5-4「命と魂の存在意義」

 少女の頬は涙で濡れていた。日の光に照らされて光沢を帯びた頬は、ほんの少し、紅潮している。僕が息を呑んで立ち上がるまでの間、少女の嗚咽が辺りの空気を静かに揺らしていた。


「君が、かごめ様……」


 少女は両手で順に目元を拭ったあと、一度迷うような素振りをして、それから首を横に振った。夢で見た白装束ではなく、飾りの付いた巫女の衣が風に靡く。


 正体を尋ねたところでしゃくり上げた状態の彼女が言葉を紡げそうにはなかったので、僕は黙ったまま少女が落ち着くのを待った。


 やがて彼女はしゃがみ込み、落ちていた木の枝を手に取った。木の先端が地面に触れ、弱い圧力で土を掻き分けながら、文字を綴っていく。しばらくして、「千代」という文字ができあがった。


「千代ちゃん。うん。知ってる」


 少女の前にしゃがみ、視線を合わせてかごめが言った。千代、と僕も名前を読み上げる。千代は僕とかごめを順に見やったあと、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間に景色が溶けて、僕たちの前から祠が消えた。


 僕たちは村を見渡せる丘に座っていた。葉の隙間からしか見えなかった空は視界いっぱいに広がるようになり、点在する雲のたしかな立体感まで、鮮明に見渡すことができる。


 千代はなかなか泣き止まなかった。慰めようにも彼女に掛ける適切な言葉は見つからなかったので、僕は眼下の景色を見下ろしながら彼女の涙が乾くのを待つ。村を正面に座った僕の隣、かごめが千代の背中をさすっていた。


 一応は末っ子として生まれたためか、子どもの相手はあまり得意ではない。かごめが人情に厚い性格で助かった。


 丘からは村の様子がよく見えた。三〇〇人程度の小さな村とはいえ、檜神村はそれなりの広さがある。山だけではなく、平地に立つ森林の面積も村の広さに一躍買っているのではないだろうか。


 穏やかな眺めだった。小さな雲の影が田畑を移動し、しばらくすると、山の陰に溶けて消えた。車の音も電車の音も聞こえない。排気ガスのむせ返るような匂いもない。


 木々の風に揺られる音が優しく鼓膜に染み込んでくるようだった。


 こんな穏やかな場所で、生贄の文化があったなんて信じられない。強大な怨霊の存在だって、全く感じられなかった。


 村を貫通するように路地が伸びていて、その端には鳥居が建ち、檜神神社へ続いている。鳥居から視線をずらすと、森の木々から顔を出すように本殿があった。


 祠がある空間はさほど広くないのか、丘からは木に隠れて姿が見えない。


 千代の頭には鈴の髪飾りがあって、それは、夢で見たままの姿をしていた。彼女が涙を拭って、その拍子に鈴が音を立てたとき、なるほどと思った。今まで曖昧だったものが、すっと腑に落ちた気がした。


 父の予想は正しかった。


「そっか。村を呪ってなんかなかったんだ」


 千代が驚いたように顔を上げるのと、かごめが「え?」と訊き返すのは同時だった。


 巫女の死体には村を守る力が宿るという。だから有事の際には巫女が生贄として捧げられてきた。かごめも千代も、その一員で、被害者だ。


 彼女の死後、村の状況は好転するどころか悪化した。だから、本来であれば村を守るために宿った力を、千代は復讐するために使ったのではないか。それが当時の村人たちの考えであり、僕たちが立てた予想でもあった。


 でも、怨霊というのは、彼女の死後、村人たちが勝手に与えた属性に過ぎない。


 ここにいるのは村に復讐を考えたおぞましい怨霊なんかではなかった。その正体は、村を守れるほど強大な力なんて宿らなかったのに、それでも村を守ろうとした、ただ不器用なだけの少女だ。


 彼女はずっと自分の存在に意味を見出したかった。誰かから認められたいだけだった。


「かごめを助けようとしてくれてたんだよね。そのために、僕を誘導してくれた」


 千代は濡れた目をさらに潤ませて、ゆっくりと頷いた。かごめもそれで察したのか、「そっか」、囁くような声で呟く。かごめが千代の頭を撫でるたび、柔らかそうな黒い髪がしなやかに流動した。


「ごめんね。気づくのが遅くなっちゃった。そっか、そういうことだったんだ」


 副次的な目的ではあるものの、たしかに彼女は村を救いたかった。でも力に限界があり、かごめか村民か、選ぶ必要に迫られた。そしてかごめを救う選択をした。


 千代の視線が僕のほうへ向き、それから時間をかけて降下する。憑きものが落ちたような顔を見て、確信した。彼女には最初からかごめを殺そうという意思はなかった。


 この空間では、時間がゆっくりと流れていた。視界のどこを探しても僕たちを急かすものはなにもなかった。僕は生まれて初めて、夢の世界から出たくないと思った。


 千代とまた目が合ったとき、村から逃げた理由を訊かれた気がした。実際に彼女が口を開いたわけではないし、その目に明確な疑問の色が浮かんでいたわけではないが、なんとなく、そんな気がした。


 それはかごめも同様だったようで、視線をずらした先でかごめと目が合った。彼女はじっと僕を見つめて笑うから、回答権を僕に寄越したつもりなのだろう。


 たしかに彼女を連れ出したのは僕のほうだ。権利というより、答える義務が僕にはあった。


 やろうと思えば、千代にだって村を出る選択肢があったはずだ。でも彼女はそれをしなかった。なぜなら彼女は自分の役割を放棄してまで、一人で生きる理由がなかったからだ。


「いろいろあったけど、改めて考えれば、理由の一つに生きる意味が欲しいっていう気持ちがあったんだと思う。かごめを助ければ、僕自身に明確な役割ができるから」


 千代は、村人に認められなくても、それが自分の役割としていつか報われる日が来ることを信じ、長い間村を守り続けた。そうしなければ彼女は、自分の存在に意味を見い出すことができなかった。


 僕はたしかに、諦めを前提に村を出た。でも、彼女と一緒に自由を謳歌する未来を思い描いていたのはたしかだった。僕の失態は、現状を改善してでもその未来を実現させようという意思を持てなかったことだった。


「それに、何より、どうにもならないって考えてる自分を肯定したかったんだと思う」


 言葉を紡いだとき、ほんの少し、注意しなければ気づけない程度に、千代の口元がほころんだ。


 どうにもならないから、諦めるしかないという思考の元、そういう選択を続けてきた自分を肯定してあげたかった。


 彼女も僕と同じ痛みを抱えていると確信があった。世の中には自分の力だけではどうしようもないことがたくさんあって、抗う力を持たない僕は、流れに従い、自分の運命を受け入れるしかなかった。


 悪い状況の中で、最低限をつかみ取ることが、弱者に残された唯一の救いだと思っていた。


 でも、どうしても幸せに生きる未来を考えてしまう。


 千代の半生を夢で見たときから、どうすればかごめを救えるのか、考えていた。ここからは僕の役割だった。「そういう強さに、惹かれてる」、彼女の言葉を思い出す。


「……立ち向かうのって、どうしても勇気がいるよね。どうしようもないことってたくさんあるよね。だって、状況が悪くなるかもしれないし、もっと酷い目に遭うかもしれない」


 声が震えた。目頭に涙の気配が湧いてきたとき、まるで自分を諭すために言葉を紡いでいるみたいだと思った。実際、そうなのかもしれない。


 生きていれば手の及ばない理不尽がたくさんあって、抗いたくても、自分の力ではどうしようもないことが波のように押し寄せてくる。


 力が及ばずそれを受け入れ続けなければならないことが、悲しくて仕方がなかった。


 救いの手なんて、期待しているときは誰も差し伸べてくれなかった。だから、苦しくても、どうにかするためには他でもない自分が、現状を変えるために立ち向かわなければならなかった。そうするしか道は残されていなかった。僕たちが救われる唯一の手段だった。


「だから、復讐、しよう」

「えっ」


 かごめの素っ頓狂な声が隣で聞こえる。それでも構わず言葉を続けた。


「……わざわざ村を守ってやる必要はない。自分を蔑ろにする人たちに、身を削って尽くす必要なんてないんだよ。僕だって協力する」


 鹿宮さんも言っていた。自分を無下にする親の言うことなんて聞かなくていい。その通りだ、と思う。


 千代は村のためにこれだけ尽くしてきたのに、それが報われないなんて酷い話だ。それこそ、割に合わない。僕にとってもかごめにとっても、収支は一致しない。


 僕を見つめる千代の目にはは明らかな戸惑いの色が浮かんでいた。そこには小さい身体では到底受け止められないだろう不安が伝わってくる。彼女にとって僕の提案は、村を守るという自身の役割を放棄するようなものだった。


「……一人を幸せにできるだけで、立派な生きた証だと思う」


 消え入るような声で、かごめが言った。意外だ、と思った。でもかごめの言葉を聞き、なぜか僕まで、満たされたような気持ちになった。


 瞬間、意識が重力に引かれるような感覚に襲われた。夢から覚める直前のような心地だった。


 景色がぼやけて、端っこからほつれていく。その光景を見ながら、僕は少女の名前を呼んでいた。自分の声が遠くなり、次第に、何も見えなくなる。


 途中、心に明確な痛みが浮かんでいた。


 ずっと誰にも認められずに一人でいるのが苦しくて仕方がなかった。恐れられ、抑えきれなかった不況を自分のせいにされ、存在意義として縋っていた自分の役割さえ正しいのかわからなくなっていた。


 千代が抱えていた悲しみが心の中で溶け合って、次第に薄れていく。


 思わず手を伸ばしたとき、僕は、ベッドで上体を起こしていた。天井から降り注ぐ照明の光に目が眩み、自分が座っているという感覚がわからなくなる。


 横に夕作さんが立っていた。目を丸くしてしばらく僕を見つめたあと、微笑んで、小さく頷く。


「おかえり」

「ただいま、です」


 隣のベッドに視線を送る。かごめが薄く目を開くところだった。細いコードで彼女と繋がった心拍を表すモニターが、小さな波から始まり、たしかな脈動を刻み始める。思わず、僕はベッドを飛び降りた。かごめの手を取ると、そこにはこれまで感じられなかった彼女の体温があった。衝動的に、彼女の背中に腕を回す。


「私が蘇生措置をするまでもなかったね。とりあえず、私は席を外そうか」


 夕作さんはそう言い残し、おもむろに部屋から出ていってしまった。気を遣わせてしまった、と考えてから少し恥ずかしくなってきた。


「柚沙、千代ちゃんは……」

「わからない」

「そっか」


 彼女は村に戻り、僕が口にした「復讐」を開始したのかもしれない。そのうち、父も兄も、村の誰もがその毒牙にかかることだろう。


 でも、今、僕の目の前にはかごめがいる。息を吸い込み、吐き出す。肌の触れ合っている部分から絶えず熱が流れ込んでくる。それだけで充分だった。かごめはもう一度、「そっか」と言い、僕の背中に手を回した。


 身体が、熱い。かごめがぽつりと呟いた。耳に彼女の吐息が掛かって、くすぐったかった。

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