第5章『悲しみを受け継いでいかないといけない。』
5-1「命の重さ」
その日、夕作さんが仕事から帰ってきたのは午後七時を回ってからだった。彼はいつも帰宅してから夕食を作り、食事を終えてから洗濯や軽い部屋の掃除などを行う。しかし、居候させてもらっている身でただその様子を眺めているのは申し訳ない。
そういうわけで、数日前、かごめと二人で「家事くらいは」と申し出たことがあった。
「ルーティンのようなものだからね。自分でやらないと落ち着かないんだ」
僕たちの言葉に、夕作さんは笑いながら言った。それでも何もしないわけにはいかない。頼み込んだ結果、最終的に、皿洗いと風呂掃除をやらせてもらえることになった。
皿洗いは意外と工夫が必要だ。洗う順番を考えないと油汚れが他の食器に移るし、シンクにおける皿の配置も重要だ。幼いころから培った独自の手法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「もしかしたら、かごめ様を説得できるんじゃないかって」
僕が話を切り出したのは、食事と皿洗いを済ませ、リビングのテーブルで夕作さんが出してくれたお茶を啜っているときだった。
「説得?」、隣の部屋で眠るかごめを起こさないようにするためか、夕作さんは抑えめの声量で言った。
昨夜、容体が急変したかごめに対し、夕作さんは鎮痛剤を飲ませるなどの処置をしてくれた。しばらくしてかごめは落ち着いたものの、夕作さんが悔しそうに言った
「もう長く持たないかもしれない」という言葉がいつまでも頭から離れなかった。
僕たちは早急にかごめを救う手立てを用意しなければならない。そこで僕が思いついたのが、かごめ様を説得するという案だった。
「かごめを殺さないように、って」
「何か、勝算があるのかな?」
夕作さんは穏やかな口調でそう言うと、両手で包み込んでいた湯飲みを持ち上げ、静かにお茶を啜った。
「かごめ様が恨んでいるのは村の民であって、かごめ本人ではないんです」
この場にかごめがいたら、すぐさま僕の意図を感じ取って顔をしかめただろう。でもそのかごめは今、隣の仏間で眠りに就いている。
口内を潤したあと、僕は話を続けた。
「昨夜、いつもと違う夢を見ました」
「どんな?」
「かごめ様の元になった千代という女の子の半生についてです」
僕が夢の内容を要約して説明すると、夕作さんは「なるほど」と呟き、仏間のほうに視線を向けた。
前々から夕作さんには夢の内容を逐一報告していた。かごめを治療する役に立つかもしれないからだ。
しかし大体は同じ内容の夢であり、その順番にもあまり一貫性を感じられない。それに夢という不安定さもあり、有用性を見い出せないというのが現状だった。
僕はここに来て、新たな内容の夢を見た。おそらく、かごめも同じだろう。これは何かしらの変化の予兆かもしれない。規則性はまるで見い出せないが、その変化というのが僕たちにとって有利に働く可能性は低いと考えたほうがいいだろう。
例えば、もうかごめを殺すことに決めた、とか。
「あの女の子は、かごめと似た運命を辿っているんです。同情を誘えれば、かごめを助けられるかもしれない」
「……なるほど」
夕作さんは、僕に対する返事というより、意図せず言葉がこぼれ落ちたような言い方をした。湯飲みを包んでいた手を口元に移動させ、夕作さんが考え込むような素振りをする。僕は黙って彼の返答を待った。
死んだはずのかごめがこれまで動けていたのは、間違いなく千代の呪いの産物だ。上手くいけば、かごめの身体を元に戻すことだって可能かもしれない。
でも、楽観的に考えてはダメだ。一手を誤れば、それが致命傷になる可能性もある。
「やってみる価値はあるかもしれない」
「でも、かごめ様を祓えたとしても、心臓が止まったままだと、たぶんそのまま……、ですよね」
死ぬとか殺されるとか、かごめ本人の前でなくても口にするのは憚られた。夕作さんもそれは同じだったようで、「うん、危険だね」目を伏せたまま言う。
昨日の検査の結果、かごめの身体は死後間もない状態であることがわかっている。たしかに死後硬直や死斑、腐敗といった死体に特有の性質は一切見られない。
昨夜、一連の検査結果を説明した夕作さんは、口にしたばかりの「死後」という言葉を否定した。
脳波の測定には成功したことから、この家に来たときに夕作さんが口にした「仮死状態」という予想は正しいと言えた。それに、一部の消化器官も活動を続けているらしい。
ただ、呪いという仕組みのわからないものが関与している以上、一度死んでから活動が再開したのか、そもそも死んでいなかったのかを判別することはできない。
「それで、夕作さんには、僕がかごめ様をどうにかしたあと、かごめの蘇生を任せたいんです」
「なるほど。それはたしかに、私にしかできないね」
「すみません、責任の重いこと任せちゃって」
「いや、いいんだ。むしろ私の力が及ばず、結局君たちに任せることになってしまった。申し訳ない」
夕作さんの言葉が終わると同時、「あれ……」、かごめの眠たそうな声がした。夕作さんに続いて、僕も仏間に視線を向ける。かごめは頭を抑えながらゆっくりと起き上がった。
「体調はどう?」
「……頭は痛いけど、昨日よりは」
彼女はそれだけ言い残してトイレに行ってしまったので、僕たちは話を再開することにした。ふらついた足取りのかごめが心配だったが、トイレまで付いていくわけにはいかない。
「かごめ様がいなくなったら、檜神村はどうなりますか?」
「どうなるかな。正直なところ、わからない」
わからない、と言い切る前に夕作さんの目が揺れた。そう言いつつも、夕作さんはわかっているのだと思う。厄の効果を軽減していたかごめ様という存在がなくなれば、村を襲う厄は今以上に勢力を増すことだろう。
結局夕作さんは口にした以上の説明をすることはなかったし、僕も追求しなかった。
なるべく早いほうがいいということで、実施は今夜に決まった。病院の関係者には話を通しておくとのことで、夕作さんが電話をしてくれている間に僕は風呂を済ませることにした。
着替えを用意し、風呂場の扉を開けた。白い樹脂素材の床には昼間に掃除をした際の水が残っており、足先が触れると背筋を這い上がるような冷たさを感じた。
シャワーの最初に出る冷水をやり過ごして、やがて湯気を上げるようになった水を頭から被る。シャワーの水は、いつもより温度が高いような気がする。
染みついた動きのおかげで、考えごとをしながらでも髪を洗うことはできた。高い位置にシャワーを引っかけ、シャンプーを流しながら考える。もし、上手くいかなかったら。
考えても仕方がないけど、それでも考えてしまう。思考を思いのままに操れたことなんて一度もなかった。
改めて、かごめの命を預かるという責任が重たくのしかかる。
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