ちぎり

びりびりの体

5月8日

 仕事から帰って、そのままベットに倒れ込んだ。


 意識が弛んで、視界が中心から溶けていくのを眺めている。ぼんやりとした頭の中には、やらなければいけないタスクが犇めいている。炊事、洗濯、入浴、片付け、勉強、明日の準備。僕はそういう、細々した『やらなきゃいけない』に埋もれて、もう立つ気力もなかった。


 せめてネクタイだけは緩めておかないといけないと思って、首元に手をかける。首が締まりそうだ。


 結び目を解こうとしたら、指の先が少し痛んだ。


 よく見ると、右手の人差し指の第一関節に巻かれていたセロテープが少し剥がれている。


 僕はその様子に、妙に取り憑かれてしまった。なぜか、それを剥がしたくて、仕方がなかった。テープの先端を摘んでゆっくりと引き抜いてみる。すると、くっついていた人差し指の先端が、ひらりと落ちた。


 古くなったセロテープの、ベタベタとした粘着質の汚れだけが、指のちぎり目を円形に取り囲んでいた。




5月9日

 全身が重くてだるい。『しんどい』という言葉が血液に溶けて、体をめぐっているようだ。


 なんとか布団から出て、職場へ向かい、パソコン作業をする。しかし、タイピングがうまくできなかった。指の長さが違うせいだ。昨日ちぎってしまったから、うまくキーボードを押せなかった。

 だから右手の全ての指の、第一関節から上の部分をちぎった。これで全て同じ長さになった。指は短くなったが、タイピングスピードは元に戻った。




5月20日

 久しぶりに買い物に行った。

 土曜日ということもあってか、お店はどこも賑わっていた。家族連れやカップルが元気な周波数を撒き散らしていて、頭が痛くなった。


 たくさんの人に紛れるととても疲れる。スーパーのカートに食料品を詰め込みながら、人混みで自分の輪郭に小さな切れ目がたくさん入っていくのを感じていた。




 5月29日

 仕事が終わらない。一日中パソコンで作業をしたせいで、肩が痛かった。だから肩を、この間できた切れ目の部分から少しちぎった。




6月5日

 父から電話がかかってきた。

 左耳をちぎった。




6月12日

 朝から吐いてしまった。昨晩は何も食べていないのに。胃がムカムカして気持ち悪い。だから胸の辺りから切り込みを入れて、胃をちぎった。




6月19日

 体が重い。しんどい。苦しい。認識できる感情が、どんどん短くなっていく。

 ここ最近、左腕を少しずつ割くようになっていた。ちぎりはしない。ただぼーっとしながら皮膚の先端を裂いていく。ビリリ、という音が、なぜか心地よかった。




6月26日

 取引先とトラブルが起きた。たくさん頭を下げた。

 家に帰ってから、喉に言葉がつっかえているのを見つけた。なんだか気持ち悪くて、口もとに引っかかっていたそれを一気に引き出した。

 ブチブチブチ、という音がして、声帯が一緒にちぎれて出てきた。




7月3日

 体が重かった。少しでも軽くしたくて、腕を肘の先からちぎった。さすがに一気にちぎりすぎただろうか。ドサッと落ちたときは驚いた。落ちた腕はそのままフローリングに落ちて、他のゴミに塗れてしまった。最近掃除をしていないから、部屋が酷く汚い。ちぎった体がいたるところに散らばっている。




7月10日

 会社から出てすぐの交差点で信号を待っているとき、なぜか涙が出てきた。意味がわからなかった。恥ずかしかった。だから涙と一緒に涙腺をちぎった。




7月17日

 もう何日も風呂に入っていない。自分の体から変な臭いがしていた。だから鼻をちぎった。




7月24日

 家に友達が来てくれた。会うのは一年ぶりだろうか。だけど僕は口をちぎってしまっていたから、彼と何も話すことができなかった。意思疎通もろくにできないまま、彼は帰って行った。

 友達は僕の様子を見るなり、「またか」と言った。びりびりの体を見て、顔が引き攣っているのがわかった。この日、僕は何もちぎれなかった。




 7月31日

 布団から起き上がることができない。意思はあるけれど、体がまるで僕のものではないみたいに、力が入らなかった。これではどこにも行けない。じゃあ足もいらないか。両足をちぎった。




 8月2日

 どこにも行けなくなって、布団の中でスマホばかり見ていた。目が痛かった。だから目を、ちぎることにした。


 ちぎろうとして、ふと気がついた。


 これが、僕が最後に見る景色になるのか。


 酷く荒れたワンルームの部屋を見渡す。いつからほったらかしているかもわからないようなたくさんのゴミと、脱いだ服と、自分の体の一部だったものが散らばっている。


 布団をめくって、自分の体を見てみる。たくさんちぎってしまって、とても歪だった。剥がした皮膚と臓器とセロテープの跡で、身体中汚れている。たくさんの埃に塗れていて、部屋に散らばっているゴミよりも、自分の体の方がゴミらしい有様だと思った。


 指も手も腕も顔も体もみんな、ビリビリに破けて、それを何度もテープで繋ぎ直した跡だらけだ。体中もうめちゃくちゃだった。なんて汚い体なのだろう。僕は文字通りつぎはぎだった。


 なのに、安心していた。やっと心の状態が体に追いついたみたいだったから。そんな自分の思考が、たまらなく自堕落なものに思えた。


 ちぎって、貼って、ちぎって、貼って。


 罪悪感もなくそんなことを繰り返す。


 いつも言い訳ばかりしている。都合が悪くなればちぎる。その度にテープで止め直して、僕はどんどんボロボロになっていく。まさに自堕落な心に相応しい体だった。


 もう、いいかな。いらないかな。目が無ければ、こんな姿を見なくていい。脳がなければ、思考をしなくていい。命がなければ、生きなくていい。


 生きなくていい。


 その言葉だけが、今の僕にとって、救いであるように思えた。つぎはぎになって、ゴミのようになって、体と心がちぎれかかっている。命だけが宙に浮いているような感覚。体に釣り合わないものを抱えているように感じた。


 だから、もういいかな。


 いいかな。



 いい、かな。





「いいよ」


 ふと、部屋の奥から声がした。それは自分の声だった。


 歪な体でなんとか振り返ると、そこには僕よりもっと歪な形をした化物がいた。


 手足は変な方向に繋がっているし、顔はボコボコとした地面のようだ。


「いらないなら、僕がもらうよ」


 そう言いながら化物は、アンバランスな手足を器用に使って、虫のように這いつくばりながら、ゆっくりゆっくりこちらに近づいてくる。僕はパニックになって、何か叫ぼうとした。が、叫ぶことができない。そういえば口をちぎってしまった。化物はどんどん近づいてくる。逃げようとする。だが逃げることができない。僕にはもう足がない。腕も半分しかない。


 もたついている僕に、化物のグシャグシャな手が近づいてくる。化物の方が手足が長い。あの日僕がちぎった指が、足が、体が、セロテープで確かにつなぎ合わされている。化物は僕自身のちぎり滓でできていた。びりびりの体で僕の前に立ちはだかると、指とも言えないような指で、残っていた僕の右目を引きちぎった。


 ああああああああああ!


 と、心だけが叫ぶ。化物はそれを自分の右目に貼り付けた。そして破けた瞼でまばたきをしたあと、僕の姿を見て笑い始めた。


「アハハハハ!お前、こんな姿をしてたのか。やっと見えたぞ。アハハ、酷い有様だな。こんな姿で生きてて、よく恥ずかしくなかったなぁ。僕なら自殺するレベルだよ」


 化物はニヤニヤしながら、おかしな位置についた目で僕のことを見つめる。どの口が言っているのだろう。お前の方がめちゃくちゃだ。そう言ってやりたかった。お前の方が気持ち悪い、この化物め、と。だけど、僕には罵る術すらない。


 化物は僕が抵抗できないのを良いことに、残っていた体のパーツを乱雑にちぎって次々と自分のものにしていった。


 髪が、耳が、肩が、膝が。化け物に引きちぎられて、体の一部にされていく。


 必死に抵抗しようとしたけれど、どうしようもない。体が奪われていく。ただでさえ汚い体が、化け物によって、いや、現れたもう一人の僕自身によって、再び切り刻まれて、もっと歪な形に繋ぎ直される。その恐ろしい様を、まざまざと見せつけられるだけだった。


 ついに僕は自分の体のどこも動かせなくなった。化物は残った僕の左目に手をかけた。ああ、僕が最後に見る景色は、こんなものだったのか。


 ゴミのような手が近づいてきて、僕の視界は、真っ暗になった。





8月3日

 昨日のことは、よく覚えていない。それまでの記憶も、なんだかぼんやりとしていて、鮮明に思い出せない。ただ体がだるくて、思うように動かせない。まあ、それはいつものことなんだけどね。だけど生きていかなくちゃいけない。生活はいつも僕の命を圧迫してくる。この歪な体で、つぎはぎの体で、僕は今日も自分を生きていかなくちゃならない。


 それにしても、どうして僕の体は、こんなに歪なのだろうか。


 よく見ると、右手の人差し指の第一関節に巻かれていたセロテープが少し剥がれている。


 僕はその様子に、妙に取り憑かれてしまった。なぜか、それを剥がしたくて、仕方がなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ちぎり @hitomimur

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ