第6章『君を傷つける全てのものへ。』
6-1「そういうこと。」
喫茶店というのは穏やかな印象の強い場所だと思っていたが、いざ働いてみるとあまりの忙しさに目が回りそうになる。池袋駅の正面に位置しているという立地の関係もあるだろうが、何より、僕に働くという経験がなかったことが災いしていると思う。
その忙しさにも半年が経つころには慣れ初め、今ではアルバイトのなかでそれなりの階級になっていた。
昼時はホットサンドの注文が多く、パンに具材を挟んで焼き、皿に盛り付けるという工程は、最初は戸惑ったものの、慣れてしまえば大して焦るほどでもなくなった。
ブレンド、ラテ、Aサンド。調理係にオーダーを伝えるときは略称を使う。どれも檜神村では登場しない単語だ。
村にある食堂では「ブレンドコーヒー」ではなく、「ホットコーヒー」という名称だった。
外部から仕入れた鶏肉や豚肉を使うことはあるものの、ほとんどは村の食糧で完結する。現在、食糧の収穫はあまり見込めないようだから、おそらくメニューも変わっていることだろう。
いや、そもそも、外食する金銭的余裕がないだろうから、食堂が現在も営業を続けているとは考えがたい。
退勤するところだった店長から、「帰る前に秋メニュー出しといて」という指示を受け、もうそんな時期か、と感傷的な気分になった。
秋がやってきたということは、僕たちが村を出てから約一年が経過したということになる。それほどの時間が経ったとは思えなかったが、振り返ってみればそれだけの年月を積み重ねたという実感があるから不思議だ。
かごめが息を吹き返したあの日からしばらくの間、僕たちは夕作さんの家で世話になった。
とはいえいつまでも夕作さんの世話になるわけにはいかなかったので、僕はアルバイトを始めることにした。契約の際には住民票が必要だったが、それはやむを得ず父に協力を仰いだ。
その後、父の助けにより本籍を移動させ、僕は正式に檜神村の住人ではなくなった。東京に来てから価値観の相違で人間関係を築けない、ということはなかった。
認めたくはないが、幼いころから村の外に連れていってもらったおかげだろう。
決して褒められた父親ではないが、その点に関しては感謝している。あと、引っ越し費用を負担してくれたことにも。
一方でかごめは、本籍どころか住民票を取り寄せることもできなかった。村ではまだ、宮司が権力を握っている。
アルバイトを始めて半年が経過したころ、夕作さんの近くのアパートにかごめと一緒に引っ越した。必要な金額を貯めるのにはそれなりに時間が掛かったが、結果的にはなんとか彼女と暮らすことができている。
客足が少なくなってきたころに閉店作業を進め、営業終了後は掃除をした。メニューの差し替えもきちんとやって、ようやく店を出る。
帰り道は人の気配で溢れている。溶けて混ざり合いそうなほどだった。
冷たい空気を感じた。間もなく秋がやってくる。息を吸う。かごめが待つ部屋の扉を開ける。
* * * * *
かごめは案外、部屋の片付けが苦手らしい。これは同じ部屋に住むようになってから、図らずして手に入れた情報だった。僕は床に散らばったペットボトルを袋に集めながら、ついでに空調のリモコンを定位置に戻す。
「早くお風呂入っちゃいなよ」
「これ見たら入る。あと、私が片付けておくからそのままでいいよ」
「ついでだから別にいいよ」
かごめは「えーありがとう」と一度振り向いてから言い、また視線をタブレット端末に戻した。家事のほとんどを彼女に任せているが、実家にいたころの習慣からか、ものが散らかっていると気になってしまう。
しかし、かごめは洗濯など優先してやるべきことはきちんとこなしてくれる。明日のアルバイトで着る衣服はすでに、カーテンレールにぶら下がっていた。
だから僕は彼女のことを責めようとは思わないし、責める筋合いもないと思っている。
「廃棄のパン、もらってきたよ」
「やった」
「今度はちゃんと明日にも残しておけよ」
「……わかってるよ」、口籠もるかごめを見て思わず笑ってしまった。
引っ越してまだ三ヶ月しか経っていないが、そろそろ衣替えの時期だ。家具を搬入する際、冬服を奥にしまい込んでしまったことが悔やまれる。どうせ三ヶ月程度の役割であれば、わざわざ深く収納する必要はなかったかもしれない。
僕が千代に復讐を持ちかけたことについて、かごめは「千代ちゃんを助けるいい考えだった」と言った。もちろん、その背景に村人の犠牲があることもわかっていただろう。でも彼女は、それを見ないことにした。
千代はかごめを殺す気などなかった。そのことを僕たちが知り、彼女の選択を尊重するために彼女に復讐を勧めた。だからかごめは、村人の犠牲が不可抗力であると考えている。
でも僕は、千代がどう考えていたとしても、最初からかごめ様の怨念を村人へ向けるつもりだった。
名古屋で行き詰まって諦めかけたとき、僕は、「かごめならこうする」という考えを根底に選択を行った。かごめに憧れて、彼女と同じ考えを持とうとした。
しかし、彼女が惹かれていた僕は、彼女を助けるために奔走していた僕だ。かごめは言語化しなかったし、おそらくそうは思っていないだろうけど、それはかごめのために全てを犠牲にしようとした僕でもある。
かごめに憑いていた怨霊が村に戻れば、檜神村はこれまで通り、ひどい不況に見舞われるはずだ。そうすればかごめの身体は完治し、村側も僕たちを追っている余裕はなくなるだろう。
結局かごめ様は村を守る存在だと判明したが、僕が目指していた結果は変わらない。千代が村を恨む心を取り戻せば、檜神村は再び不況に陥る。
これまで、数えられる程度ではあるが、夕作さんの家に村人が訪問してきたことがあった。そのたびに夕作さんが追い返してくれて、次第にその数も減っていった。
村人たちがかごめの確保を諦めたなんてことはあり得ない。おそらく、村は緩やかに壊滅へと向かっている。だから、今ではもう、僕たちに構っている余裕がないのだろう。
このまま村が滅んでくれれば、今後、かごめは障害なく生きていける。
「柚沙、ドライヤーどこやった?」
かごめの声がして、思考の世界から意識が引き上げられる。声のほうを見やると、洗面所からかごめがこちらを覗いていた。軽く謝り、部屋に放置していたことを伝える。
かごめが髪を乾かしている間、急激な手持ちぶさたを感じて彼女をぼうっと眺めた。あのときに比べて肌の発色はよくなり、見た目は健康そのものだ。
何日かけても千代はかごめを蘇生できなかったのに、あの一瞬で治すことができたのは、おそらく村を守るために割いていた力をかごめの治療に集中したからだろう、というのが夕作さんの見解だった。
父や兄に何が起ころうと、かごめさえ無事でいてくれるならそれでいい。僕はすでに覚悟を決めていた。
現在の村がどうなっているのかはわからない。あの地はすでに、千代によって荒らされている可能性もある。引っ越しの際、伊柄家の家業が倒産したと聞いた。
檜神村が壊滅するまで、あと少しだ。
かごめ、かごめ 新代 ゆう(にいしろ ゆう) @hos_momo_re
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます