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たってぃ/増森海晶

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 ザー……ッ。


 雨だ。雨が降っている。

 私は布団の中で、身体をもぞもぞさせながら目を覚まそうとした。


 ザ……ザー……ッ。


 ヤバイ。起きたくない。

 雨音の激しさが、外の様相を雄弁に物語る。

 土砂降り一歩手前の勢いがある雨。

 とするのなら、電車は通常どおりに運行して、車内は籠る湿気と、いつもながらの満員の人間……しかも、みんな傘を持っている状態なのだ。

 雨音が想像力を刺激して、想像の中の私が疲れた体を引きずり、バッグと傘を持ちながら電車内で右往左往している姿が見えてくる。


 ザー……ッ。


 やっぱり、起きたくない。

 有給がかなりたまっているはずだ。10連勤もしているし、私が休みたいと言っても誰も文句なんて言えないはず。


 ザ……ザー……ッ。


 はぁ。とはいえ、一度起きて、会社に連絡をしないといけない。

 それすら億劫だ。目も開けられない。

 雨音が私のやる気を吸い上げているのだろうか。

 雨音を聞けば聞くほど、起きる気力がわかず、私の身体は布団から出ることはない。



 ザー……ッ。


 やっぱり、起きて有給の連絡しないと。無断欠勤はさすがにヤバイ。

……けど、どうすれば。


 ザ……ザー……ッ。


 そうだ。これが雨音だと思わなければいい。確か、ドラマの収録シーンで、フライパンで食べ物を炒める音を、雨音にSE効果音として流用していたことをテレビでやっていた。もう、何年も前の話だ。


 誰かが、私が寝ている部屋の、隣にあるキッチンで料理をしている。


――そんな想像。

 それが昨年に、亡くなった母だったらどんなにいいだろう。


 ザ……ザー……ッ。

 

 母は和食よりも洋食派だった。朝食はバターが蕩けているキツネ色のトーストに、カリカリに焼いたベーコンとふわとろのスクランブルエッグ。スープは旬の物をふんだんに使った季節のスープだ。サラダは、お腹を冷やすという理由で作ることはなく、代わりに茹でた野菜が付け合せで出た。


 ザ…ザー……ッ。


 これは雨音じゃなくて、母さんがスクランブルエッグとベーコンを焼いている音。端の部分が次第に茶色く、ぱりぱりと焦げていて、ベーコンの隣で焼かれているスクランブルエッグが、ベーコンの油と塩味を吸い上げて、卵の味とコクを際立たせていくのだ。


 ザザー……ッ。


 あぁ、もう一度、母の料理を食べたい。

 母の味を何度も再現しようと試みたけど、その度に失敗して、何度も母がいない現実を突き付けられた。


 いや、食べたいんじゃない。

 もう一度会いたい。

 女手一つで、私を育ててくれた母さん。

 母さん、どこにいるの?

 一人は寂しい。

 一人はイヤだ。


 ザ、ザー…ッ。


 どうして私は、一人でここにいるんだろう。

 どうして私は、擦り切れるまで働いているんだろう。

 どうして私は、どうして……。


 ザーッ。


 あぁ、肉が焼ける音がする。

 肉が焼ける匂いがする。

 肉が焼ける熱気を感じる。


 ザー、パチッ!


――え?


 突然のぜる音に、私の意識が混乱する。


 なんで、肉が焼ける音がする?

 肉が焼ける匂いがする?

 肉が焼ける熱気を感じる?

 なんで私は動けない?


 ジュッ、パチッ、ザーッ!


 あぁ、そうか。なるほど。

 迫ってくる生々しい感覚に、私は一つの結論をだした。


 これは雨音じゃない。


――【私の肉体をいている音】なのだ。


 恐らく今、火葬場で私の身体は灼かれて、荼毘たびに伏されようとしている。


 ジュ、ザー、バチッ。


 そう、人体の六割が水だと聞いた。

 高温で人体が熱せられた際、全身の血が一斉に沸騰する。そこへ、焦げて硬くなった臓器と皮膚の間に、沸騰した血がぶくぶくじゅくじゅく反響するのだ。

 そうなってくると、行き場のない体液が、私の耳には大雨の雨音のように聞こえるのかもしれない。


 ザーッ。


――あぁ、なんて、まだ若いのに。


――ですけど、若者の突然死って増えているみたいですよ。最近は三十代でも油断できないとか。


――チッ。親戚はどうした。身元保証人の意味がないじゃないか。


 音に紛れて聞こえてくる、聞いたことのある声に私の意識は小さく呻く。

 まだ死んで間もないせいなのか、五感が外界の情報を拾ってくるのだろう。だから私は生きている眠っているなんて錯覚したのだ。


 ザ……ザー……ッ。


――ったく、なんてことだ。労基から指導を受けたばかりなのに!

 勝手に死んで、仕事を増やしやがってッ!!!


……わかっていた。そう、わかっていたんだ。

 私が死んで悲しむ人間なんていない。

 身元保証人だって、私が親戚じゃなければ「めんどくさい。ふざけるな」と一蹴されていただろう。


 寂しい、虚しい。

 私の人生は結局なんだったのだろう……。

 誰にも悲しんでもらえず、省みられることもなく、身を粉にして頑張っても感謝されるとこもない。


 ザーッ、ザーッ。


 いつも考えないようにしてきた。

 思考に蓋をして、見て見ぬふりをして、母の死どころか自分自身に向き合うことからも、ずっとずっと逃げてきた。


 ザーッ。ジュ、ジュ。ピッピッピ。


 けど、そんな日常とも、もうお別れだ。

 だって、私を呼ぶ声がするから。


【……ちゃん、……ちゃんッ】


――お母さんッ!

 私の意識は、母の声がする方へ溶けていった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 ピッピッピ……。


「…………よかった。患者さん、目が覚めましたよ!」


 え?


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「…………」



 どうやら私は仕事中に倒れたらしい。

 しかも原因不明の心不全突然死(多分、仕事のストレス)で、即座にAEDで蘇生処置に成功したものの、意識不明の状態が続いたとか。

 さらに運び込まれた病院での検査の結果、たちの悪い腫瘍が見つかり、腫瘍を焼き切る手術を緊急で行わないといけなくなった。

 必要な手続きは、ほとんど会社の役員たちがやってくれた。

 倒れた場所が場所だけに、会社の責任問題に発展することを恐れたからだ。

 なんとか連絡の取れた親戚に金を積んで、手術と入院の同意書を書かせて、表面的には一件落着。さらに、上司たちは労働環境を改善する、しばらく休んで良いと言ってくた。復職するか、退職するかは、私の意思にゆだねると。


 私は火葬されていなかった。助かった。現実からも、死からも。



……けど、私は助かった安堵よりも、母に会えなかった悲しさの方が強い。



「母さん」


 生死の狭間で聞いた声は、はたして本物だったのだろうか?


 目じりに涙が溜まり、塩味のする雨が降る。

 悲しさと同時に、助かったことへの安堵で、頭と心がぐちゃぐちゃだ。


 ザー……ッ。


 外では雨が降っている。その雨音が、嗚咽をかき消してくれることを願いながら、私は病院のベッドで声を殺して泣いた。


【了】

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