第14話 マントの聖母への祈り

 大聖堂ドゥオーモの中の薄暗い礼拝堂の大理石の床の上には、小さな窓から差し込んだ光が落ちていた。窓から床まで差し込む光の中を、空気中を飛ぶ埃に光が反射してキラキラと光って見える。


 壁のくぼみに作られた祭壇には聖母マリアのイコンが安置されていた。


「マントの聖母」と呼ばれるイコンは、名前の通り、マントを広げ、その下にいる人々を保護し、守っている姿だ。

 戦時や疫病の時など、町が危機に瀕した時に救ってくれるものとして人々の信仰を集めている。


 そして、礼拝堂の壁面には、聖人たちのフレスコ画が描かれていて、祈りに訪れるものを見下ろしている。


 俺はその礼拝堂で、祈祷台の前のニーラーに膝をつき、祈祷台に両肘をのせ、目を閉じ、祈りを捧げていた。


 ”Sottoソット la tuaトゥア protezioneプロテツィオーネ troviamoトロヴィアーモ rifugioリフージオ, Santaサンタ Madreマードレ diディ Dioディオ.

 Nonノン ignorareイニョラーレ le nostreノストレ supplicheスップリケ e le nostreノストレ necessitàネチェッシタ, ma liberaciリーベラチ sempreセンプレ da ogniオンニ pericoloペリーコロ, Vergineヴェルジネ gloriosaグロリオーザ e benedettaベネデッタ


「聖なる神の御母よ、我らは貴女の護りの下に避難所を見いだします。

 栄光と祝福の聖処女よ、我らの願いと求めを無視なさらず、あらゆる危機より我らを解き放ち、お救いください」


 声に出し、聖母マリアに救いを求める祈りを繰り返していた。


 俺にとってはその場所は特別な場所だった。

 そして、それは俺にとって不可欠な儀式だった。

 武器を作る作業に入る前には、常に礼拝堂で神に、聖母マリアに祈りを捧げる。


 誰かが俺の作る武器を振るうのなら。

 俺の武器を持つものに敵を打ち負かす力を与える。

 それ以上に、それが持ち主が守りたい誰かを守り、持ち主をも守るものであってほしい。


 それが俺の切なる願いであった。


 俺が武器を作るときに俺の持てる力、いや、それ以上のすべてを出し切ることができるように。

 そして、願うことならば、神や聖母マリアがその剣を持つものを守り、力を与えるように。


 剣は誰かを殺傷するものというよりも

 願うならば、持ち主を守るためのものであってほしい。

 そして、常に自分がその時できる限りの最高傑作を作り出すことができるように。


 それが俺の武器を打つときの想いであった。


 だから、毎朝、宗教的な決められた儀式のように、作業に入る前には、教会での祈りは欠かせなかった。


 周囲の音も耳に入らないほどに集中し、祈りを捧げていたが、ようやく祈りが終わって、十字を切って立ち上がった。


 顔をあげた瞬間、礼拝堂の入り口の柱に寄っかかり、アントーニオが物憂げに腕を組んで立っているのに気が付いた。

 いつからそこにいたのかわからないが、俺が祈っていたのを眺めていたのだった。


「おはよう。いつからそこに?」


 声をかけて、歩み寄る。

 歩み寄ってみるとアントーニオの表情は何か困惑しているように見えた。

 大聖堂内は暗いので、彼の表情は近くに寄るまではっきりとは見えなかったのだ。


「誰かが祈る姿を美しいと思ったのは初めてだ」


 唐突に予想外にそんなことを言いだしたので、俺は気恥ずかしくなった。

 誰かに見せるために祈っていたわけではないし、どう反応すればよいのか困って、頭を掻いた。


「そんなことを言われたのは初めてだ」


 礼拝堂を出ると、大聖堂の出口へと向かった。アントーニオも並んでついてきた。


「それで、何か用事があってここまで来たのだろう?」


 彼の教会嫌いを知っているから、彼が祈るために教会に足を向けるのは、必要最低限の義務として求められる機会ぐらいしかないというのは想像がついた。

 それが祈るでもなく、告解するでもなく、なのに大聖堂にいて、しかも、俺が祈る礼拝堂の入り口で待ち構えているというのは、俺に用事があって、としか考えられない。


「先週末は迷惑をかけたな。おかげで婚約者候補から外れることができた」


 お見合いの時のことを言っているのだった。


「それはよかったな。だが、迷惑をかけたと思うのだったら、何か借りを返してほしいもんだ」


「考えておく」


 思ったよりも素直だった。


「しかし、あの時の格好ときたら……」


 俺はアントーニオを頭のてっぺんから足の先までわざと凝視し、先日との違いに笑いをこらえることできず、声にならない声を出して笑った。


 今日のアントーニオはいつものアントーニオで、白いシャツの上に濃いめのブルーの膝よりも短いシルクのコッタルディータを着ていた。その下に濃いえんじ色のカルツェを履いている。

 頭にはカッペローネシャペロンを着用しているが、こじゃれた感じにまくり上げて、片側を顔の横から肩へと垂らしている。

 男の俺から見ても、ほれぼれするような伊達男ぶりだった。


「その格好でお見合いに行けば、確実に決まっていただろうな……」


 アントーニオは一瞬足を止めて、鼻を鳴らしながら目を細めて俺を見た。形のいい唇の端が吊り上がって、シニカルな笑いが薄く浮かんでいる。


「気を引くつもりがない相手のために、めかしこむ必要はないだろう。むしろ、嫌われたかった。人が嫌がりそうなことは全部したぞ」


 それからまた歩き出したので、俺も歩き出したが、数歩進んだところで、アントーニオの言葉の意味がひっかかって、足が止まってしまった。


 <気を引くつもりがない相手のために、めかしこむ必要はない、んだよな。って、今のこの服装は、彼としてはめかしこんでいるってことだよな? で、俺の前に現れた? っていうのは、気を引くつもりがあるってことか? いやいやいやいや、この人に振り回されちゃいけない>


「どうした?」


「今日は何かあるのか? そんなかっこをして」


「いや、別に。気分だよ、気分」


 アントーニオは先に歩いていたが、そう言いながら振り返って、軽く笑うが、妙に色気のある目でこっちを見ている。


 内心どぎまぎしながら、再び歩き出す。

 アントーニオのペースに巻き込まれてはいけないのだ。

 大聖堂の出口近くまで来て、俺は主祭壇へと振り返り、片膝を折ってから、十字を切った。

 アントーニオも形だけ、同じように十字を切ってから、俺と一緒に外に出た。


 外はまぶしく、暑いほどの日差しで、広場を多くの人が行き交っていた。

 俺の仕事場の鍛冶場は城壁外にあるが、城塞側の城門から外に出たほうが近い。

 城塞は町をさらに上がった位置にある。

 おそらくアントーニオの職場も城塞の中だろうから、出勤するなら同じ方向だ。

 案の定、アントーニオは俺と並んで、城塞方向へ歩いていた。


「それで、何の用だったんだ?」


「ああ、先にお前の家に寄ったんだが、もう家を出た後だった。で、お前の母親が、仕事の前に、必ず祈りに行くから、ここにいるのではないかという。それで、こちらに来たわけだ。先日の剣の代金は、お前の父親に渡しておいた。それが要件だったんだが……」


「なるほど。下男かブルーノにでも支払いをさせればよかったのに。それでなんでこっちに?」


 わざわざ教会まで、俺を見に来た用事に関してはまだ何も口にしていない。


「今日あたりから、私の剣を作り始めるとか」


「炉に火をおこすところから始めるところだ。打つのにちょうどいい温度になるまでまだ少し時間がかかる。それで、何か用事があったんだろう?」


「いや、単に何をしてるのか好奇心で立ち寄っただけだ。それで、祈っているところを目撃したわけだが……いつも武器を作る前に祈るとか」


「そうだな。俺の打つ武器がそれを持つものを守り、力となるように、神頼みをしているんだよ。そういえば、剣は銘以外にも、祈りの言葉かモットーを入れるとは言ったよな? 何を入れるか、考えておくように」


「ああ。しかし、今朝は私のために祈ったということかな?」


「まあ、間接的にそうなるな」


「それは嬉しいな……」


 アントーニオは顎のあたりを撫でながら、にやにやと笑っている。


「これからしばらく私の剣を打つ間、私の安全や武勲を祈っていてくれるわけかな」


 並んで歩きながら、俺は横目でアントーニオのにやけ顔をあきれながら眺めた。いつもどちらかというと二人で飲んでいる時以外は、近寄りがたいクールな整った顔立ちにきりりとした緊張感のある表情が多い。

 どちらかというとだらしないような、締まりのない今のようなにやけ顔は意外だった。


「だけど、ずっとあなたのことを考えてるわけじゃない。っていうか、正確にいえば、俺はほとんど剣のことしか考えてない」


 水を差すような言葉を言いたくなったのだった。言いながら、アントーニオの表情の変化を観察する。ほとんど表情は変わらず、にやけたままだった。


「まあ、それでも、お前の時間は私のもののようなものだってことだ。これからしばらく毎朝、私のために祈り、私のことだけを考えるようになるっていうのはいいな」


 反論しようとしたが、路地の角を曲がったところで


「アントーニオさま!」


 という声が響いた。

 目の前にアントーニオの侍従のブルーノがいて、両手を振り回しながら、怒ったように駆け寄ってきた。


「会議の時間がもう始まってます! ちょっと寄り道とおっしゃってたのに、ちょっとじゃないじゃないですか。早くおいでください!」


 ブルーノの言葉通りとするなら、会議をすっぽかして、大聖堂で俺が祈るのを馬鹿みたいに眺めていたということなのだろうか?

いつから眺めていたのか知らないが、俺はかなり長い時間祈りを捧げていた。途中からにせよ、先ほどのアントーニオはつい来たばかりの様子には見えなかった。


 アントーニオは笑いながら、ブルーノの頭を軽く叩き、すまないと繰り返した。

 それから、俺を肩越しに振り返った。


「という事情だ、剣を頼む」


 そう言い残して、足早に城塞に向かう坂道を上がっていった。

 俺は急いではいないので、ゆっくりと同じ坂道をのぼっていった。


 アントーニオが分かれ際に「これからしばらく毎朝、私のために祈り、私のことだけを考えるようになる」などと言ったせいで、それが頭を離れなくなりそうだった。











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イタリア中世の武器職人が軍司令官と禁断の愛で苦悩する物語 ヘレネ @Helene1128

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