5-2「ちょっと寄り道」

 ドライヤーで髪を乾かしてリビングに戻ると、すでに夕作さんの姿はなかった。


「先に行って準備してるって」


 病院経向かう途中で先ほどの会話の内容を説明しようと思っていたが、ありがたいことに、夕作さんが家を出る前に説明してくれたらしい。


「早いね」


 夢から覚めたあとに蘇生措置が間に合うよう、僕たちは病院で眠りに就くことにした。病室は夕作さんがなんらかの理由を付けて手配してくれるようだった。


 夢の長さや見ている時間は定かではないが、昼寝やうたた寝にさえあの夢はついて回る。大がかりな準備をしたのに夢を見ませんでした、ということはきっとないだろう。


 軽く準備をしたあと、病院を目指すために夕作さんの家を出た。いつの間にか自分のもののようになっている合鍵を使い、きちんと扉を施錠する。目に見える変化があるわけではないのに、匂いや風の質感から、冬の夜らしい気配を感じた。


 鼻の奥に詰めたい空気が沁みて、痛い。


 夜と昼の街並みは、存在する世界ごと違っているような気がする。昼間の喧騒と、夜の静けさは共存できない。暗くて静かな景色を眺めている間、昼間の明るい街並みが記憶から薄れていく。


 かごめは「平気」と言っていたが、今にも閉じてしまいそうな目や足を引きずるような歩き方から判断するに、万全の状態とは言えないだろう。


 布の隙間から冷たい秋の空気が浸透して、身体の表面から体温を攫っていく。「寒いね」とかごめが言ったので、僕は迷いなく彼女の手を取った。間もなく十月が終わる。


 今では彼女の肌の柔らかさを感じ、心を落ち着ける余裕がある。僕たちの関係も変化してきていて、そのことが寂しくもあるけど、それ以上に自分が必要とされているという居心地の良さがあった。


 かごめ様は僕と同じ痛みを抱えて生きてきたはずだ。誰からも必要とされず、でも自分のために生きていてはいけないような気がするという、どうしようもない思考。誰かに必要とされて、役割を与えられ、そこまでしないと自分の生を許容することができない。


 彼女は、自分の生きる意味を求めていた。


 自分を保って生きるためには、抑えつけられている状況を打開する必要があった。でも、僕も父も、そしてかごめ様もそれは叶わなかった。強大すぎる相手を前に、自分の運命を黙認し、受け入れるしかなかった。


 抗うためには、何かを犠牲にしなければならない。僕はこの犠牲が嫌だった。上手くいかなければその犠牲は、ただの無駄死にになってしまう。


 僕はおそらく、自分がかごめの命に決定打を与えることを避けたがっているだけだ。かごめの命の責任を負いたくないだけだった。


 本当にこのまま、あの夢の世界に戻っていいのだろうか。怨霊の行動には一貫性がない。何か重大な見落としをしているのではないか、と考えてしまう。


 思いついて口にしたはいいものの、そもそも僕が夢の中で少女を説得したとして、別の夢の世界にいるかごめの側にまで影響するものなのだろうか。


 このまま全てが終わったとして、僕は今後、どうすればいいだろう。村に帰らなければならないだろうか。


 かごめの逃走を幇助し、そのせいで村人が数人、命を落とした。帰郷を喜ばれるとは到底思えない。かごめ様を祓ったところで、村は厄に襲われ、状況が好転することはない。


「柚沙」

「あ、えっ? どうしたの?」

「ちょっと寄り道していかない?」

「体調、大丈夫なの?」

「平気」


 曖昧な相槌をして、彼女に手を引かれるまま足を進める。間もなく視界に入ったのは小さな公園だった。夕作さんの家へ向かう途中に休んだあの公園だ。人は見当たらなかったので、僕たちは肩を寄せ合ってベンチに座った。


 数日しか経っていないはずなのに、あれから長い時間が流れたような気がする。その前に鹿宮さんとの出会いがあって、その前は籠原に騙されて、村を出たのがさらに前だと考えたら途方もなかった。


「寒いね。叔父さんに上着を借りなかったら凍死してたかも」

「うん、感謝だね」


 あの日は窓を開けて掃除機を掛けていた家も今はカーテンごと閉まっていて、隙間から、部屋の灯りがわずかに滲んでいるだけだった。隔絶された向こう側で、人の生活している気配がする。


「心配?」

「え?」

「夢、見るの」

「そうかも」


 誤魔化そうとして、結局素直に答えることにした。かごめには全て見透かされそうな気がした。そもそも嘘を吐くことが得意なわけではない。


「柚沙、あのね、私ね」

「うん」

「私、覚悟を決めたはずだったんだ。多くの人が助かるなら仕方ないって。でも、柚沙が必死に助けてくれようとするのを見て、自分だけの命じゃなくなったんだなって、思った」


 かごめの話し方は、その時々で言葉を探しているかのようだった。


 夜も深まってきたというのに、どこかの家からカレーのいい匂いがした。街の空気に含まれた、人の生活を構成する成分を、なんだか愛おしく思う。僕にも昔、こういう日常があったはずだった。


「……本当はね、私、村の人のこととかどうでもいいんだと思う」

「え?」


 振り返ると、かごめと目が合った。気の抜けたような、憑きもののが落ちたような表情を浮かべていた。


 彼女は村に献身的で、命を進んで差し出すほどではないとしても、僕のような放浪人に食事を与えるほどあの小さな世界を愛しているものだと思っていた。


 実際、村にいたころも彼女の評価は高かったように思う。


「私は巫女として、人を助けないといけないって思ってた。そうやって自分の役割をこなしている間、みんな私のことを褒めてくれるから。たぶん、だから私はいい巫女になりたかったんだと思う」


 自分を騙して死を受け入れたあの少女に似ている、と思った。そして根本的には僕もそうだった。僕たちは心の深い部分で繋がっていた。だから彼女に惹かれたのかもしれない。


 理由なしに生きられる強さを、僕たちは持っていなかった。互いに意味を与え合うことでしか生きられないなら、その最善をどうにかしてつかみ取らなければならなかった。


 周囲に人の姿はない。それなのに車のエンジン音は聞こえてくるし、家々の明るい窓越しに他人の生活を感じることができる。東京は不思議だ、と思う。


「幻滅した?」

「いや、全然。むしろ納得した」

「納得?」

「うん」


 彼女は村から出たあと、一度も「戻ろう」と言い出さなかった。これまでその理由を考えたことはなかったが、その背景として、かごめがさっき口にした思いとの間に葛藤があったのだろう。


「でも柚沙は安曇家の巫女じゃなくて、私のことを見てくれてた。肩書きとか役割じゃなくて、私を助けようとしてくれた。だから、私は」


 横目でかごめを見やる。彼女は正面を向いたままだった。僕は視線を足元に戻し、言葉の続きを待つ。たしかに砂利を踏みしめる自分の靴の横で、かごめはぶらぶらと脚を揺らしていた。


「だから私は、柚沙のことが好きなんだと思う」


 心臓が大きく跳ねて、次に高所から転落するみたいな浮遊感があった。


 いつまでもなくならない浮ついた気持ちを、僕は隠すことができないままかごめの言葉に頷く。


 何か言わなきゃ。そう思うほど言葉が遠のいていく。


「顔、赤い」


 下から僕を覗き込んでかごめが言った。「暗くて見えないでしょ」と返したはずだが、きちんと言えたかはわからない。「えー」と言った彼女の笑顔にまた、喉が震えた。


「柚沙のおかげで、初めて自分のためにやりたいことがたくさんできた」


「やりたいこと」、と繰り返す。「うん」、かごめは僕の目をじっと見つめて、穏やかな笑顔のまま頷いた。


「覚えてる? 鹿児島の駅で水族館に行きたいって言ったこと」

「覚えてるよ」


 村から何時間も歩いて逃げてきたあとのことだ。駅の改札に向かう途中、水族館の広告を見たかごめが、「水族館?」と歩幅の広い声で言っていた。それから、「いつか行きたいな」とも。


「明日、行こうか」

「行けるかな」

「大丈夫」


 自分を鼓舞するため、そしてかごめを安心させるために僕は強い言葉を使った。かごめはそれを見抜いたようで、「柚沙」、少し困ったように笑った。


「あのね、私は一回死んだんだよ。だから失敗しても、大丈夫」


 巨大なマンションの陰に、まん丸の月が覗いていた。どこを見ても人工光がある都会の中心でさえ、月はかなり目立って見える。かごめの言葉に頷いたとき、僕は自分が東京に来てから初めて月を見たことに気づいた。


 彼女の言葉は、血管の鋭く波打った部分に優しく染み込んだ。


 僕はこれまで、諦めを前提にしないと自分の行動を決めることができなかった。どうしても諦めを根底に敷かなければ、恐怖に打ち勝つことができなかった。


 簡単なことだった。諦めることしかできないのであれば、そういった選択を諦めの上に成立させればいいだけの話だった。一度死ぬはずだったのは自分も同じだ。これはかごめを死なせないようにするものではない。一度死んだかごめを生き返らせるための挑戦だ。


 それに、彼女を連れて村を出た瞬間から、僕は一人ではなくなっていた。


「かごめ」

「ん」

「全部終わったら、一緒に暮らそうよ」


 気づけば僕は彼女と手を繋いだまま立ち上がっていて、それが移動再開の合図のようになっていた。かごめは少しの間驚いた様子で僕を見つめたあと、少し笑って、一度顔を伏せてから、「そうしよう」と言った。


 かごめと目が合って、どちらも逸らさないまま笑い合ったとき、今ならなんでもできると思った。


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