ひと粒の葡萄

朝吹

ひと粒の葡萄


 葡萄が実っていた。

 大きな籠に次々と春葡萄を投げ込んでいく。葡萄酒用なので多少潰れても構わない。

「ベルリンが陥落してヒトラーが自殺したぞ」

 顔見知りの郵便配達員が彼に声をかけて自転車で過ぎて行った。町にあるラジオが二日前に射殺されたムッソリーニの遺体がミラノで晒し者になっていることを告げたのは、つい昨日のことだ。

 彼は遠くに聳える山脈を仰いだ。

 山間の小さなこの邑では、戦争など遠い国の出来事のようだ。ルフトヴァッフェ編隊が小麦粒ほどの大きさで横切ったというだけで、或いはまた、敵機スピットファイアの破片がどこかの海岸に漂着したというだけで、繰り返しそのことばかりが飽くことなく語られる、そんな片田舎。

 邑人たちはいつまでもその話ばかりをしていた。いつも同じことばかりを。

 やがてヒトラーとムッソリーニ、この二つの名は彼の頭の中で一つになった。その両名が日を空けずして死んだ。世界を覆いつくしていた大きな銅像が音を立てて引き倒されたのだ。ようやく。



 半透明の葡萄が連なってぶら下がる。風が吹けば一斉に涼しげな鈴の音を鳴らしそうだ。

 七年前、葡萄で満たした籠をおいて、彼の弟はこの畑から姿を消した。その時に、兄である彼の恋人も邑から消えた。弟と恋人は駈け落ちしたのだ。父母が死んだ後、兄弟で守っていこうとしていたこの葡萄畑を捨てて。

 そのうち戦争が始まってしまい、彼らのことは何も分からなくなった。

 摘んだ葡萄を籠に入れる。午後には収穫した葡萄を受け取りに荷馬車がやって来る。醸造家が彼の育てた葡萄をワインへと変えるのだ。

 へとへとになるまで働いて寝る。早起きして働いてまた寝る。葡萄だけでなく野菜もつくる。それを繰り返していれば余計なことは何も考えなくて済む。考えたくない。なにも。

「こんにちは」

 石垣の向こうから、小さな女の子が顔を出していた。



 坂道ばかりで疲れちゃったわ。

 少女は彼が差し出した井戸水をひと息に呑み干した。

「何処から来た」

「ガリア・トランサルピナ」家の中を興味深そうに見廻して、少女は応えた。

 彼は少し驚いて訊き返した。

「物知りだな」

 トランサルピナとは、ガリア・キサルピナよりも北部を指す。どちらもローマ時代の属州名だ。

「アルプス山脈の向こうのトランサルピナから車に乗せてもらって、大きな街で降りて、歩いて来たの。下の町で一泊したから、今朝から歩いた距離は短いけどね」

「ここはキサルピナの田舎だ。いったい何処に行くつもりなんだい、お嬢さん」

 少女は云った。

「お父さんの家」

「送っていこう」

 彼は壁にかけていた帽子を手にとった。葡萄のことを隣家に頼み、ついでに馬車を借りて来なければ。

 少女は彼を呼びとめた。開いた扉からみどりに耀く畑が家の中にまで透き通った光を投げかけている。

「もう着いたの」

 彼は振り返った。少女は彼が皿に出したビスケットを食べていた。

「わたしのお父さん」

「ははは」

 彼は笑った。笑うしかなかった。何を云い出す。

「後から、ママンも来るわ」

「そうかい。じゃあ、ママンの名を云ってみな」

 少女はその名を彼に告げた。


 

 庭先の石垣の前で、彼は突っ立っていた。

 弟は駈け落ちした。兄である彼の恋人と。その時にはすでに腹の中に彼の子がいたのだ。この小さな邑で結婚前の娘が子どもを産むことは出来なかった。悩みに悩んだ彼女は邑を出て、誰も知る者がいない土地で子どもを生もうとしていた。

「兄貴の子だろ」

 彼の弟は、彼女の悩みを知っていた。

「独りで行かせることは出来ないよ」

 ローマ時代に架けられた小さな石橋の下で彼らは落ち合い、そして邑から消えた。先祖伝来の畑から兄が離れることは出来ないと知っていた弟は、半年前、腸チフスで亡くなっていた。

「ママンに渡してあげて」

 裏庭に回っていた少女が花を摘んで戻って来て、彼の手に持たせた。

 馬車が見えてきた。少女の母は妊娠しており、大きなお腹を抱えては山を登れない。町の人たちが、収穫を受け取りにこちらに来る醸造家の馬車に乗って行くようにと勧めたのだ。

 彼は隣りにいる少女を見た。弟がこの子の父親になってくれていたのなら、彼もまた、少女と、そして彼女の腹にいる弟の子の親になれるだろう。



 親切な宿に母をおいて、少女は山道を歩き出した。

 ローマ人は地面を掘り起こして街道を整備した。そしてマイル毎の道標を建てた。方々に残る帝国の遺跡。この一帯の葡萄畑は、古代ローマ帝国の頃に拓かれたのだと、亡くなった父が教えてくれた。

 少女は歩いた。

 わたしとママンを倖せにしてくれたパパ。お前は遠い故郷の葡萄の粒だよ。パパはそう云ってわたしを可愛がってくれた。

 葡萄畑が見える。赤煉瓦の屋根、あれだ。

 あそこにわたしの本当のパパがいる。

 一マイル毎に歌うように心がはずんだ。一歩ごとに。

 もう少しで葡萄農園に着く。

 ガリア・キサルピナの領土に入ってから、古代ローマのマイル換算では、ちょうど五十マイル。その道のりが終わる。



[了]

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ひと粒の葡萄 朝吹 @asabuki

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