第33話 降臨


 この日の戦場は、ゴリアテの泉アイン・ジャールート

 その近く、丘陵に囲まれた盆地だった。


 ライムーンは敵将と向き合う。

 戦場の空間が切り取られたかのように、敵味方のだれもかれらに干渉しない。厳かでさえある、乱戦のなかの静謐な場。


 一対一の、局面であった。


 刃を交わし、すでに幾合。双方とも無傷ではない。

 舞うような歩武を見せるライムーン。その軍衣は傷ついて破れ、なめらかな肌の一部がのぞいている。かすった刃傷から血が流れ、ある種の耽美を醸し出していた。

 対する敵将はキプチャク人、腰を据えて構えたまま微動だにしない。鉄塔のようなかぶとと鉄面を着け、革鎧と鎖かたびらを身にまとい、足手は鉄靴と長手袋。キプチャクに珍しい重装の防御。


 得物は奇しくも同じく槍。

 互いに下馬しての対決だった。


 キプチャク将の鎖かたびらは、みずからの流した血でまみれている。ライムーンの刺突が繰り返しその胴体を穿ったためだ。だが、致命傷はない。鎖かたびらを貫けども与えた手傷は浅い――ジン族ははやいが、概して体重が軽い。手数に勝りながらもライムーンには、めまぐるしい攻防のなかで押し込みきれなかったのだ。

 それを見越して、キプチャク将はライムーンの刺突をあえて鎖かたびらや革鎧で受け止めながら猛攻を仕掛けてきていた。皮のみ刺させてこちらの臓腑を穿たんと。ひやりとさせられた局面は一度や二度ではない。


 技巧もさることながら、自らの命のぎりぎりを渡る勇敢な戦法。

 敵手への賛嘆を覚えながら、ライムーンは言う。


「キプチャクの将よ、哀れだな」


 静かに、切々と。


「おまえたち騎馬の民の武を、竜王エヴレム・カンはまるで使いこなしていない。

 ただただ足の速い突撃部隊扱いで、まっすぐぼくらに突っ込ませてきている。おまえたち本来の用兵なら、同行するグールでさえも足手まといのはずだ」


 そう、本来なら。キプチャク軍はもっと大局的に、戦略的に動く。機動力を活かして守りの薄いところから浸透し、伝令を使って各部隊の足並みを揃え、信じがたい長距離を駆け抜けて敵軍の虚をつく。敵の背後や横腹を討ち、ときに挟撃し、ときに包囲する。

 そんな雄大かつ緻密な戦い方を、竜王軍のキプチャクはまるで取れていない。

 はっきりいって、力の半分も出せていない。

 戦闘での弓馬の術など区々たる芸にすぎぬ。

 ましてや決闘など――遊びにすぎぬ。


「……本領を失った無様な戦い、もはや見るに堪えぬ。

 然らば終わりを与えてやる」


 ライムーンはくるくると回していた槍先をぴたりと止める。

 決着を前に、キプチャク将もまた殺気を強める。ライムーンの言葉が通じているのかいないのか、ただその鉄の面頬の隙間から獰猛なうなりが漏れたのみ。

 乱戦の狭間の静謐な世界で、互いに向けて尖らせた槍気がほとばしった。


 二条の閃光のごとき刺突の交錯。狙いは互いの心の臓。

 機先を狙った結果、刺し違えとなったのか。

 否――

 互いに攻撃を誘った。東方武術でいう後の先狙い。

 まずライムーンが、雷電のような反応速度でキプチャク将の刺突をかわす。前へ飛び込みながら身をよじり、槍先と左乳房をかすらせながらも皮一枚での回避、そして、突進に全体重をかけて鎖かたびらの奥へとこちらの槍先を――


 ばぎん。


 彼女は叩き伏せられる。

 キプチャク将の槍の柄がライムーンをとらえ、地面に這わせた。敵手の後の先。初撃が回避されるのを前提に、力任せに柄で打ち下ろしたのだ。

 まばたきよりも短い時間のうちに、ライムーンは死を覚悟する。すぐにもとどめの刺突が降ってくるだろう。

 だがとどめは来なかった。


 転がってぱっと立ち上がったライムーンは、立ち尽くすキプチャク将を見る。

 キプチャク将の胸には、ライムーンの槍が深々と突き立っている。

 やがて鉄の面頬の下からどろりと血が吐き出され、ぐらりとその身体がかしぎ、うしろにたたらを踏んでから仰向けに倒れる。


 人を含む大型の獣は、ときとして心臓を貫かれた直後でも動きが止まらないことがある。

 キプチャク将の打ち下ろしは、致命傷を負いながらのものだった。


「……見事な勇気だった、名も知らぬ人族の将よ」


 総身に汗を噴きながらライムーンは死体に歩み寄って槍を抜く。


 ――決闘が終わった瞬間、乱戦が彼女を飲み込む。


 遠巻きに見守っていたキプチャク兵たちが殺到し、彼女を馬蹄にかけようとする。


 その一瞬前に、巨大な騎影が敵兵とライムーンのあいだにたちふさがる。大剣がぶんとうなりをあげて薙ぎ払われ、キプチャク兵たちを落馬させる。

 ライムーンは見上げる。


「……スッカル」


「グールはあっちですべて息の根を止めた。あとはここのキプチャク兵だけだ」


「気をつけろ。かれらは降伏しない、最後まで戦う」


「わかってる」


 スッカルの声も重い。

 動く死体であるグールと違い、キプチャク兵には感情も知性もあるはずだ。

 にもかかわらず、竜王軍のキプチャクは降伏しない。

 最後の一人になるまで戦う。

 まるで、戦いの中で死んだほうがましとでもいうように。


 王奴とシキリーヤ兵にキプチャク軍を押し包ませながら、スッカルはかたわらのライムーンにしか聞こえない小声で罵り散らす。


「もう半月だぞ、いつまでだ? 俺たちはいつまでこんな疲れる連戦やってなきゃならねえんだ?」




 竜王軍の小部隊による波状攻撃が続いていた。

 キプチャクとグールによるその第一陣を、スッカルたちは砂丘で全滅させた。

 第二陣は村を陣地にして誘い込み、四方からの矢で仕留めた。

 第三陣は打って出て包囲殲滅した。

 進軍して第四陣を滅ぼし、第五陣を打ち破り、第六陣と会敵し……


 竜王軍とスッカル軍とのすりつぶし合い。

 全勝はしたが、それはことごとく相手がこちらより小規模だからだ。

 軍事的に見て愚かしい行為にもかかわらず、敵は逐次投入をやめようとしない。

 後ろに控えたその総兵数はいまも未知だ。


「……ウクタミシュ閣下の伝令によれば、もっと前に出てアッコンの港を奪取しろと。そうすれば婢らは船での補給や援軍を大規模に受けられるようになる。

 それが無理なら、せめて新月まで……あと五日だ……耐えろと」


「アッコン奪取だと? あと五日耐えろだと? その前にこの軍が崩壊する! ふざけろ、あの野郎!」


 スッカルは歯噛みする。ライムーンもそっとため息をついた。


「送られてくる補給が滞りないのだけが救いだが……」


「補給を切らしたらそれを理由に引っ返してウクタミシュの首に噛み付いてやるわ」


 いつになくスッカルはとげとげしい。ウクタミシュが絡むとかれは荒ぶるのだ。

 だがそれ以上に、戦況が神経を苛立たせている。


 すりつぶし合いで、スッカル軍も損耗が激しい。

 王奴とシキリーヤ兵、あわせて残り千六百人。

 三分の一が戦死ないし重傷を負い、指揮系統が破綻しつつある。ことに諸侯の集まりであるシキリーヤ軍には、全滅した部隊がちらほら出てきた。

 グール腫が出ていないことだけが救い。


「……いや。逃げるなら引き返すより、前である」


 気づくと、鎧姿で騎乗したアリーチェが横に並んできていた。包囲されたキプチャク兵たちが最後の抵抗をしているのを眼前にしながら、シキリーヤの王女はふたりに小声で提案した。


「いっそ言われたとおり港町アッコンを目指すべきである、王奴スッカル。アッコンはさほど遠くない、強行軍ならすぐ着くはずである」


 スッカルはそれに対してライムーンと顔を見合わせたあと、


「どういうことだ?」


「シキリーヤの軍船は、王奴軍が来たときにアスカロンの港から北のアッコンに移動した。アッコンからなら、わたしたちの船で海上に逃げられるはずである。竜王軍が船を持っていると聞いた試しはない」


「そりゃいいことを聞いた。賭けてみる価値は……」



          ――――――ヤア ハレルヤ



「…………誰か。なにか、歌ったか」


 切り刻まれていくキプチャクたちの断末魔を越えて遠くから、


「うた?」


 なにかとてつもなくおぞましく聖なる、


「いや、気の……せい……」


 スッカルが途中で声を失ったのは、ライムーンがうずくまったからだった。

 長い耳を立て、明らかに血の気を失って、ライムーンがあえぐ。


「ス……スッカル……近づいて、来る」


 まず耳に届いたのは、歌だ。

 抱きしめるような慈愛の響き。


   アドナイ エロヒム ツヴァオット、

   アシェール ハヤー ヴォーヴェ ヴャヴォ、

   エレイハ アドナイ、エサ エサ ナフシ

   ハレルヤ ラオラム、ヒネ マ トーヴ


 次に、四方八方から漂う強烈な腐臭。万、十万、百万もの屍の。

 突如として、戦場の真ん中で異変が起こる。

 殲滅されつつあるキプチャクたちが、慈愛の歌に触れて悲鳴を挙げた。

 やめてくれ。

 エヴレム・カン。

 絶望の叫びを。


   ハヴァ ナギラ喜べ ハヴァ ネラネナ歌え ヴェ ニスメハ幸得たれ


 制止を懇願しながらキプチャク兵が変貌してゆく。

 その頭が、腕が、足が、ときには全身がぼこぼこと白く膨れていく。

 毛が抜け、牙が伸び、全身に女陰のごとき赤い裂け目ができる。裂け目が開くとぎょろりと新たな眼球が飛び出す。


   ウル起きよ ウル起きよ ウル アヒーム兄弟たちよ起きよ

   ウル アヒーム べ レヴ サメアフ幸福のなかに目覚めたまえな


 ただ端的に記すなら、生き残りのキプチャクたちは一人残らずグールと化した。

 呆然とした包囲網に対し、怪物たちは飛びかかる。

 怪物の顎がシキリーヤ兵の顔面を食いちぎる。王奴のひとりがグールの怪力によって首をちぎられる。場は先程までに増して混沌を極めた激戦となる。


「なんだ、これは……」


 スッカルの顔がひきつる。

 かれの前方。丘陵地帯の向こう側、視界をさえぎる断崖があった。

 そこからぼろぼろと白い肉がこぼれている。見る間にそれは見渡すかぎりの地平に現れる。

 おい、あれ全部グールかよ、と戦慄のうめきをアイバクが上げた。


 その戦慄は収まることはない。

 グールたちは断崖から次々落ちる。

 かつて人であったものが砂粒のように落ち、潰れ、積み重なっていく。


 そして、断崖の上まで屍肉が積み上がったとき、歌うだれかが醜悪なその階段に降り立った。


   カドシュ聖なる カドシュ聖なる ヤア カドシュ聖なるかな


 軽やかな足取り――空を舞うような。

 とおん、とおん、とおんと跳ねて。

 歌いながら、地面へと歩む。


「エヴレム・カン……」


 キプチャクが化したグールたちをやっと殺しきり、スッカル軍は対峙する。

 いやおうもなく理解する。そのただひとりの男こそが、そうなのだと。

 黒い服。褐色の肌。赤い髪。

 高い背。紫の目。整った面立ち。


 その耳は、ハイズラーンの葉の形。


 だれいうともなく、ぽつりとつぶやく。


「ジンだ」


 それも、


妖王マーリド級……」

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