第2話 さよなら、またね

 気がつくと祖母はいつも空を見上げていた。


 晴れの日も。雨の日も。

 朔の夜も。満月の夜も。

 祖母は空を透かして、祖父の姿を見つけようとしていた。


「次に会うときは、あの星の海に私も連れて行ってもらうのよ」

 約束したのだと、祖母は頬を染める。


 私たちは隣り合わせで空を見ながら、縁側でやわらかに談笑する。

 飽きずによくのろけられるわね~なんて母は微苦笑で「またその話? 耳にタコができるわ」なんてこぼしながら茶菓子を用意する。


 見たこともない父親のはずなのに、母が持っている祖父に対する感情はとても暖かだ。

 絶え間なく話を聞くことで、祖母と同じだけの時間を一緒に過ごした気になっているのかもしれない。


 一度も見たことがない祖父なのに、母は両親に愛されて必要とされて生まれてきた子供なのだ。

 そう思わせてしまう一途な恋心って偉大だ。


 だけど、七十歳を過ぎてからは冗談まじりの少し切ない口調で、遅いわねぇとこぼすようになった。

「早く来てくれないと、別のお迎えが来ちゃいそう」

 肌身離さず身につけているペンダントの青い石を握りしめながら、祖母はいつものように星空を見上げる。


「アレクセイ、私、もうすっかりおばあちゃんになったわよ」


 さみしそうな背中を見ても、こればっかりはどうしようもない。

 私には何もできないし、母や父だって打つ手がない。


 祖母を笑顔にできるのは祖父だけなのだ。

 だけど、どこにいるかもわからない。


 私たち家族はいると信じていたけれど、客観的に考えると本当に存在しているのかも怪しい人だ。

 だいたい、外国船ならまだしも、宇宙船って何なんだ。

 音信不通のまま姿を見せない祖父に向かって、早くこい! と胸の中で叱咤激励を贈るだけだ。 

 ずっとずっと幸せそうだった祖母が、ひとりぼっちでこの世を去ったらどうしよう。


 このまま会えないまま終わるなんて、そんなのは嫌だ。

 そんな不安が胸をよぎる。


 だけど、私たち家族にできるのは、見守ることだけだった。


 悶々としながら過ごしていた、ある日のこと。

 学校の帰り道に、変な格好のおじさんが道べりに立っていた。


 真夏なのに長そで長ズボンの完全装備。

 黒に見えるけれど光にあたった部分が螺鈿とか玉虫色に似た色彩に輝く、妙な材質のライダーススーツを着ている壮年の男の人。

 細身だけど肩幅が広く鍛えた感じで、明るい栗色の髪も濃い青い瞳も日本人にはない色だ。


 妙に目立つ人だな、と思った時、その青い目が私を見た。

 あ、とその瞬間にピンときた。


「アレクセイ!」

「千夜子!」


 同時に名前を叫んでいた。

 聞いていた通りの……いや、聞いていたのは二十歳代のかっこいいお兄さんだったので、今は五十歳になるかならないかの姿だから老けてはいる。


 だけど、今の祖母が七十歳だと思えば、かなり若い。

 アレクセイと名前を呼んだものの、やっぱり動揺する。


 え? 本物?

 そんなばかな! という思いと、今まで何していたの? という問いかけと、どうでもいいからさっさと祖母のもとへ向かえよ! という気持ちと、いろいろとわき上がってきてすぐには言葉が出てこない。

 私がマジマジと見つめながら黙っているうちに、その人は嘆きの言葉を発した。


「一体どういうことだ? こんな子供に戻ってしまうなんて……!」


 あ、この人の思考のズレ方には聞き覚えがある。

 彼は確かに祖母が愛してやまないおじいちゃんだと、ストンと胸に落ちた。


 感動の再会のはずなのに、とぼけたことを言うから間違いない。

 それが本気なのか天然なのか悩ましいけれど、でも、可愛いのよね、とは祖母の談だ。


 苦労をかけたから! なんて祖父が泣きだす前に、私は「あなたの孫です」と訂正する。

 子供という表現に、高校生であるところのプライドはいたく傷つけられたけれど、妙齢の女性だった時の祖母を見たのが最後なのだから、いたしかたないのかもしれない。


「孫?!」

 絶句するアレクセイはいい大人なのに少年みたいな表情で、孫は子供の子供だ……などとぶつぶつ呟いている。

「え? 孫の前は子供で、子供の次は孫で……一回ぽっきりで孫……子供の子供の孫……」

 スコンと表情が抜け落ちて、ずいぶんと混乱しているようだった。

 そう言えば母が生まれたことも知らないんだと今更ながらに気がついた。


 ともあれ、やっと現れた祖父なのだ。

 私は速やかに自宅に案内することにした。


 肩を並べて歩いていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。

 祖母の昔語りの中にしかいなかった人が、一気に現実の人間になっていく。

 会話の中にしか存在していなかったのに、聞いていた通りの人だったから、おかしいぐらい気持ちが馴染んでしまう。

 祖父と孫というよりも、遠くに旅していた家族にやっと再会した感じと言えばいいだろうか。


 私たちは、ポツリポツリとぎこちない会話を交わした。

 今までの空白の時間を埋めるように。 

 言葉少なながらに「なるほど」とうなずく祖父は次第に満ち足りた顔になっていく。


 けれど私は、祖父の話を聞けば聞くほど、妙な不安定さを感じてしまう。

 本当のことを言っている匂いがするのに、話に出てくる内容がおかしい。

 おかしい、というのは私の知っている常識とはまるで違っているからで、祖母の話を覚えていたら少しもおかしくはないのだけれど。


 ともかくこの人は、外国船の船員などでは絶対にない。

 星雲を渡る貨物船だの銀河法案だの、聞きなれた祖母の昔語りの中に息づいていた世界がめくりめくようにあふれ出て、息をするように自然なのだ。


 そんな馬鹿なことはないと否定するのは簡単だけど、真実だとしか感じ取れなくて混乱してしまう。

 祖父は宇宙船でやってきたなんてちっとも信じていなかったけれど、夢見がちだなんて思っていて祖母には悪いことをしてしまった。


 なんてことを考えていたら、アレクセイが私を見つめていることに気付いた。

 懐かしそうな、まぶしそうな、不思議な眼差しだった。


「君は本当に千夜子に似ているね」


 思わず見つめ返したけれど言葉がうまく出てこなくて、うなずくことしかできない。

 かみしめるような言葉に、祖父は祖父なりに大変な時間を過ごしてきたのだと、なんとなく感じてしまった。


 離れている間、不安を抱えないはずがない。

 祖母のように確かな証を持っていなかったのだから。


 祖母の手には、ペンダントと母が常にあった。

 祖父には想い出以外、何もなかった。


 交流のない惑星からは、生命維持に不必要な物を持ち出してはいけないと定められているから、写真一枚すら渡せなかったそうだ。

 二人にしかわからない葛藤は想像するばかりだけれど、その途方もない時間の長さにめまいを覚える。


 祖父も確かに、祖母だけを愛し続けてきたのだ。


 いつもは玄関から帰宅するけれど、今日は裏庭に回る。

 この時間なら祖母は縁側に座っているはずだ。

 裏木戸を開けて「ただいま」と声をかけると、日向ぼっこをしながら空を見ていた祖母が、私に顔を向けた。


「おかえり」


 いつものようにそう笑ったけれど、すぐに息を飲む。

 視線が私を通り過ぎて、後ろに立つ人に吸いつけられていた。


 そっと横によけると、同じように息を飲んで立ち尽くしていた祖父が、ゆっくりと歩き出した。

 ほんの数メートルなのに、見ている私がもどかしい。


 祖父はその眼差しに、祖母だけを写していた。

 一歩、また一歩と、大地を踏みしめるように、ゆっくりと進む。


 そして、祖母の前まで歩むと、ゆっくりと片膝をついた。

 手を伸ばし、まるで騎士のように祖母の右手をとると、その甲に口づけた。


「随分と待たせたけど、君の期待に応えられるだろうか?」

 自分の右手を取る大きな手に、呆然としていた祖母が小さく震えながら「ええ」とうなずくと同時に、透明な涙が一筋こぼれ落ちる。


「星の彼方へ連れて行ってくれるなら、いくらでも待つって言ったでしょう?」


 祖父は自然に動いて祖母の横に寄りそい、震える細い肩をそっと抱き寄せる。

 押し殺した祖母の嗚咽が、喜びに濡れていた。


 離れていた長い時間を感じさせないぐらい、確かな信頼を感じる二人の空気に、私はそっと裏木戸を抜ける。

 遠回りになるけど玄関に回って、音をたてないようにひっそりと自分の部屋に入った。


 今はなんとなく、二人の邪魔をしたくなかったのだ。

 ベッドに寝転んで天井を見つめながら、しばらくボーっとしていたけれど、すぐに気付いた。

 パートに出ている母や父にメッセージを送る。


「祖父、帰還する」と。


 その日、取り急ぎの宴会を行うことになった。

 突然現れた祖父を囲む会と、祖母を送り出す会と、両方の名目で。

 そう、祖父が現れただけでも驚愕なのに、私も一緒に行くからしばらくお別れね、なんて祖母が言い出したから、我が家に激震が走ったのだ。


 まぁ確かに、祖父が顔を出したら、祖母も一緒に行くと言いだすのは予想していた。

 予想はしていても、準備時間もなく突然の別れになると言われれば、心が追い付かない。

 今から宇宙に旅立つわってケロッと宣言されても、納得できる人はなかなかいないだろう。


 でも、止めても無駄だというのは、全員がわかっていた。

 止めて意見を変えるぐらいなら、祖母はとっくの昔に祖父を忘れて、別の人と一緒になっていただろう。


 祖父と私の父が並ぶとあまり変わらない歳に見えて、何だか悔しいわとひとしきり祖母と母がぼやくのでおかしかった。

 動揺はそれなりにあったけれど、夢見がちな祖母の話が実は真実だったという驚きのほうが強くて、戸惑いと喜びといろんな感情が入り混じるグチャグチャな状態だった。


 でも、みんな笑っていた。

 ニコニコと笑って、ほんの少し別れのさみしさに瞳を潤ませて。


 いい時間だった。

 家族全員がそろう、本当にいい時間だった。


 二日間、祖父は我が家にいた。

 三日目の夜に、祖母の手を取って庭に立つ。

 当たり前のように「お別れだ」と言った。

 トランク二つ分の荷物を持って、幸せそうに笑う祖母は少女のように愛らしかった。


「じゃぁな!」


 そんな言葉ひとつ残して、二人の姿はキラキラした光に包まれる。

 妖精の羽からこぼれ落ちたように見えるやわらかで繊細な輝きを残して、サヨナラも世話になったも言わずに、二人は姿を消した。


 なにもない夜の闇が、シンと庭に落ちていた。

 あっという間の出来事に、見送りに出ていた私たちはまばたきを何度も繰り返す。

 宇宙人だと頭で理解していたけれど、こうして目の前で見るとやっぱり本物の宇宙人だと驚くしかない。


 思わず空を見上げた。

 まれに見るほどの、美しい星空だった。


 いつもと違うのは、月と同じぐらい大きな光が一つ、庭に立つ私たちを見降ろしていた。

 サヨナラと手を振るように、フワンフワンと左右に揺れて、青白い光を放つ。


 差し込む月光よりもやわらかで、暖かい青の光。


 それは名残惜しそうに星空を漂っていたけれど、スウッと上空へと遠ざかる。

 流星のように光の尾を引いて、星空へと吸い込まれていく。

 ふと、今になって気付いた。


「あ、私、宇宙人の孫になるんだ……」


 つぶやくと同時に、憑き物が落ちたような顔で両親が顔を見合わせた。

 困った困ったと、ずいぶんと生活感にあふれた会話がはじまった。


「そうだ、おばあちゃんの失踪宣告を出さないと」

「年金停止の手続きが……宇宙に旅立ちましたなんて言えないし……」


 安定のほのぼのした我が家の会話に、思わず声をあげて笑ってしまった。

 両親には睨まれたけれど、でも、気にするところが違うと思う。

 公的な手続きは必要なことだとわかっていても、おかしくてたまらない。


 星空へとそっと視線を投げる。

 宇宙船の名残はどこにもない。

 夢みたいな時間。夢みたいな話だけど、今からは祖母の姿がこの家の中から消えてしまった。


 星空を旅する祖母と祖父の物語は、これからは同じ時間を刻む。

 今度はいつ会えるかわからないけれど、私たち家族のことだからちゃんと伝えていかなくては。


 私の子供や孫たちが「ただいま」って突然に帰ってくる千夜子とアレクセイに出会うかもしれない。

 それは取り留めもない想像だけど、なんだか確かな未来のようで、思わず顔がほころんだ。


 サヨナラ、またね。

 星の彼方から戻ったなら、迷わず「お帰り」と笑うから。


 その日まで、どうかお元気で!

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星の彼方から 真朱マロ @masyu-maro

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