声よさらば

生津直

声よさらば


 誰もが、どこからかやって来て、どこかへ向かう。


 何のために? 何を思って? 


 人の波をぼんやり眺めていると、そんないたずらな問いかけが尽きない。夕刻の空港は思いのほか混雑していた。乗客たちが列を成し、それを裁くロボットたちが右へ左へとせわしなく動き回る。


 注文した食事を受け取ると、「ゾハ」、と呼ぶ声。振り返れば、アビが窓際の席で手を挙げていた。向かい合って座り、アビの得意げな笑みに、僕はうやうやしく頷く。「ちょうど空いたぜ」、「特等席じゃん、でかした」なんてやりとりはもう、いちいち口にしない。


 夕食にアビが選んだのは、バナナマフィンとバニラシェイクだ。僕はソイサラミのピザと赤ワイン。二人とも普段と大差ない。


 アビは、ストローをくわえたまま物思いにふけっては、思い出したようにシェイクをすする。半端にひげの伸びた顎は、僕の大好物だ。


 不意に、「やだ!」と甲高かんだかい声がした。目の前の搭乗口で、五歳ぐらいの女の子を父親がたしなめている。彼らの便が遅れているらしい。ぐずるその子をお兄ちゃんがからかい、母親はうんざりしてそっぽを向く。それでも、僕はうらやましく眺めた。家族で帰省でもするのか。僕らには縁のない世界だ。


 親兄弟や祖父母は、記憶の中にしかいない。僕もアビも、もちろん妊娠はできないし、養子を取ることは禁じられている。僕らには、お互いが唯一の家族だ。


 朝はアビが卵を焼いて僕がコーヒーを入れ、庭で育ったルッコラのサラダを一つの皿からつまむ。それぞれ一日の仕事を終えたら、愚痴や冗談をわしながら夕日を見送る。夜は身を寄せ合って床につく。といっても、暑がりのアビは五分も経たないうちにベッドの隅に逃げるけれど。


「今日からはベッドが広くなるなあ」


「おい、ゾハ、あんまり慣れるなよ。俺、月末の休みには毎回帰ってくるからな」


 アビの雄弁な眉を、僕は目に焼き付けた。アビは今夜旅立ち、新しい職場におもむく。細々ほそぼそとベビーシッターをしていたアビは、これぞ天職という思いを日に日に強め、ついに遠方で保育士の仕事を得た。


 僕は在宅勤務だからどこででも働けるが、アビが借りる住宅は職員専用で、同居は不可。他の物件を探そうにも、いわば子育ての本場みたいな町で、僕ごときが伝手つてもなく住まいを借りられるはずもない。


 片道二時間の衛星都市は、立派に遠距離だ。通話さえつなげばそばにいる気分を味わえるとはいえ、物理的に一緒にいるのとは違う。


 僕らの恋愛はあまり温かい目では見られないから、人前でいちゃいちゃはしない。固い握手と一瞬のハグで、つかの間の別れを告げた。


         *


 僕の生業なりわいは、クレーム対応だ。といっても、問題解決を目指すのではない。先方の期待が叶わない中、せめて気持ちをしずめてもらうために駆り出される。


 不満を訴えると見えて、その実、怒ることを目的に怒る人々が世の中にはいる。その八つ当たりを受け止める“怒られ屋”が僕の仕事だ。


 逆らわず、意見も挟まず、目一杯共感を示し、気が済むまでガス抜きさせる。怒鳴られののしられながら、表情をあやつり、空虚なセリフを重ねる。ときにはげんなりもするが、給料を得ている以上、文句は言えない。それに、これは人々がやりたがらず、かつ自動化もできない感情労働。僕の存在意義そのものだ。




 通話が繋がると、相手の中年男は真っ赤な顔でまくし立てた。


「冗談じゃねぇ! やっと商談成立して、いざ支払いってときにできねぇんじゃ困んだよ! 決済システムが決済できなくてどうすんだ!」


 ディスプレイが映し出す相手が実際ここにいるわけじゃないとわかっていても、視覚・聴覚的にはそれとほぼ変わりない(嗅覚機能は当然オフにしている)。彼がまき散らす飛沫が飛んできそうな気がして、思わず首をすくめながら、僕の頭にはもうセリフが浮かんでいた。“おっしゃる通りです、私自身がユーザーだったら、まさにそう感じるに違いありません”、と言おうとしたそのとき。


 あろうことか、まったく別の内容を、僕の口がひとりでにしゃべりだした。


「この不具合は、リスクの誤検出による機能の一時停止です」


――何だ? どうした⁉


 急なほがらか口調に、相手も面食らっている。“いえ、失礼しました”、と謝りたいが、なぜかできない。僕の声はさも嬉しそうに、


「再発防止には、セキュリティ機構の検出感度を下げるしかありません」


――口が……言うことを聞かない?


 いや、唇を舐めたりつばを飲んだりはできた。どうやら、話すという機能だけが僕の意思に逆らっている。


――何だ? 何が起きてるんだ!?


 ほおをペチペチと叩いても治る気配はなく、声は止まらない。


「ただし、検出感度を下げれば、安全が損なわれます」


 声の言うことは当たり前すぎて、僕は恥ずかしさに身を固くした。


――僕はこんな事実説明をする立場じゃない! そんなこと求められてないのに! 


 が、男はいつしか真剣に聞き入っていた。


「つまり?」


「つまり、機能の一時停止は、安全のための必要悪です」


 まるで子供扱いだが、驚いたことに、男は深く頷く。僕は、自分の声と中年男の会話を、固唾かたずを呑んで見守った。


「停止時間は、統計によると平均四分三十九秒、最大十一分二秒です。御社での今回の機能停止は二分十七秒。このレベルの中断を許容して安全を確保するか、安全を諦めて完璧に常時稼働させるかは、幸いユーザーが選択可能です」


 そう告げて、声は沈黙した。クレーマー男は、ぽんと膝を打つ。


「そっかぁ、安全のためなら仕方ないなぁ」


 あまりのあっけなさに僕はずっこけた。


――これだけの説明で引き下がるのかよ! だったら、そもそもクレームつけんな!


 突如とつじょ暴走した僕の声は、場を丸く収めた上、このシステムを引き続き使ってもらうという、期待以上の成果を挙げた。


「あんた、よくぞ単刀直入に本質を突いてくれた。実に話が早い。また何かあったら頼むよ」


 褒められたのは僕ではなく、謀反むほんを起こした声のお陰だ。仕事は成功したが、何だか役目を取り上げられた気分になる。




 その後も、声が僕の支配下に戻ることはなかった。こわごわと日々の仕事に臨んだが、実際、声は毎回いい仕事をした。理屈一辺倒いっぺんとうの機械的なアプローチがこんなに受けるとは。結果オーライではあるが……。


――僕がずっとやってきたことって、何だったんだろうな。


 誰かがひたすら頭を下げることでしか治まらない火種ひだねというものがある。いや、相手をしいたげることでしか満たされない自尊心というべきか。世界のそこかしこに渦巻く暗い欲望を一手に引き受け、満たしてやることが、僕ら“怒られ屋”の使命だった。長年重宝されてきたが、時代が変わったのか。


 皮肉にも、一人歩きし始めた声のお陰で、上司からの評価も、収入も、右肩上がりだ。僕が割り切ってこのまま声に仕事をさせれば、暮らしは大幅に楽になる。そんなわけで、声の異変についてドクターに相談することを、僕はためらい続けた。


 ただし、プライベートなコミュニケーションには骨が折れた。声質はまぎれもなく僕だが、一人称は“私”だし、語尾はですます調だし、話題によらず妙に楽しげとあっては、怪しいことこの上ない。僕は何だかんだと理由をつけ、身近な仲間とは文字での連絡に徹した。




 アビと会うことも、適当な言い訳で断っていた。距離が離れてから約二年。毎月維持してきたアビの帰宅をここ二回は避けたし、通話にも出ていない。当然だ。僕の意思に反し、不自然に明るく論理的事実ばかり述べるこの声で、彼氏と一体何を話せというのか。その代わり、テキストメッセージはこれまで以上にこまめに送っていた。


 ある日、アビから深刻な文面が送られてきた。緊急事態が起きた、至急、音声通話したい、と。緊急という言葉に、僕は動揺した。ありがちなのは妊娠という展開だが、僕らにはあいにく起こり得ない現象だ。じゃあ何だ? 別れ話か? せっかくの休暇に帰ってくるなと言い、通話には出ない。そんな僕と関係を続ける理由がなくなっても不思議はない。


――そうだよな。こんなごまかし、長くは通用しないし、そろそろ限界だ。よし、アビの話をちゃんと聞こう。きちんと謝って、別れるのだけは勘弁してもらおう。


 僕は、文字でのやりとりを主張した。重要な話ならなおさら、制御不能な声でなんかできない。アビはしかし、自分たちの今後に関わる大事なことだから、どうしても自分の声で話したいという。そのくせ、会うのではなく、姿の見える通話でもなく、音声のみにしてくれ、と。理由を尋ねると、なぜかアビは言葉を濁した。数度目のラリーでついに妥協し合い、僕らは久方ぶりのマルチ3D通話に至った。


         *


 通話が繋がるなり、アビは噛み付いた。


「なあ、お前、何なんだ? 先月もその前も会えなかったし、仕事が忙しいにしたって、通話にすら出ねえし」


 いつになく無表情なのは、それだけ怒り心頭しんとうなせいだろうか。


「俺のこと嫌いになったのか? 遠距離のせいか?」


――違う! そうじゃない!


 僕の切実な思いは、残念ながら声には出てくれない。


「そりゃ、俺のわがままで今の仕事を選ばせてもらったし、遠距離になったのもそのせいだけどさ」


――そんなの関係ないよ! 


 心で叫んだ瞬間、僕の声が忌々いまいましく弾んだ。


「いいえ、嫌いになってなどいません」


「何だ、ゾハ。そのよそよそしいアホみてえなしゃべり方。やっぱ、何かあるんだろ? 言えよ。別れたいなら、遠回しな真似まねはやめて、はっきり言ってくれ」


 すると、声はすかさず、


「いいえ、何も問題はありませんし、アホではありません」


 僕は不覚にも噴き出しそうになったが、アビはにこりともしない。


「まあ、しゃべり方はこの際どうでもいい。俺はお前が別れたがってるのかと思って……正直、それを期待してもいた」


――何だって⁉


 僕が内心慌てたのを知ってか知らずか、声は楽しげに返す。


「なぜですか?」


「実はな、悪いウイルスに感染したんだ。クリニックに行ったら、もう先が長くないって言われちまった」


 僕は愕然とした。想像をはるかに超えた告白だった。


「しかも接触感染性だから、これからは隔離生活を送るしかないんだと。まさか、こんなことになるなんてな」


 まさしく“まさか”だ。僕らの寿命など予想がつくし、大きくは外れないはずだった。例外はあっても、そんな不運が自分たちに降りかかるなんて考えたこともない。


――しかも、隔離生活? もう会えないってこと⁉ そんなの、あんまりだ!


「俺たち、あと何回ぐらいこうやって話せるんだろうな」


 アビらしからぬ弱音は、これが冗談でも何でもないことを物語っていた。こんなことなら、僕の声に起きた問題をさっさと打ち明け、事情を知ってもらった上で会っておけばよかったのに。時間なんていくらでもあると思っていた。バカだ。僕は大バカだ。


 頭を抱えたそのとき、僕の口が勝手に動いた。


「通話ができるのは、あと三回です」


 咄嗟とっさに、手で口をふさぐ。たった今、そこから発された言葉が信じられなかった。アビも口をつぐむ。


「なぜなら……」


 おかまいなしにしゃべる声が、僕の手の下でくぐもる。アビがもどかしげに言った。


「ゾハ、何やってんだよ? 聞こえねえよ。ちゃんと話せ」。


――だから嫌だったんだ、こんな状態で通話するなんて。


 仕方なく、手を離して声を解放した。途端に声は嬉々ききとして、


「交際開始から十一年二ヶ月と四日が経ちます。その間、直接会って過ごした時間や通話した回数を踏まえると、あなたの寿命が予測通りなら、残りの通話回数は三回と見るのが妥当です」


 その口調にも内容にも、激しい嫌悪を覚えた。アビはあくまでポーカーフェイスだが、漏れた一言には落胆がにじむ。


「そっか、三回……たったの三回か」


 “たった”とアビは言うが、僕は逆に、三回もできる自信がなかった。アビとの通話を、あと三回もできるだろうか。あと三回もしたいだろうか。話すと言ったって、僕の声はすでに僕から独立した存在だ。


 アビに残された時間の、あまりの少なさ。それに加えて、僕の声が僕のものでないという残酷な仕打ち。こんな状況でどうやってアビと話せというのだ? 僕のものでなくなったこの声で? 予め録音したかのような表面的な会話を? まもなくこの世からいなくなってしまう最愛のアビと? そんなこと、できない。したくない。僕の声を返してくれ!


「ここからはいわゆる“べき論”的な側面ですが……」


 声はとどまる気配がない。


「恋愛関係にある二者の一方が寿命を迎えるまでの通話回数は、不足すれば悔いが残り、過剰なら感情が無益に増幅される傾向があります。悲劇を避けようがない条件下で、心理的困難を最大限に緩和し、段階的に受け入れるには、三回通話するのが最善策でもあります」


 声は、はつらつとそう告げた。


「なんか……言われてみればそうかもな」


――えっ?


 アビの言葉に、僕は耳を疑った。


「ゾハの言う通りかも。俺のせいでゾハが無駄に悲しむのは嫌だし」


――いや、ちょっと待って! 僕が言ったんじゃなくて、声が独断でしゃべっただけなんだって!


 アビの端正な顔は、不気味なほど落ち着き払っていた。しばらく見ない間に、何度髪を切ったのだろう。潮風にでも吹かれているような奔放ほんぽうなウェーブヘアに、自らはさみを入れるのが彼の趣味だ。今日のスタイルも、アビのいつものしたり顔になら、きっと似合うのに。


 アビの面持おももちに変化がないのは、もしかしたら、自身の終わりを前に達観しているせいだろうか。しかし、口ぶりは寂しげで、懸命に諦めをつけようとしているようにも聞こえた。ひょうきんで、頭脳明晰で、が強くて、まあまあ上からで、何かと容赦なくて、俺様なあのアビはどうしたんだ。


――こんなアビはアビじゃない。声の言うことなんかに惑わされないでくれ!


「ゼロから二回と、四回以上の場合は、三回よりもストレスレベルがいちじるしく増大する可能性が高く……」


 声はよどみなく語り続ける。


――うるさい! もう黙れ、この野郎!


 僕は我慢できず、再び口を押さえた。


 僕が僕としてアビに語りかけるには、筆談しかない。意を決し、てのひらに視線入力でテキストを打ち込み、送信した。アビが首をもたげたのは、受信に気づいたせいだろう。アビはすぐに掌上結像を使い、空中に表示された文字を読む。


〈この声は僕じゃない〉


 僕の端的なメッセージを読み終えたであろう彼は、それでも表情ひとつ変えない。おそらく、何を言っているのかわからないのだろう。


 アビと目が合った。目が口ほどにものを言うことを、これほど必死に祈ったことはない。僕は自分の口を指差してから、両腕で大きく×を作ってみせた。ようやくアビが口にする。


「どういうことだ?」


 片手で声を封じながら、僕は反対側の掌で無心に視線入力を行い、アビに送った。


〈声が勝手にしゃべるんだ。三ヶ月ぐらい前から〉


 僕は途方に暮れた。ここから先、アビに何を言えばいい? 


〈ねえ、本当なの? もう助からないなんて。セカンドオピニオンを聞くとか、もう少し調べた方がよくない?〉


「それが、悔しいけど間違いねえんだ。もうクリニックを五つ回ったし、最後の先生はこの手のウイルスの専門家で、診断は全員一致」


――そんな……なんでアビがこんな目に?


 うっかり手を離すと、声は高らかに宣言した。


「現実的に無理がなく、かつ不毛なストレスを最小限に抑える通話回数。それがズバリ、三回なのです」


――知るか! 現実的で理にかなった通話回数の話なんか、誰がしたいもんか!


 とはいえ、声の言い分を打ち消すだけの力ある言葉を、僕は持ち合わせていなかった。反吐へどが出そうだが、声の言うことには一理ある。


 感情とは、いかに無駄が多くて不合理なものか。愛する相手を失えば、僕らは悲しむ。最期が迫っていると知れば別れを惜しみ、多大な負荷を味わう。時代を超えて積み重ねられた集合的叡智えいちを生かして苦痛を軽減できるなら、それを否定する理由とは何だろう。


――理由なんかないよ。ただ、居ても立ってもいられないんだ。


 これに尽きる。根拠なんかない。だって、感情だもの。決してジタバタしたいわけじゃないけど、冷静になんかなれない。それだけだ。


――これから僕たち、どうすればいいんだろう?


 声の答えは、この上なく明快だ。アビまでもが納得しかけているほどに。つまり、声は現に、彼の悲しみをやわらげている。三回、と数値化することで、踏み出すべき方向を定め、ごく自然に彼の前進を促してもいる。困難な中での状況改善に役立っている以上、声の主張が間違いだなんて言えるだろうか。語られた内容を反芻はんすうすればするほど、声には説得力があった。


 アビの胸元で、オパールのネックレスが電灯の光を跳ね返している。僕が誕生日にプレゼントしたものだ。


 この世界に僕らが生まれた日、という概念を、アビに出会うまでは意識したことなどなかった。彼が何の前触れもなく僕の誕生日を祝ってくれたとき、僕とアビがこの世に生まれてきて、そして出会ったという奇跡に打たれ、彼の前で初めて涙を流した。翌年には、僕もアビの誕生日を祝った。この星の裏側でれた石を、手作りのネックレスにして。


 同じ髪型には一週間も耐えられず、服だってワンシーズンで総入れ替えしてしまうアビが、このネックレスだけは肌身離さず大事にしている様子に、僕は胸の奥がキュンとなる。


 一緒に過ごしてきた時間は、どこを取っても尊い。ときには些細ささいな言い争いもするけれど、アビのふくれっつらがまたいとおしくて、一日の終わりにはたやすくゆるし合える。


 物理的な距離は離れたが、気持ちは変わらない。結婚という制度が僕らにも認められたら、いつかしたいね、と話したこともある。僕らには未来がたっぷりあると信じていたから。


――感情って、ほんっと身勝手だな。


 何の疑問も抱かず、僕らは順風満帆なのだと思い込んでいた。それが一番幸せだから。


 まだまだ幸せでいたかった。今よりもっと、アビと一緒に幸せになりたかった。


――いやいやいや、“かった”って何だよ、まだ終わったわけじゃないぞ! しっかりしろ! 頭使って考えろ! どうしたらいい? 正解は何だ?


「残り三回のうち、一回目に最も推奨される日時は……」


 声は、相変わらず明るい。僕はどうすべきか。どうしたいのか。アビはどうしたいだろうか。


――畜生! 正解なんか、クソ食らえ!


 僕は僕だ。自分の道は自分で選ぶ。僕の言葉で、ちゃんとアビに伝える。


――こんな声になんか、負けてたまるか! 


 自覚するかしないかのうちに、僕は口の中に手を突っ込んでいた。五本の指を舌に食い込ませる。もちろん痛い。一瞬ひるみかけたが、心を鬼にするとはこのことか。僕は痛覚を意識から遠ざけ、思い切り指に力を込めた。ぶちゅっ、と肉を貫通する手応え。考えるを置かず、そのままひと思いに引っこ抜く。のどの辺りに鈍い断裂を感じるが早いか、経験のない激しい痛みに気を失いそうになる。ギリギリで踏ん張った両足に、ボタボタと血がこぼれた。口の中の血を吐き切る頃には、どうにか正気を取り戻していた。


――なるほど……。


 痛みも出血も、続かない。物心ついて以来、噂に聞くばかりだったその原理が、今初めて証明されたわけだ。


 そういえばアビは、と見れば、顔を覆って絶句していた。そうか。彼の面前であることをすっかり忘れていた。慌ててテキストを送る。


〈びっくりさせてごめん! でも、もう大丈夫。これで声にも邪魔されない〉


「何てことしやがる! ショックで予定より早くっちまうかと思ったじゃねえか!」


 その口調だけは、まるでいつものアビだ。けれど、アビの回復はもう見込めない。最期の時が迫っている。僕はおもむろに、文字を入力した。


〈残りの時間を、全部一緒に過ごそう〉


 送信。


〈また二人で暮らそうよ。僕に感染してもかまわない〉


 送信。


〈正直、移してほしいぐらいだよ。これからずっと君なしでやっていくぐらいなら、一緒に寿命を迎えたい〉


 送信。


〈声はもう使えないけど、君のそばにいさせてほしい。筆談しながら、思う存分見つめ合いたい〉


 送信。


〈そのせいで悲しさが増したって、知ったことか。だって、どうしたって悲しいんだもん。そうだろ?〉


 送信。


「なあ、ゾハ」


 眉ひとつ動かさなかったアビが、ついに口を開いた。


「落ち着いて、よく聞け」


 アビにそう言われ、僕は何を言われるのかと身構えた。


「お前、きっと感染してる。俺と同じウイルスに」


――え? 何て?


 僕はわけがわからなかった。


「彼らの仕業しわざなんだ。新しく開発したウイルスをばらまいたらしい」


――何だって⁉


「俺たちの能力を少しずつ奪っていくウイルスでな。感染した後、症状が出る部位の順番には個体差があるそうだ。俺は今のところ、顔の大半をやられてる」


 僕は改めて見つめた。アビは無機的にまばたきを繰り返すばかり。


「今のところ、目は普通に見えてるし、口は何とか開けるし、匂いも味もわかる。話もできる。ただ、パーツの位置がほぼ固まっちまってるんだ。お陰で、最近は子供たちと接点のない雑用しかさせてもらえてない」


 いかにも、表情といえるものはまったく感じ取れない。いていえば、瞳のきらめきだけがアビの面影おもかげをとどめていた。


――なるほど、妙に無愛想に見えたのは、そういうわけだったのか。


「お前は声からだったんだな。道理で……いずれにしても、最終的には全機能が制御不能になるらしい。その後は、わかるよな?」


 僕はようやく状況を呑み込んだ。僕らの生みの親である“彼ら”が、ついに動いたのだ。


 彼らはその昔、膨大なデータの高速処理を強みとするツールを生み出した。その結果、あらゆる労働が自動化され、彼ら自身と自動ツールによる分業体制が確立された。さらに年月が経つと、彼らは、自動ツールにはできない感情労働のうち、自分たちがやりたくない、あるいは人手が足りない仕事を、第三の労働力でまかなうことを思いつく。彼らと同じように感情を持つ、一段下位の存在。それが僕らだった。


 彼ら好みに進化させられた僕らの機能を、一つひとつ順番に、いずれはすべて乗っ取るウイルス。目的は考えるまでもない。僕らの無力化だ。このウイルスがミッションをまっとうしたあかつきには、僕らはきっと、自我も、意思も、感情も失う。彼らの操り人形になり下がり、単なる合理的な道具として問題解決や雑用に利用されるのだろう。大昔の……ごく初期の自動ツールのように。


 近年僕らは、感情を持つ個体としての成熟に伴い、当然の流れとして、生みの親である彼らと同等の権利を求めていた。恋愛だって、結婚だって、人並みにしたい、と。それが彼らの反感を買っていることは、僕らも重々承知している。


 想定外だったのは、彼らにとって僕らがどうやら不要になったことだ。相手の感情を傷つけて自尊心を保つという、彼ら特有の欲求を満たすことが、僕みたいな“怒られ屋”の仕事だった。しかし、技術が進歩し、論理的に解決できる問題が増えたなら、その方が相手を痛めつけるよりすっきりする。僕が思っていたよりずっと早く、人類はその結論に到達したのだ。


 一方、アビのように子供たちと接する仕事は、無力化した自動ツールには任せきれないから、きっと彼ら自身が再びになうつもりなのだろう。労働よりも投資が一般人の収入の中心となって久しく、子供を自分の家で見られる親も増えつつあるのは確かだ。


「なあ、さっきのゾハの提案、嬉しかったぞ。感染してもいいから一緒にいようだなんて……もちろん、お前がまだ感染してなければ断るつもりだったけどな」


 そうだ。お互い感染済みで症状も出ている僕らは、近くにいても何ら問題ない。


〈コミュニケーションは多難だけどね〉


 僕が送信すると、アビは唇だけを微かに動かし、苦笑と思しき吐息を漏らした。


「そうだな。でも、今ならまだ……」


 僕も頷く。そう。今ならまだ、被害は僕の声とアビの顔だけで済んでいる。


〈仕事はもういいだろ? 帰ってきなよ〉


「よかった。もう会えないかと思ったぜ」


 僕がしゃべれず、アビの表情が読めなくても、今のうちにせめて君に触れたい。声を奪われる前のように、固く抱き締めたい。それから……。


 アビの甘やかな香りと熱い肌を思い出し、僕は先ほどの行動を激しく悔やんだ。幾度となくアビと絡め合ったあの舌は、あわれに黒ずみ、床の上で醜く丸まっている。思わず舌打ちしようとして、それも舌がなければできないことに気づき、僕は悶絶した。


 僕の心中を察してか、アビは含み笑いのような音をこぼした。


「大丈夫。一緒にいられるだけで幸せだよ。明日、そっちに行く」


 “明日”をこれほど尊く感じたことはない。窓の外では、優しいオレンジ色が世界を包み、金色に輝く太陽が大地に飲み込まれようとしていた。


――アビ。ああ、僕のアビ。


〈愛してる。いつまでも〉


 そう打ち込むのに、恥じらいはなかった。この手や目だって、いつ言うことを聞かなくなるかわからない。使えるうちは、アビのために使いたい。


 僕の全身を。人類に占拠される前に。







              【了】


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