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シティ

 ある日の昼下がり。黒崎正悟は、銀座の高級寿司屋から外に出た。今しがた極上寿司に舌鼓を打ってきたばかりだ。

 囲碁の碁盤のように均整の取れた銀座の街並み。街路に植えられた柳の横の歩道を歩く。

 とても静かだった。人でごった返した雑音も、車のエンジン音も響いてこない。

 さすがにおかしいと黒崎は気づいた。銀座の街に自分を除いて人が誰もいないのだ。

 車道で停止している車の中に目を向ける。運転席にも人がいない。どの車も同じだ。赤いフェラーリにも誰もいなかった。

 雲に隠れて日が陰り、辺りが薄暗くなる。

 時計台のある和光前の四丁目交差点にやってきた。いつも人で溢れ返るこの交差点にも、誰もいなかった。交差点の真ん中に立ってみる。少し得した気分になったが、その感情もすぐに薄れていく。なんだか視界に違和感があって、黒崎は和光の時計台を眺めた。その時計の針がおかしな動きをしていた。分針が右回り、まさに時計回りをしているが、動きが早すぎる。一秒に五分ぐらいのペースで時を刻んでいた。さらに時針は半時計回りをして時を遡っていってしまっている。

 その異常な時計の針の動きを見ていると頭がおかしくなりそうな気がして、黒崎はその場を離れた。デパートの横を通り、高級ブランド店を通り過ぎて進んでいく。

 真っ直ぐ道が伸び同じような景観が続く銀座の街を歩くと、黒崎はよく道に迷う。この時も駅への道順がわからなくなってきた。徐々に異様な世界に迷い込んでいっているような、そんな妄想に駆られる。この建物はさっき見なかったか?

 道を直進しても、交差点を曲がっても、ずっとどこかで見た景色が続いていく。

 黒崎はこの街から脱出できない気がしてきた。道行く人に道を尋ねることもできない。道行く人が誰もいないのだから。

 そういえばと思い、黒崎はスマートフォンを取り出した。これで現在地を確認すればよいのだ。黒崎は時代の利器が得意ではなくスマートフォンの機能を使いこなせているとは言えなかったが、地図くらい見られるだろう。しかしスマートフォンはスリープを解除しようとしても起動しなかった。いくら触っても黒い画面のままだ。

 意識と視線をスマートフォンに落としていた黒崎は、その隙に周りから何かが迫ってきているような気になって、顔を上げて周囲を見回した。しかしとくに変わったところはない。相変わらず人のいない街並みが見えるだけだ。人々はどこへ消えたのだろう。

 万策尽きた(スマートフォンが使えなかっただけだが)黒崎は、やはりまた歩き出すしかなかった。

 こうなったら高級ブランド品でも盗んでやろうかと思い、黒崎はショーウインドーにドレスの飾られたブランドショップに入ろうとした。しかし入口が開かなかった。ドアを押しても引いても開かない。入店をお断りされた黒崎はまた歩き出そうと後ろを向いた。

 するとすぐ目の前に人がいた。

 黒崎は驚いて思わずかけているサングラスがずれてしまうところだった。

 サングラスの位置を調整ながらもう一度よく見ると、それは人ではなかった。人の形をした、マネキンだった。ご丁寧に人の顔の造形まである。びっくりさせないでほしい。

 しかし妙だ。こんなマネキン、先ほどまではなかった。そのマネキンは女性ものの着物を着せられている。そのことも気になった。なんだか見覚えのある着物の気がした。

 黒崎は気味が悪くなり、その場から離れることにした。人のいないところで急に人のようなものが現れるのは恐ろしく感じた。人に会いたいけど人に出てきてもらいたくないという矛盾する状態に陥っている。

 黒崎は再び歩き出した。

 スーーー。

 急に目の前に移動してくるものがあり、黒崎は体を強張らせて驚いた。もう少しでサングラスがずれてしまうところだ。

 先ほどのマネキンが独りでに動いて黒崎の進行方向を遮っていた。

――呪ってやる。

 どこからともなく女性の声が聞こえた。憎しみに満ちた響きだ。

 黒崎はその声に聞き覚えがあった気がしたが、よく思い出せない。

 黒崎はマネキンの反対方向に歩こうとした。

 そこにまた違う着物を着たマネキンがいた。

――呪ってやる。

 黒崎はサングラスを押さえながら走ってマネキンから逃げ出した。そこへまた違うマネキンがスーーーと動いて寄ってきた。

――呪ってやる。

――呪ってやる。

 次から次へと着物を着たマネキンが現れて、黒崎に呪いの言葉をかけていく。

――呪ってやる。

――呪ってやる。

――私も食べたかった。

「えっ?」

 黒崎は疑問を感じ足を止めた。目の前に現れたマネキンを見つめる。

 今、食べたかったと言わなかったか? 一体何の話だろう?

 そんなにしょっちゅう来るほどゆとりはないが、黒崎は以前からたまに銀座に食事をしにきた。亡くなった生前の妻と一緒によく来たものだ。最近はめっぽう来る回数は減っていたが、今日はあの味が恋しくなって久しぶりに寿司を食べに銀座を訪れたのだ。

――一人で食いやがって。

「えっ?」

 なんだか呪いの声に具体的な憎しみが伴ってきた。

――枯れかけのシクラメンみたいな顔してるくせして、いいご身分だな。

 もはやただの悪口にしか聞こえなかった。

 黒崎は改めて目の前に立っているマネキンを見る。どことなく生前の妻の姿に似ている気がした。銀座に来る時も妻は着物を着ていて、よくホステスと間違えられた。

――お前なんかこうだ。ここをこうこうこうだ。

 もはや小学生でも相手にしているような気分だ。

 その時、ズンという地響きとともに地面が揺れた。スーーーと黒崎の近くにいたマネキンたちが散開していく。

 ズン。ズン。

 巨大な何かが、蠢いていた。おそらく途方もなく巨大なものだ。それが立てる音が、少しずつ近づいてくる。銀座の街を揺らしている。黒崎はそいつが来るのを身構えて待った。

 そしてついにそれが姿を現わした。正面の道の先に出現した。

 ふさふさの毛。柔らかそうな丸みを帯びた体。つぶらな瞳。木の葉のように薄く広がった耳。胴体に対して短めの手足。そして最も特徴的な、前に突き出た平たい鼻。

 恐ろしく巨大なブタだった。道の左右に並ぶビルよりも大きい。大きいくせして、まったく威厳を感じられない。小さな子ブタをそのまま拡大コピーしたような姿。

 とんでもない、とんだけどとんでもないものを目にし、ついに黒崎のサングラスがずれかけた。まるで特撮ものだ。

 ブホオオオ。

 巨大なブタが二つの大きな鼻の穴から息を吹き出した。すると路上の車が強烈な突風に煽られたように飛ばされて、路肩のブランドショップに突っ込んだ。

 ブタが体を振ると、ぶつかったビルがジェンガのように簡単に崩壊した。

 なんてことだ。銀座の街が。

 黒崎がその場で立ち尽くしていると、巨大なブタがまん丸の瞳で黒崎を見た。まるで面白そうな玩具でも見つけたような表情だ。

 黒崎は回れ右をして、一目散に走って逃げ出した。

 ブヒブヒブヒッ!

 背後から巨大なブタが勢いよく追いかけてきた。ブタが進むごとに地面が揺れ、陥没し、建物が倒壊した。

 そして黒崎は痛感した。食べ物の恨みは恐ろしいのだと。


 〈完〉

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追憶の部屋 -Nostalgic Zone- さかたいった @chocoblack

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