、曲がったことを押し付けられたりするのが、大嫌いだった。


 だからいつも本能で拳を握ってしまう。


 それは決して良いとは言えない行為だったけれども。


『俺には母ちゃんがいねぇことを差し引いてもツリがくるくらい、すごくてカッケェ親父がいんだよっ! って、思わずケンカしちまったわ!』


 しょうもない、息子だった。


 しょもなく、自慢の息子だった。


「俺にとって、あいつ、は……っ!」


 喉が、震える。肩が、震える。


 体全体が、震える。


「自慢の、息子だったんだ」


 ポツリと、言葉とともに、雫がこぼれた。もう枯れたと思っていた雫は後から後からあふれて、あっという間に頬からあごにしたたって、随分と古ぼけてしまった礼服の上で弾けていく。


「世界中探し回ったって、あいつ以上の孝行息子がいたもんか……っ! あいつは、あいつは……っ!」


 弾けた雫は、もしかしたら男の手元にもかかっていたのかもしれない。だが男はそれでも俺の前に跪いていた。まるで伝言の返事を、俺から受け取ろうとしているかのように。


 体が、震える。心が、震える。


 息子が片付けられたと聞かされた時から凍り付いていた心が、ようやく悲しみを受け入れて、震えて泣き叫ぶ。


「俺の、唯一の宝だったんだ……っ!!」


 ずっと口に出せなかった言葉を、叫ばせる。


「何であいつが片付けられなきゃならなかったんだっ!? あいつが何をしたってんだっ!」


 俺は心の底からえた。


「あいつは何もしてねぇっ! ただ日々を懸命に生きていただけで、そんなの他の人間と同じじゃねぇかっ! 片付けられなきゃならん理由がどこにあったんってんだっ! こんなにっ……! こんなに、俺は、あいつを必要としていたのに……っ!!」


 叫びながら俺は、目の前の男の胸倉を掴み上げていた。ネクタイの結び目ごとシャツを握りしめてねじ上げれば、簡単に男は体勢を崩す。


「返せよ。なぁっ!! 俺の息子を返せっ!!」


 そのまま衝動に任せて男を揺さぶる。だが目の前の男はそれだけのことをされても一切表情を変えない。ただ気だるげに、揺さぶられるがまま。


 それがまた、俺の怒りに油を注ぐ。


 もう泣いているのか、怒っているのか、何なのか。それさえも分からない。コントロールができない。


「返してくれよっ!! ……っ、返せよぉ……っ!!」


 ただ、目の前にある漆黒の瞳が、ほんの少しだけ静かになる。


 男が動いたところを、俺は視認することができなかった。気付いた時には俺の体は宙を舞って床に叩き付けられていて、男の胸倉を掴んでいた俺の手に男の手がそっと添えられていた。


 俺を投げ飛ばしたのであろうその手は、手袋の上からでも分かるくらい、分厚くて、硬くなっていた。秀麗な顔立ちには、いっそ似合わないほどに。


 刀で人を殺してきた人間の手だった。


「……その感情を、俺にだけ向けていろ」


 衝撃が体を突き抜ける。だが不思議と痛みは感じなかった。手練れの投げ方だと、昔取った杵柄きねづかで分かった。


「間違っても、元凶に向かっていこうとするな」


 見た目以上に、俺の予想以上に殺しの技術を会得していたらしい男は、俺を静かな瞳で見下ろしていた。


 視線が、真っ向からかち合う。


 その瞬間だけ、一瞬、男がまとう気だるい空気が薄れた。


「あんたに生き延びてもらうこと。それが、あんたの息子の願いだった」


 空虚、とはまた違ううつろ。憧憬しょうけい、とはまた違う切なさ。


 一瞬だけ感情のようなものがにじんだ瞳は、すぐに気だるさで満たされる。


 男はもう、何も言わなかった。何事もなかったかのように歩き出した男は、背後を一切振り返ることなく会場を後にする。


「……」


 俺は、ノロノロと、自力で床から体を起こした。誰も俺に手なんて差し伸べてくれない。


 腰の後ろ、スラックスに差し込むようにして持ち込んでいた長ドスが、妙に重い。ヤクザだった頃からこの長ドス一本で自分と家族の身を守ってきたのに、今、俺はこの長ドスを抜ける気がしなかった。


 無様、だった。片付けられてしまった方がいいと、己で思ってしまうくらいに。


 それでも、息子は……悠斗は、言うのだろうか。いつものように、ちょっと困ったように笑って。


『死なないでくれよ』と。


「うっ……ぁ…………っ」


 お前より俺の方が、ずっとずっと、クズだっていうのに。俺よりずっと上等な人間だったお前が死んで、お前に比べるまでもなくドクズな俺が、こうしてのうのうと生きているっていうのに。


 それでもお前は、俺が死んでしまわないように、俺の命に存在理由を載せていくのか。


 俺に『存在理由』を、残していこうというのか。


「うっ、あああああああああああああっ!!」


 何かが喉から溢れて、止まってくれなかった。その何かは、慟哭どうこくという形を取る。


 床に座り込んだ無様な姿のまま、俺は息子を亡くしてから初めて、心の底から声を上げて泣いていた。

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