第32話 潤む星々
「なにか見えるか、ライムーン」
右の拳を天に突き上げたスッカルがたずねる。
答えるのは、その拳の上に片足で立って地平を観察するライムーンだ。
「大規模な農村が。急げば日没には着く距離だ」
ジンの身体は人より軽く、ジンの視覚は人より鋭い。
「村人はいるか?」
「動くものは見えない。……おそらく放棄されたか、竜王の先発軍のキプチャクとグールたちに殲滅されている」
「そして、そいつらは俺たちが殲滅した。よし」
スッカルの拳からライムーンが跳び下りるのを待って、二千余りの軍――シキリーヤの兵たち――をふりかえり、スッカルは宣言する。
「休憩は終わりだ、行こう。今晩は村で見張りを立てて夜営するぞ。竜王軍の第二陣とぶつかる前にしっかり休めるなら幸いだ」
「ちょっと待つのだ、王奴スッカル。その前にひとつ頼みたいことがある」
声をかけたのは、アリーチェだった。鎧をまとったシキリーヤの王女は兵たちの中から進み出て、周りに聞こえぬように声を低め、
「“霊薬”がまた欲しい」
「……前にだいぶ渡したと思うが。百個かそこらは丸薬で」
「足りるわけがないであろ。以前からグール腫にかかっていた者たちを治療するだけで無くなってしまった。
王奴スッカル、われらシキリーヤ軍はおまえに従ってまたグールの群れと戦った。今回は勝ったが……わが軍のなかからグール腫に罹患している者が今後出るかもしれない。“霊薬”はどれほどあるのだ?」
「もうない。
突き放すようにライムーンが冷たく吐き捨てる。シキリーヤ人たちに与えるため霊薬の蓄えを残らず吐き出させられたことで、彼女はあきらかに不機嫌になっていた。
アリーチェが衝撃を受けた顔で黙り込む。
顔をおおってスッカルは一応たしなめた。
「ライムーン、そんなはっきり言うこたあないだろ」
“霊薬を切らしたとシキリーヤの兵たちが知ったら士気にかかわるぞ”
シキリーヤ軍、総勢二千四百名。いまのスッカルの手勢は、かれらが主力なのだ。
「いや、心配するな、アリーチェ。霊薬はなんとか補充するから」
「ほ……本当であろうな、王奴スッカル?」
頼むぞほんとに、とすがりつきかねない勢いでアリーチェが食いついてくる。
ライムーンからの冷え冷えとしたまなざしを横面に感じながら、スッカルはうなずいた。
夕刻、村のひときわ大きな館だった。
裸のライムーンが水盤から顔を上げ、スッカルを見て凍りつく。
邸内にふみこんだスッカルも慌てた。
ライムーンは中庭中央にある噴水の水盤にかがみこんで、髪や体を清めていたようだった。つねは首のうしろで一本の三つ編みにされている白金色の髪は下ろされ、滝のように水盤のなかに落ちている。
熟果さながらに実った双の胸の先端から水滴がしたたる。小麦色の肌は水滴をきらめかせ、なめらかな弧を描く各部曲線が夕陽の赤い輝きで凄艶に映えていた。
「……
腕でそろそろと体前面を隠しながら、ライムーンが混乱した表情でいう。
美裸からスッカルは視線をそらし、
「シキリーヤ人の伝令兵には
おそらく翻訳の過程で齟齬が生じたのだろうと知れた。
ふたりともシキリーヤ語を学んだとはいえしょせん母語ではない。
「……異国人はこれだから」
ライムーンはシキリーヤ兵に責任を押し付けるつぶやきを発した。彼女は開き直ったように噴水のそばに立ち上がる。すばやくマントをとって素肌にさっと羽織った。
「まあいい。いま済ませよう。服を着てくるから邸内に入って待っていろ」
平然をよそおった声で、彼女は背を向ける。
虚勢を張っているのは明らかだった。
居心地悪さを覚えながら、スッカルは庭の椰子の木によりかかる。
村を接収したその日のうちである。ライムーンと何人かの女たちに割りあてられた邸宅を、スッカルは訪問したのであった。
動揺している自分に気づき、スッカルは嘆息する。
“あれは乳きょうだいの裸だぞ、意識するんじゃない”
かれは目を閉じ、まぶたの上から眼球をぐりぐり揉む。
それでも、いましがたの光景がまぶたの裏から消えない。
「
スッカルはぼやく。
軍衣を脱ぎ、窓際の寝台に寝そべったかれの胸ははだけられていた。ぶ厚い胸板の数カ所に蛭がとりつけられている。
一カブダ(約十一センチ)はある長い大型種の蛭だ。
「だが
淡々とライムーンが答える。
彼女は
「医学者イブン・ヒマールがいうように、人は時折こうして悪い血を抜く必要がある」
ライムーンは瓶から取り出した蛭をつぎつぎとスッカルの胸板に取り付けながら、
「君は霊薬に適合した。だから傷が治りやすい体になっている……が、時折こうして健康を管理する必要がある。その塩梅は婢に任せておけばいい、君の母上からきちんと聞いていた。
ジューグンダールが君の身を狙っている。いつ襲撃されるかわからないからには、万全の状態にしておかねば」
ライムーンの説明をスッカルは黙って聞いている。
“ライムーン、おまえまだ、おれがおまえの嘘に気づいてないと信じてるのか”
そんなわけがない。これは茶番だ。
ライムーンもとっくに気づいている。かれが彼女の嘘に気づいていることを。
浮かびかけた苦笑いを押し殺す。スッカルはそれでも茶番に付き合う。
彼女の嘘を暴かない。
代わりの話題を口にする。
「なあ、ライムーン」
「なんだ」
「ジューグンダールはなんであそこまでおれを憎んでる?」
スッカルには不思議だった。
「たしかに寮では折り合いが悪かった。殺し合いのような状態だった。だがあいつは卒業後に大アミールになりおおせて、こっちは一介の叛逆者扱いだ。ここまで立場に開きが出てるのに、軍規違反を犯してまで、いまさらおれを殺すことにこだわるのはなぜだ? あまりにも割に合わねえぞ」
ライムーンが躊躇なく答える。
「端からみていればなぜかはわかる。君がジューグンダールの栄光を奪ったからだ」
「……なんだそりゃ」
「君は王奴学校でかれより優秀だった。
最初の衝突で、君を殺そうとしたジューグンダールの片目を奪った。訓練でも実戦でもかれを上回った。ついには豹の寮の寮長の地位をかれから奪い、かれに徹底的に屈辱を植え付けた。だからかれが君を許すことは、生涯にわたって絶対にあるまい」
スッカルは苦い表情になる。
「あの野郎をどっかで殺しとくべきだった」
だが、それは難しい。
ジューグンダールは、ミスルの名門の子だ。
王奴でありながら名門という、ミスルの国是と矛盾した存在。
ミスルの国是――それは血統貴族の否定だ。王奴は生まれに関係なく全員が軍人奴隷の身分から這い上がらされる。実力に秀でた者のみが上に立つという社会構造。
王奴の身分は一代限りであり、子の世代からはミスルの市民権を得て解放される。
そしてミスルでは、ミスル生まれの平民は王奴になることを許されない。
つまり、王奴の身分を代々受け継ぐことはできない。その資格を有するのは、異国人の子供のみ。
というのが、建前。
抜け道はなにごとにもある。
実際はミスルにも、王をたびたび排出する、力をもった一族がいる。
かれらは生まれた男子をいったん奴隷として他国に売り、それから自分たちが買い戻すのだ。王位に挑戦できる王奴の身分を、何代にもわたって確保するために。
ジューグンダールはその例だ。
「この先も狙われるのはまっぴらだが……なんとか避け続けるしかねえな」
排除するのはたやすくはない。
ジューグンダールの後ろにいる者は――王だ。
ミスル王。
ジューグンダールの父親はもと大アミールのひとりであり、先代の「狂王」なきあと当代の王になっている。
“厄介な奴だ、まったく”
ふとスッカルの頬を、すべらかなものがはさむ。
ライムーンの手のひらだ。
「婢が君を守ろう」
おおいかぶさるようにして、真上からかれの目をのぞきこみ、
「君がかつて、あいつから婢を守ったように」
厳かな誓い。
真摯で、誠実な声。
こういう空気はあまりに久々で、スッカルは面映ゆさを覚える。ミスル軍に戻ってきてからこのかた、まだきちんと彼女に向き合っていなかったと思い出す。
口の端をにやりと吊り上げ、茶化す。
「じゃあおれがまた叛逆者とみなされて、抹殺令が出ることになったらどうする?」
それを聞いて、ふ、とライムーンが微笑を刻んだ。
やや怖い笑み。
「フィオレンツァを助けたときのような自業自得ならということか?」
「あ、いや」
「あれを二度もやらかしたならそのときは死ね。そうでないなら助けてやる」
若干、目を据わらせていったあと、ライムーンはかれの隣に横向きに寝転がる。
スッカルが顔を向けると、また目が合った。
彼女が頬をゆるめる。
「でもしょうがないかもしれないな。アイバクなどは、君が甘い王奴に変わったと不満を漏らしていたが――」
ライムーンの手がまた伸びてくる。
指がかれの
「むかしから、ほんとうの君はいつだって
髪への愛撫に、スッカルは内心うめく。
“その梳き方はまずい、ライムーン”
間近すぎる。
甘い匂いがかれの鼻腔を刺激している。
レモンの花のような独特の、彼女の肌の香だ。
“う”
先ほど見た艷麗な光景、匂やかな濡れた髪――
『愛して、スッカル』
大河のほとりである日、草むらに横たえられながら腕を広げていたライムーンの姿が脳裏によみがえる。
スッカルは聖典の一節を急遽、頭のなかで唱え始める。
「……スッカル? どうした」
ライムーンがけげんそうに見てくる。
その視線がかれの首から下を確認する。
一拍。
「……あ」
思わずといった感じの声。
体の反応に気づかれたことを悟り、スッカルは天井の細密画に死んだ目を向けた。
図太いかれでも、死にたくなるときはある。
“くそったれ、蛭が胸に乗ってなきゃ寝返りを打って腰の前を隠せたのに”
もごもごかれはいいわけする。
「いやすまん、あの日を思い出してちょっと……」
動揺からの失言。
かたわらで、ライムーンがさらに硬直する気配。
大河のほとりで起きた事故のことだと、彼女にはすぐわかったようだった。
「こ、こ、この馬鹿が……」
弱々しい罵倒。
スッカルは情けない気分でライムーンを見やった。
暗い室内でもはっきりわかるほど、ライムーンは羞恥に燃えている。信じられないものを見る目。どうしてそれをいってしまうんだ? 暗黙の了解でお互いなかったことにしていた話なのに――とその目が語る。
「黙れ。あの日は何もなかった」
やっと彼女はいって、勢い良く寝台から飛び起きると離れていった。
蛭とスッカルだけが残された。
窓からのぞく夜天を見上げる。
日没後の空にうっすらと
光を遠く眺めつつ、思い出すのは自分たちの幼い頃だ。
● ● ● ●
「なんのつもりでいま室内を覗いていた?」
館の廊下で、ライムーンはアリーチェを壁に追い詰める。
凍るような殺意を向けられ、恐怖に目を見開きながら、シキリーヤの王女は「す……すまない」と謝る。
「気づかれないと思ったのか、アリーチェ。婢らのことを調べてどうするつもりだった?」
ライムーンは短刀の柄をにぎる。
目的は霊薬だろう。個人的な好奇心ならまだいいが万が一、この娘が間諜のようなことをしていたなら、この場で息の根を止めるのもやぶさかではない。
ライムーンの意表をつくことに、その娘は恥ずかしそうに首をすくめる。
「その……王奴スッカルにお礼を言いたくて」
「なに?」
面くらうライムーンに、アリーチェはもじもじと話す。
「あんな男ではあるが、思い返せば地下道では優しく扱われなくもなかったし……そのうちお礼をちゃんと言わねば、と思っていたものだから……いまならその機会だろうかと思って
あのう、貴女はあの男とどういう仲なのだ?」
馬鹿らしい。ライムーンはいらだちを殺して身をひるがえそうとする。投げやりな声を残しながら。
「どういう仲もなにも、ただの乳きょうだいでしかない」
ところが、アリーチェという娘は命知らずにも大胆な声を投げてくる。
「でも、寝台にいた貴女たちはそうは見えなかった」
ライムーンが殺気をほとばしらせて向き直ると、アリーチェはびくりとしながらもいいつのる。
「あれはどうみても、貴女はスッカルのことを」
「気のせいだ。なんで婢があんなやつ……」
「嘘だ。さっきの様子は」
「黙れ、十字教徒!
婢はあいつの乳きょうだいだ!
乳きょうだいというのは、ほんとうのきょうだいと同じことだ!」
ライムーンの叫びが、アリーチェの声を奪う。
乳きょうだい。
聖典によって、実のきょうだいと同じとされた存在。
たとえ両親が違っても、血がつながっているとされる存在。
赤子の体を構成するとされる体液は、以下の三つ。
精汁。
羊水。
そして、生後七十日までに飲む母乳。
「近親相姦など望むわけがない。あいつも……婢も」
両親どころか種族すら違うのに、実のきょうだいと同じ扱い。
短く説明したのち、ライムーンは顔をそむける。
アリーチェの顔に深い同情が浮かんでいるのを見たくないから。
負け犬のように傷ついてみじめな自分の表情を見られたくないから。
「スッカルが婢を見ることはない。下半身に節操のないやつだから、気の迷いで欲情することはあるかもしれないが……宗教に関しては保守的なやつだから……だから心配などしなくていい、アリーチェ。勝手にあいつに言い寄っていろ。なんなら応援してやろう、フィオレンツァよりはよほどましだ」
無理やり笑みを浮かべていい捨て、中庭に彼女は出る。
乾いて冷えた夜風が砂を巻き上げてそばを去っていく。
ライムーンは星がちりばめられた夜空を見上げる。
かつて聖都から逃げ出して砂漠を渡ったときに、幼いジンと人の児ふたりが、身を寄せあって見つめていた星々。
“エヴレム・カンとの戦いが終わって、あいつの身が安全になって……あいつがふさわしい相手と結婚したら、婢は遠い東の国へ行こう。ファールスかシンドに”
あるいははるか
どこだっていいのだ――ここでないなら、どこでもいい。
スッカルが他の女を娶るのを二度と見ずにすむのなら。
目に痛いほど明るい夜空を、ライムーンは見上げつづける。視界がにじんで、星の光がぼやけていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます