第6話 あの日あの時そうしていなければ【猟奇的殺人事件】【終】
籠に揺られて小道に入ったり入り組んだ道を進んだ辺りで籠は動きを止めた。お花はゆっくり降りると源三郎を見やった。源三郎も頷き、長屋に二人で歩む。
長屋に着くと外には恰幅の良い女と痩せ型の二人の女が立って立ち話をしていた。未緒が住んでいる長屋はどの長屋かわからないので、お花は一人の恰幅の良い女性に聞くことにした。
「お忙しいときにすみません、未緒さんの住んでいるところはどこでしょうか?」
「ああ、私の家の隣だよ。あそこが私の家で隣が未緒さんの家だね」
「ありがとうございます。それにしても」
お花はちょっとした興味を抱いた。あれだけ旦那のことを訴えかけてくるのだ。恐らく喧嘩とかなどをしてうるさいのだろうなと。
「しかし未緒さんも大変だと聞きました。旦那さんが結構な方だそうで。隣同士だと喧嘩とかでうるさいかなと。すみません。興味本位で聞いてしまいました」
そのお花の口から出た言葉に恰幅の良い女はぽかんと口を開けた後に痩せ型の女性はこそこそとするようにして言った。
「未緒さんって旦那っていたっけ?」
「いや、いないよ。どこからそんな話が出たのさ」
その言葉を把握した刹那、お花の背中にゾッとした寒気が走り胃の腑が凍り付くような感覚に襲われた。旦那がいない? お花はやっとの思いで声を絞り出した。
「そ、それは未緒さんから聞いたのですけど」
お花のその言葉に女達はさもおかしそうに笑いながら言った。
「見栄でも張りたかったのかね」
「まあ、未緒さんもいい年だからね。旦那が欲しかったのかも。でも、近頃いい人と会ってるかもしれないかも」
恰幅の良い女性がそう言うとお花は堪らずに聞き返した。
「どういうことでしょうか?」
「近頃は六月に入ったでしょう。それで暑くてね、良く夕刻辺りに外に涼みにくることがあるんだけど。未緒さん、なにか夕刻辺りに荷物を抱えて出かけることが多くなったんで、着替えでもいるようなことをするのかなと思って」
そしてお花はこの時点で未緒が出していた大事なキーワードを思い出した。ノンバーバル行動を勉強するものにとってはとても重要な物だ。それは犯人しか知らないこと。
『わかりません。お二人ともとても優しくて、私なんかによく饅頭を差し入れてくれたりして……ぐすり……殺されるような方達ではなかったと私は思います』
未緒に話を聞いたときに、未緒ははっきりと、行方不明のはつを殺されるようなと言っているのだ。
それを思い出すと、完全な見逃しだと思いお花は悔しさの混じった表情で源三郎に促した。
「……永井様」
「……ああ」
お花は女性達にありがとうございましたと礼を言うと、源三郎は慌てた様子で一度応援を呼ぶために人間を確保しに行った。暫く源三郎の帰りを待っているとおかっぴきや部下などが未緒の家を囲んだ。そして源三郎が現れ、それをお花は見ると源三郎と二人で未緒の家の玄関戸を開けた。玄関から先にある三和土を超えた部屋の室内では未緒が床にぺたんと座っていた。首には布を掛け、首の様子を見えなくしている感じだった。顔を見ると傷が付いている。手袋もしており、恐らく何者かも付けられた生活反応痕であることは確かだった。
いや何者というのは既におかしいとお花は思う。傷を付けたのは左衛門なのだ。
「未緒さん」
お花の呼びかけに未緒は人形が動くような動作で振り返った。その表情には抑揚はない。危険を感じた源三郎はお花の前に立ち、警戒をする。
「あら、お花さんと永井様、どうかなされたのでしょうか?」
「少しお話を聞きたいと思いまして」
未緒にそういうお花の心はまるで凍てついたかのような寒気に襲われていた。それでも平静を装って、更に刺激をしないようにして尋ねる。
「その傷はどうなさったんですか?」
「旦那と喧嘩致しまして、お恥ずかしい限りです」
「首に布を巻いておられるし、手袋もされている様子ですがその下にも傷が?」
「はい、人様に見られると恥ずかしいじゃありませんか」
未緒は本当に何事も無かったように答える。そこがなお恐怖心を煽る行動と言えた。言うべきか言わずにおくべきか、これを聞いたら逆上してくる恐れがあると思ったが、お花は真相究明のために訊くことにした。
「今、外のお二人のご婦人に話を聞きましたが、未緒さん、あなたには旦那様などはいないと仰っておりましたよ」
「また馬鹿なこと、あの二人はそう言って私を茶化すのが好きなんですよ」
驚くほどになんのノンバーバル行動も現れない。まるで壊れた人形に向かって語りかけているようだった。
「ちなみに旦那様の名前はどういうのですか?」
「……」
全く表に現れなかったノンバーバル行動だったが、旦那の話に触れた途端に顕著に表れた。顎にグッと力を入れ、口内に飲まれるようにして唇が徐々に隠れていく。そして未緒は自分の胸の前に盾のようにして座布団を置いた。これはノンバーバル行動でいう嫌な質問から自分を守る行動だ。つまり旦那というフレーズに極度のストレスを感じていることになる。
「もう一度名前をお聞きします。旦那様の御前は?」
「さ、」
「さ?」
お花が聞き返すと、未緒は陶酔したような表情で決定的なキーワードを言い切った。
「左衛門さんに決まっているじゃありませんか」
「そうですか……」
やはりそうなったとお花は思った。これはストーカーにおける猟奇的な殺人事件だったのだ。特に未緒は見た感じ心が病んでいる。それがノンバーバル行動になかなかに表れなかった要因なのだろう。
「あなた? 左衛門さんを殺しましたね?」
お花のその質問に未緒は天井を見上げて残念そうな表情を浮かべてから相槌を打つ。
「お話がしたいとお誘いしたのに、あなたとは余り面識がないのでなるべく短時間でというものですから、旦那なのにそんな扱いはおかしいと思って怒りが抑えられず頭を石で殴ってしまいました。その後も抵抗をするので縄で首を絞めて殺しました」
「どういう要件で左衛門さんを誘ったのでしょうか?」
「ああ……浮気相手のあの女、美砂の件で呼び出しました。浮気相手の話だったんですが。左衛門さんは自分があの女達に騙されていると思ってもおらずに来て下さいました」
この女の中ではお妙、はつ、美砂は左衛門にとって浮気相手だったのだとお花は思うと背筋にゾッとした寒気を走るのを止めることができなかった。
「美砂さんはどうされたのですか?」
「この世に残しておくのも酷い悪女なので殺した後に川に沈めました。今頃魚の餌になっているんじゃないですかね」
「美砂さんをどうやって呼んだんですか?」
「ああ、浮気相手のはつを殺した相手を知っているかも知れないと言ったらのこのと現れましたよ。浮気相手同士なにか感じるものでもあったのでしょうかね」
前に立つ源三郎の手が震えている。それは怒りなのか、それとも恐怖なのか。
「でははつさんもお妙さんのことを引き合いに出して誘ったということですね」
「その通りでございます。家の旦那の見境のなさには呆れ果てるでしょう。あんなお妙とかいう小さな子供にまで手を出して、それどころか私のところには帰って来ずに浮気相手と一緒に暮らしているんですから」
「く、狂っている……」
源三郎の何気ない一言に未緒はなにかに同調するようにして言葉を零した後にニィっと不気味な笑みを浮かべた。
「そうです、旦那は女関係には狂っているんです。お侍様から見てもそう思うでしょう。あれほど祭りの夜に愛し合った中だというのに」
お花は左衛門関連の文の相手も祭りの相手もこの時点で即座に悟った。そう祭りの日の夜に未緒を助けたのは左衛門だったのだ。
そして左衛門の優しさが未緒の心の中のパンドラ、つまり化け物を放ってしまったのだと。
一方、源三郎はそこで大きなため息を吐いた。この女にはなにを言っても無駄だと感じ取ったのだろう。だから源三郎は静かな口調で言った。
「お主は今から捕縛され、法の裁きを受けることになる」
「悪い男に惚れた女の弱みでしょうかね」
最後の最後まで左衛門のせいにする。強度とも言えるほどに病気が悪化しているのだろう。源三郎は歯笛を鳴らすと。外からおかっぴきや部下などが入ってきて未緒を取り押さえた。とは言ったものの未緒は抵抗らしい抵抗を見せずに最後まで蝋人形のようであったからだ。
ただ捕縛され連れ去られていく最中に、未緒はお花に再度奇妙な笑みを浮かべた後にこう言葉を捨て去っていった。
「あなたも男関係には要注意をしてくださいね、世の中こんな男ばかりですから」
「……」
お花はその言葉になにも答えることは出来なかった。
慎ましく理休屋で全ての葬儀が終えたのはそれから暫く経った後だった。事件解決後、お花と源三郎は源三郎の妻である美弥の手料理をつまみにして酒を飲んでいた。
「なんともおぞましい事件であったな」
「そうでございましたわね」
「人間とはあそこまで狂ってしまうものなのか?」
この時代に精神状態を良くする画期的な方法は無い。なので狂ったら狂い放題なのだろう。
「狂ってしまったら、もう手が付けられないのかもしれませんね。今回あまり心理術もお役に立たなかったですし」
「それでもお花の検屍がなければここまでには辿り着いてはいまい」
「いえ、永井様。今回ほど、私は自分が無力に感じたことはありません」
そんな風にして肩を落とすお花の杯に美弥が酒を注ぎながら優しい慈愛のあふれる声で言った。
「うまくいかないことは誰にでもありますが、それでもお花さんは懸命に亡くなった方のために動いたのですから、なにも恥じるというか逆に胸を張っても良いと私は思いますよ」
「そうですかね」
「私は少なくともそう思います。お花様はお優しく、そして正義感にあふれた方なのです」
笑顔を向ける美弥にお花も笑顔を浮かべる。そんなお花と美弥の会話に源三郎が入ってきて言った。
「お花、私はいつも手伝ってくれるお主には感謝をしてもしきれないほどなのだぞ」
そう言って真摯な表情を浮かべる源三郎にお花は深く一礼すると言葉を返した。
「ありがとうございます。そう言っていただいて検屍官の誉れでございます」
「うむ、だから沈んだ表情はお主には似合わない。いつも通りにいくがいい」
二人の温かい言葉を聞いて、ようやくお花の表情に笑顔が浮かんだ。江戸には現代科学は無い。だからお花の技術も通用しづらいこともあると思うことにすると、少し心が軽くなった気がした。
お花は窓から開けられた月を見て酒を呷り物思いにふけるのだった。
江戸の検屍女医 霜月華月 @Shimotsuki_kagetsu
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