忘れ薬

にわ冬莉

悲しいことは忘れてしまえ?

 辛いことがあったとき

 悲しいことがあったとき

 こんな薬があったらいいのに、と思ったことはありませんか?


『忘れ薬』


 その名の通り。

 いやなこと、悲しいことだけを忘れさせてくれる薬です。

 これさえあれば涙知らず!

 いつもニコニコ笑って過ごせる魔法の薬です。


 ……そのはずだったのですが……?



 *****




「よし、完成じゃ!」


 カール博士は試験管の中の薄い緑色をした液体を眺めて言いました。

「これで誰しもが笑って暮らせる世界を作ることが出来るぞ!」


 博士の発明したその液体。

 名前は『忘れ薬』。


 悲しい記憶をきれいさっぱり忘れさせてくれるという魔法のような薬です。


「……しかし、」

 カール博士は首を傾げました。

「果たして本当に効き目があるもんじゃろうか? 試してみなければならんのぅ」


 そう呟いたものの、一体どこで?誰に?

 キョロキョロと周りを見回したところで、研究所にいるのはカール博士ただ一人。

 助手のアポロは街へ使いに出してしまっているのです。


「困ったのぅ」

 博士は試験管を片手に外へと出てみました。


 陽はまだ高く、風が心地いい午後。

 すぅ、と息を吸い込み、大きく吐き出しました。


「爽やかな陽気じゃのぅ。心の隅々まで清々しい気持ちになる」

 そして気付きました。

「おっと、いい気分になってしまっては実験にならん。いやなことが起きなければ薬の効果を試せないではないか」

 そうはいっても、いやなこと、悲しいことというのは突然やってくるもので、いつ、何時にどこで起こるかわかっていれば、そもそも忘れ薬なんて必要ないのです。


「そうじゃ!」

 博士はポンと手を叩くと、試験管を手に村へと急ぎました。


 一体なにをするつもりなのでしょう?




 カール博士の暮らしている山ノ上の研究所から坂を下り、ふもとの村へ。

 そして博士は道端に、こんな立て札を出しました。


『忘れたいことはありませんか?』


 元々ふもとの村はとても小さく、村人たちもあまり沢山はいません。

 でも、中には何か悲しいことがあり、それを忘れたいと思っている人がいるのではないかと思いついたわけです。


 通りがかる村人たちがチラホラと集まり始めました。

「博士、今度の研究はなんだい?」

「忘れたいこと? 一体なんなんだい?」

 博士は集まった村人たちにエヘンと咳払いをひとつし、薬について話し始めました。


「忘れてしまいたい悲しいことを忘れさせてくれる薬を発明したんじゃ。誰か試してみたい人はおらんか?」


 村人たちはお互いの顔を見合わせました。

「その薬を飲むと全部忘れちまうのかい?」

「いやいや、全部を忘れてしまうわけではない。悲しいことだけを忘れさせてくれるんじゃよ。これは試薬だから三日しか持たんがね」


 ザワザワ、と村人たちが騒ぎ始めました。


「へぇー、そりゃまた便利な薬だね」

「悲しいことだけを忘れることが出来るなんて、いいわね」

 そして村人の中の一人がそっと手を挙げたのです。

「ワシが試してみよう」


 それは村一番の長寿、爺さんでした。去年、大好きだった奥さん……婆さんが死んでしまって、ずっと悲しかったのです。


「飲めばいいのか?」

「飲めばいい」

 カール博士に渡された『忘れ薬』を、爺さんは一気に飲み干しました。村人たちがゴクリと喉を鳴らします。


「……どうだ、爺さん」

「悲しい気持ちは無くなったか?」


 村人たちの質問に、爺さんはにかっと笑って答えました。

「俺に悲しいことなんてなんにもないさ」


 どうやら薬は成功だったらしい、とカール博士は大きく頷きます。


「そんなら俺も。俺は怪我をしてから、好きだった仕事が出来なくなった」

「私は、兄弟のように育った犬がいなくなってしまった」

 と、村人たちの何人かが薬を飲み干します。そうして皆、にかっと笑いました。


 そこにやってきたのは村で一番悲しい子供。つい数日前に母親が病気で死んでしまった悲しい子供。


「ちょうどいいところに来た! お前こそ、この薬を飲むべきだ!」

 村人の一人がそう言って子どもを輪の中へと入れます。

「この薬を飲むと、悲しい気持ちがなくなるんだ。さぁ、飲め!」


 しかし子供は、村人にこう返したのです。

「僕は飲まない」

 と。


 首を捻る大人たちに、子供は言いました。


「好きだから、悲しいんだ。悲しい、がなくなってしまったら、好き、もなくなってしまうじゃないか」


 村人たちは驚きます。


 ニコニコしている爺さんに、村人の一人がそっと訪ねました。

「おい、爺さん、婆さんのこと、覚えてるよな?」

「婆さん? はて、誰の話だね?」


 爺さんは婆さんのことを忘れていたのです。だってそうでしょう? 婆さんのことを覚えていたら、今ここにいないことを思い出して、また悲しくなってしまうから。悲しい、を消すためには、婆さんも忘れなくちゃならないのです。


「僕は大好きなお母さんを忘れたくはない。悲しい気持ちは、お母さんをそれだけ好きだった証だ。だから僕は、悲しい気持ちも一緒に、お母さんを好きでいるほうがいい」


 カール博士は子供の話を聞き、『忘れ薬』を作るのをやめました。

 悲しい気持ちだけを消すことなんか、不可能なのだと知ったからです。


 悲しい、には理由があります。その全部をなかったことにしてしまうのは、あまりよろしいことではないとわかったのです。

 大好きな何かを想う気持ちは、楽しいばかりではないのです。好き、や、楽しい、が大きければ大きいほど、なくした時の悲しみも大きい。だからといって、全部を忘れてしまったら、自分の中の『大好き』が根こそぎぜぇぇんぶ、なくなってしまいますからね。


 ……それでも、どうしようもなく悲しくて、何もかもを忘れたいと思ったら、カール博士の研究所を訪れてみてはいかがでしょうか。

 『忘れ薬』は博士の研究室に、今でも残っているはずですから。





 おしまい

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