第34話 問答



 気づけば頭上の太陽が隠れている。

 常なら砂漠の空にあるまじき黒雲。黒闇冥々として瘴気が立ち上るがごとく。

 ここかしこに鳴る雷電の脈、螺旋を巻くは稲光いなびかり――


 にわかに陰った空の下を、闇の主が歩いてくる。

 エヴレム・カンが――屍の軍を従えるジンの魔術師が。


 主のあとを、グールの群れが大地を揺るがして追ってくる。地表を白く覆ううじさながらだ。身がすくむのを感じながら、「揺らぐな、ひるむな、あとじさるな」スッカルは言い聞かせるようにつぶやく。半ばは周囲の幕僚たちへ、半ばは自分の心へと。「逃げるにしても総崩れはまずい」


 スッカル軍からわずか二十歩のところで、エヴレム・カンがかれらに笑いかけ、


「アーダムの子らよ、人族よ」


 呼びかけは、庭園を流れるせせらぎのように快い声。

 その声で、スッカルに向けて、


「とくにそこの者たちはミスルの王奴だな。

 ミスルは好きだよ、古巣だから。

 王奴も好きだよ、あのひと・・・・が作った軍団だから」


 硬い声で、スッカルは叩き返す。

 いくつもの問いという形で。


「火炎天使よ、ジン族よ。 竜王エヴレム・カンを名乗る者よ。

 真の名をいえ――そして答えろ。なぜこの大地を死に浸す? なぜ聖都を滅ぼした? なぜ北の国々を破壊した? なぜ疫病や毒気であまたの人々を殺した? そのしかばねを積み上げて作ったあのグールの軍団はなんだ? なぜ貴様の下僕となったキプチャクたちまで、俺たちの目の前でグールに変えた?」


 エヴレム・カンは――最後の問いにだけ答えた。簡潔に。


「だって、おまえたちが草を焼くから」


 騎馬の軍は、持っていてもこの先維持できないじゃあないか。


 言外の言葉を、スッカルは受け止めた。戦慄とともに。

 司令官ウクタミシュ・ベイの命令によって、たしかに王奴軍は砂漠の数少ない草地を焼いた。敵の騎馬部隊への嫌がらせのために……それは結果として竜王軍内のキプチャク人たちを消滅させ、予想以上の成功を挙げたようだった。


 にもかかわらず、喜べない。


“ウクタミシュ・ベイの冷たさとはまた違う。

 この怪物、召し使った人族を家畜以下にしか思ってねえ”


 理解できないというように、エヴレム・カンが首をかしげる。


「キプチャク人たちの末路に心を痛めているのか? 敵だったのに?

 あのキプチャクたちには最初からグール腫を植え付けていた。いつでもグールに変えられるように……おまえたちが気に病むことはない。

 生とは死との対峙なり。生者に抗う権利あり、死には最後の勝利あり。キプチャクたちには敗北の時が来ただけなのだから」


 エヴレム・カンがてのひらを上にして手を差し伸べる。そのてのひらの上に妖印が浮き、そして、黒い小さな太陽のごとき球が出現した。


「――あれに触れるな、弓兵、弩兵、射て!」


 とっさに叫んだのはライムーンだった。

 弾かれたように、矢をつがえていた兵たちがエヴレム・カンを射る――何本かの矢はあやまたずエヴレム・カンの体に突き立ったが、そのジンは矢を無視して言葉を続けた。


「私の真名をいえと迫ったな。

 古代ミスルではアペプと呼ばれた。スライマーン王の七十二ジンのひとりだったときにはアバドオンと。スライマーン王にわが力を貸して作った竜の名をとってファールスの地ではアジ・ダハーカと称されたりもした。冥王蛇、文明破壊者、くらい淵より来る影……あまたの名をもつ生なれば、真名などもはや忘れたよ。

 さあ、抗え」



 ――〈センナケリブへ贈る罰〉。



 黒い太陽が泥のように溶けた――それは地にしたたりおちるやエヴレム・カンの周りにあふれ、黒い霧となり、地表を覆って薄く広がった。汚染するように。


「後退、後退しろ!」


 泡を食ってスッカルは命令する。だが軍勢が後じさるよりも、地を這う霧のほうがはるかに速かった。

 霧に呑まれた者の絶叫――たちこめる異臭――生きながらにして腐る人体や馬体の。

 腐食させる毒気。

 そうとしか言いようのない技だった。悲鳴と軍馬のいななきが相次ぎ、スッカル軍の前衛は浸されていた。


 ……一部を除いて。


 スッカル軍のそこかしこで毒の霧が押し止められる。毒気が流れない地点が発生する。その中心は何十人かのシキリーヤ貴族たちだ。

 愕然としながらも自然な流れとして、貴族たちのもとに兵たちが群がる。とまどう貴族たちの周りに固まっていく。黒い毒気の奔流のなか、小島のような安全地帯。

 後ろを向いたアイバクが「……もしかして」と口にする。


「シキリーヤ人どものなかの霊薬アル・イクシールを飲んだ奴らか? このどう見ても健康に悪そうな黒い霧は、霊薬を飲んだやつを侵さないのか?」


 そういうアイバク自身、霊薬を口にしたことがある。そして霧はかれに危害を与えていない。

 だが誰よりも顕著なのは……


「スッカル……おい……おまえ」


 いまや誰の目にも明らかだった。

 毒気はとりわけだれよりも、スッカルの周りから散っていく。流れない、どころか避けているような光景。さながら片端から浄化されるように。

 闇を押しのける光のごとく、かれの周りで清浄さが保たれている。霊薬を飲んだシキリーヤ人貴族たちと比べても圧倒的に。


 豹隊の仲間を守るがごとくスッカルは立ちふさがっている。

 その顔は苦虫を噛み潰すかのようにしかめられている。

 そして小声で、かれはいう。


 とうとうばれたぞ、ライムーン。


 哄笑が聞こえる。黒い霧のなかでエヴレム・カンが笑っている。

 エヴレム・カンは矢を抜きもせず、大股にスッカルに歩み寄ってくる。


「問いに答えてやろう。私は霊薬を探していた」


 その一歩ごとに、大気が揺らぐ。


「霊薬を見つけるために同族の治める聖都を滅ぼした。エヴレム・カンを名乗り大陸を毒で焼いた。はしからはしまで塗りつぶせば、わが力に侵されぬ輝きが見つかると」


 その体に突き立った矢がぼろぼろと朽ち落ちていく。

 ジンの形をした暗黒が立った。スッカルの眼前に。

「見つけたぞ」とささやきながら。


「わが天敵よ、霊薬よ。人の形をした薬の王エリクシールよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャトランジ 王と奴隷の物語 二宮酒匂 @vidrofox

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画