5-3「魂の祝福」

 ひどくリアルな夢の世界にいた。足元には雑草の生えていない一本道があり、僕は目的のないままひたすらに足を動かしている。歩いても歩いても道は続いていて、代わり映えしない景色に目眩がした。


 来た道を振り返ったとき、そこに木製の家屋と農作業に勤しむ人々の姿があった。気づけば視界が低くなっていて、正面を向き直ったそのとき、「どこに行っていたんだ」、目の前で背の高い老人が僕に手を差し出す。


 僕は、と出そうとした声が固まる。ひどい眠気がしていた。意識が空気中に溶けて、自分という存在が希薄になっていく。そうだ、自分は千代という名前だった。


 これまで一体、何をしていたのだろう。早く神社に向かわなければならないというのに。


 おじいさんの手を握り、ひたすらに神社への道を歩いた。


 今年の祭事は生贄を捧げる儀式を執り行うとのことで、本殿の裏側、木々の拓けた区画に臨時で祭壇を設けることになった。その側には石製の祠が作られ、注連縄や紙垂が施されている。


 祠には、母がかつて使っていた大幣が納められていた。


 空は赤く、不気味な色をしていた。夕日は生い茂る上空の葉で遮られ、光の当たらない木々は黒く、空間自体にこびりついて見えた。


 白装束に着替え、準備をしている間に、村人は祭壇の前に集まってきたようだった。よく見ると隠居の者までおり、人数からして、村に住む者の全員が集まったことが窺える。これから自分が死ぬ、ということがよくわかった。


 おじいさんが毒酒を差し出し、それを受け取る。口を付けようとしたとき、鈴の音が聞こえた。違う、と思った。


 僕は千代ではない。伊柄柚沙だ。これは夢だ。それまで霧散していた自分という存在が、一気に凝縮していくのがわかる。


 狭まっていく視界とは反対に、僕は身慣れた視線の高さを取り戻した。ここで死ぬわけにはいかない。それで夢が終わってしまえば元も子もない。


 厄なんてものはない。あれは地形や風土がもたらす災害だ。


「何をしている?」


 背後で白髭の老人が言う。村民の困惑したような視線を受けながら、僕は祭壇で上体を起こす。白装束の首の後ろを掴まれ、身体が反り返る。力ならたぶん、老人には負けない。


 僕が勢いよく身体を振ると、老人の手は簡単に離れた。


 火の付いた蝋燭をなぎ倒し、祭壇から飛び降りると、麻の布と木でできた祭壇は簡単に燃え広がった。老人は慌てたように払おうとしているが、そのたびに火は勢いを増した。取り押さえに来た村人たちを振り払い、裸足のまま森の奥へと駆ける。


 危ないところだった。この夢は死んだらそこで終了する。もう一度眠ろうにも、僕たちが何かを企んでいると気づかれれば、かごめ様は夢を見せなくなるだろう。


 そもそもこの夢はかごめ様が見せようとしているものなのかは疑問だが、保険をかけておいて損はない。


 実際は最初が勝負だった。前回の夢のとき、あの老人に声を掛けられるまで、僕は自我を保ったままだった。コントロールが効かなくなったのは自分が千代であると自覚し、白髭の老人について行ってからだ。


 だからチャンスがあるとすれば、意識が完全に千代に置き換わる前だと考えていた。それなのにこうして入れ替わってしまうなんて情けない。


 千代が僕たちを自分の代わりにしようとしているのであれば、どこかでその様子を見ているはずだ。夢の世界の外側にいられたらそこまでだが、なんとなく、この村のどこかにいるという確信があった。根拠はないから、勝手にそう思わされているだけかもしれない。


 居場所の予想はまるで付かなかったが、僕は千代を探して森を走り回った。


 あの瞬間に鈴の音を聞いたのは幸運だった。幸運だったが、また自分は導かれているような気がしてならない。


 前回の夢のとき、鈴は鳴らなかったはずだ。夢の外で夕作さんが鳴らしたという可能性もあるが、そんな偶然は起こり得ないだろう。彼は僕たちの夢をリアルタイムで把握しているわけではない。


 これまで鈴を聞いたタイミングを考えてみる。最初は境内で弁当を食べているときだった。それから、死んだかごめを発見したとき、事故に巻き込まれたとき、名古屋ではぐれたかごめを探しているとき。


 うち二回は僕をかごめの元へ誘導するようだった。事故のときも、僕とかごめだけほとんど無傷だった。座っていた位置の関係かもしれないが、かごめ様は僕たちを守ってくれていたのではないだろうか。


 その瞬間、足元が沈み込んだようになり、危うくバランスを崩しそうになった。目の前には木々の途切れた空間が広がり、芝生の地面に、一人の少女が座り込んでいる。


 彼女が振り返り、四つの目と視線が交差した瞬間、脳を直接揺らされたような衝撃があった。


 薄れた視界のなか、地面に近づいていくのがわかる。夢の中で意識を失うと、どうなるのだろう。


 * * * * *


 気づくと僕は祠の前に座っていた。


「えっ」


 飛び込んできた情報や座った状態の体性感覚を処理するのに一瞬脳がショートしたようになり、危うくバランスを崩すところだった。正面には森が立ちふさがり、しばらくの間、妙な閉塞感に圧倒されていた。


 夢のなかにありがちな、唐突な場面展開だと理解してからは情報の整理が追いつき、頭の中は次第に眠りから覚めたような清々しさが広がるようになった。


 夢のなかにいるときはそこが現実であると信じて疑わないけど、ここには、目が覚めたあとに「ここは現実」と思うような鮮明さがあった。


 先ほどまでの殺伐とした夜の世界は消えて、黄色い太陽に照らされるだけの、穏やかな森の景色がそこにあった。


「あ」

「え、かごめ?」

「柚沙?」


 祠を挟み、僕たちは互いに背を向ける形で座っていたようだった。かごめは周囲を見回し、困惑した表情を浮かべている。彼女も僕と同様、あの夢から逃げてきたのだろうか。


 彼女の姿を見て気づいたが、僕たちは白装束ではなく、病院へ向かうために袖を通した普段着に身を包んでいた。これまで見たことのない展開に、軽い焦燥が生まれる。


 生贄になることを振り切ったことが引き金となり、夢に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。


「その……、夢の中、だよね? これ」

「たぶん。病院にいたはずだし」

「そうだよね」


 何者かが僕たちの意識を奪って東京から檜神村の祠に運ぶことは、理論上は可能かもしれないが、そうする理由はない。それに、夕作さんの立ち合いの元、僕たちは病院で眠りに就いたはずだ。


「柚沙も夢の中で、その、死んだの?」

「え? いや、逃げてきた」

「逃げてきた?」


 かごめが怪訝そうな表情をする。口ぶりからして、彼女はいつも通り白髭の老人の手によって首を絞められ、殺されたのだろう。かごめに逃げてきた経緯を説明したところ、「どうやって?」という当然の疑問が返ってきた。


「だって、夢の中では千代ちゃんの意識になって、自分のこと、思い出せなくなる。心も記憶もあの子のものになってたでしょ? どうやって戻ったの?」

「鈴の音がして、その瞬間に思い出した」

「鈴……」

「うん。聞いたことない? 神社の祠の近くとか、あと、事故の時とか」


 かごめは考え込む素振りを取ったあと、ゆっくりと頭を横に振った。


 考えてみると、不可解な点がある。なぜ取り憑かれているかごめではなく、僕に鈴の音が聞こえていたのだろうか。それも、どうやら僕にしか聞こえていなかったようだ。


「もしかしたら――」


 顔を上げた瞬間、かごめの背後に立つ人影を見て、紡ぐはずだった言葉が霧散した。かごめは僕の反応でその存在に気づいたのか、勢いよく後ろを振り返る。そこに立つ年端もいかない少女が、ゆっくりとかごめに視線を移した。


 少女らしいまん丸の目と、裂傷のような細い目。それがかごめ様であることはすぐにわかった。

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