西の灯台守のはなし
藍田レプン
西の灯台守のはなし
ある西の国に 一人の灯台守がおりました。
その灯台守はもともとは町の役場の職員だったのですが、町の空気が合わず、役場で新しく岬にできた灯台に住み込みで暮らす灯台守の募集をしているのを見て、この町のはずれにある灯台へ、飼い犬の黒いサルーキとともに越してきたのでした。
それが、三年前のこと。
その日もいつも通り、夜を徹しての仕事に一息つくと、灯台守は台所で淹れた珈琲を一杯すすりました。
珈琲から立ち上る湯気が、まるで海を覆いつくす霧のようだ。
ぼんやりと、灯台守は霧の日の灯台を思い浮かべます。
町から遠く離れたこの断崖に、ぽつりと寂しくたたずむこの灯台は
人付き合いが苦手な灯台守には心地よく、
寂しがり屋の灯台守には孤独な住処でした。
「ああ」
また、寂しくなってしまった。
灯台守は飼い犬のサルーキに、少し行ってくるよ、と声をかけ、町の酒場まで向かいました。
灯台は道の悪い崖の上に建っていて、徒歩でしか町と行き来はできません。
歩いて一時間以上かかるその道を、灯台守は月に一、二度、通るのです。
町へ出ては酒場に寄って、馴染みの店主と少しだけ話をし、買い物をして、灯台へ帰る。
この三年間、ずっと変わらなかったその習慣。
ただこの日いつも違ったのは
酒場で、あの船乗りと会ったことでした。
西の海に面した港町は、大勢の船乗りや商人が行き来する、小さいながらもにぎやかな町でした。
白壁でできた迷路のような路地の奥まったところにある、一軒の酒場。
そこが灯台守の孤独を癒す唯一の場所でした。
人あたりのいい店主と、小さなステージで心地よい音楽を奏でる老齢の楽団。
港の入り口近くの騒々しい酒場にはない、ゆっくりとした時間が灯台守は好きでした。
ところが、この日は少し様子が違ったのです。
「やあ、どうしたんだい葬式帰りのような顔をして!」
カウンターで一人麦酒を飲んでいた灯台守は、突然声をかけられて戸惑いました。
やたらと陽気な男でした。
見ると、その顔は真っ赤に染まっています。
もうずいぶんな量の酒を飲んでいるのでしょう。
足元はふらふらとおぼつかなく、今にも倒れそうです。
「飲みすぎじゃあありませんか」
灯台守は店主に「水を」と告げると、自分に向かってもたれかかる男の体を受け止めました。
乾いた汗と、潮の香りがしました。
ボーダーのシャツには旗の刺繍。
このあたりの船乗りの、おきまりの格好です。
「お兄さんはここの常連さんかい?
よかったら僕が奢るから、少し話でもしないかい」
そう声をかけられ、灯台守は困ってしまいました。
あまり人と話すのは得意ではないのです。
けれど、彼の屈託の無い笑顔と、久しぶりに触れた人肌がそうさせたのか。
「少しだけなら」
灯台守はそう答えて、手元に来た水を船乗りに勧めたのでした。
水を一息に飲み干すと、船乗りはまた麦酒に口をつけては一方的に話し出しました。
普段は向かいの島とこちらの島を結ぶ宅配の仕事をしていること、今月は仕事が多くて大変だったが、その分実入りがよかったこと、いま町で流行っている音楽のこと、それから
町外れの灯台のこと。
「……!」
灯台守は、なぜだかどきりとしました。
別に悪いことをしているわけでもないのですが、なぜだかどきりとして、そして
この船乗りが灯台のことをどう思っているのかが、気になりました。
「どう、ですか」
「ええ?」
「あの灯台は、どうですか」
「……どう、と言われても」
灯台は灯台だねえ、と船乗りは笑いました。
「けれど、あの灯台ができてから夜の航海もずいぶんと楽になった」
助かってるよ、と船乗りはなにがおかしいのか、また笑みをこぼしました。
「まあまあ、そんなことより兄さんももう一杯、さあ、さあ」
「いえ、私はそんなに……
強くないので」
肩に腕を回して酒を勧める船乗りに、灯台守は困った顔をして首を横に振りました。
何度か麦酒は船乗りの胸元と灯台守の口元をいったりきたりした後、
「ああ……!」
酔って力の入らなくなった船乗りの指が、ジョッキの取っ手からするりと抜け
支えを失ったジョッキは、灯台守の胸元に、黄金色の液体を浴びせかけました。
「あ……」
「……悪い!」
ぐっしょりと濡れたシャツの胸元をぼうぜんと見つめる灯台守に、一瞬で酔いがさめた船乗りは、うろたえた様子で謝りました。
「いまなにか、代えの服を買ってくるから……!」
「いえ、麦酒なら家で洗濯すれば落ちますし」
灯台守はカウンターにこぼれた麦酒を拭く店主に酒代をわたすと、本当にお気になさらず、と慣れない笑みを浮かべて、船乗りに告げました。
「そろそろ帰ります、家が遠いので」
「けれど」
「楽しかったです、ありがとう」
軽く会釈をして、灯台守は酒場をあとにしました。
なんだか不思議な一日だった。
灯台に戻り、ビールまみれの体を洗って新しい服に着替えると、夜の仕事に備え灯台守は灯室に入りました。
玻璃板(はりはん)にうつるくたびれた自分の顔が、少し笑っていました。
なんだかおかしな一日だった。
灯台守は酒場で会ったあの船乗りの顔を思い浮かべます。
無愛想で、つまらないやつと思われただろうな。
こころの奥が、じんわりとあたたかくなった。
こんな感じは、久しぶりかもしれない。
いや、
はじめてかもしれない。
今日も暗い夜を、灯台はてらします。
翌日。
昼間、灯台守は寝ている時間。
「うん……?」
普段は静かなサルーキが、わんわん、わんわんと玄関口で吼えている声で灯台守は目をさましました。
いったいどうしたのだろう?
灯台守が玄関口まで行くと、
摺り硝子の向こうに人影がみえました。
郵便でも届いたのだろうか。
「はい」
しずかに、と灯台守はサルーキの頭を優しくなでると、玄関の扉を開けました。
「やあ」
「あなたは」
そこに立っていたのは郵便配達夫ではなく、昨日の酒場で出会った船乗りでした。
手には包みを持っています。
「本当にここは町から遠いんだね」
「どうしてここを」
「昨日の酒場の親父にきいた。
道理で灯台の話に食いついたわけだ」
昨日の話をもちだされ、灯台守は少し顔が赤くなりました。
「これ」
船乗りは手にした包みを灯台守に渡しました。
包みからは甘いかおり。
向かいの島でだけ採れる、特産品の果物の香りです。
「昨日服を汚してしまったお詫びに」
「こんないいもの、いただけません」
「いいから、じゃあ、また縁があればあの酒場で」
船乗りは初めて会った時とおなじ、屈託の無い笑顔を灯台守に向けると、くるりときびすをかえしてもと来た道を戻ろうとしました。
わざわざそのためだけに、片道一時間以上もかかるこの灯台まで
この人は?
「あの」
「え?」
「あの」
甘い、果物の香りと
断崖の下から聞こえる波の音と
うすい、水色の空
かすかに震える声で、灯台守は言いました。
「よかったら、珈琲でも飲んでいきませんか」
台所で珈琲を入れると、皮を剥いた果物と一緒に灯台守は椅子に座る船乗りに勧めました。
無くても困らないのに、と思っていた、テーブルとセットの二脚目の椅子が今日は初めて役に立ちました。
「ありがとう」
珈琲を一口飲むと、熱いけど美味しいね、と船乗りは笑いました。
船乗りの顔にかかる珈琲の湯気が
まるで、霧のようで
「今日は、お仕事は」
「ああ、いいんだ」
もしかしたら無理を言ってしまっただろうか。
灯台守も珈琲を一口飲むと、切り分けられた果物に口をつけました。
みずみずしく、甘い。
果物を食べたのも久しぶりです。
「君のほうこそ、仕事は」
「私の仕事は、夜からだから」
「ああ、そうだった」
大変だろう、と船乗りは言いました。
「『女王の日』以外は、ずっと海を照らし続けなければいけない」
「ええ、でも」
私はここでの生活が気に入っているので。
珈琲をもう一口飲もうと、灯台守がコップに手を伸ばしたときです。
「ああ……!」
果物の露で濡れた指が、つるとなめらかなコップの表面を滑りました。
「あつ……」
羆の毛皮のように黒い液体が、灯台守のシャツとズボンを濡らします。
「おやおや」
昨日は麦酒で今日は珈琲か、君のシャツはよっぽど咽喉が渇いているとみえる。
おどけて船乗りが言うと、困ったような顔をして、そのようですねと灯台守は返しました。
「ほら、早く脱いで。
早く洗わないと染みになってしまう」
「ええ?」
「着替えはどこにあるんだい、さあ、ほら」
船乗りは灯台守のシャツを脱がそうと、その肌に触れました。
船乗りの日に焼けた指が触れたとたん、
「あ……!」
色の白い肌が、湯上がりのように桃色にほてります。
「え?」
「ああ、その、すいません、一人で……
できます、から」
「きみは、その……」
「……はい」
「……その」
「……すいません……」
「……今から、大事なことを言うよ」
珈琲まみれのシャツのままの灯台守を、船乗りは抱きしめました。
船乗りの着ていたボーダーのシャツにも、触れ合ったそばから珈琲が染み込んでいきます。
「君に一目ぼれしたんだ」
昨日声をかけたのは君が素敵だったからで、ビールをこぼしたのはもちろんわざとじゃあないけれど、君と話ができて浮かれていたのは事実だ。
ここに来たのも服のお詫びなんていうのは口実で、ただ
「一目、君に会いたくて」
突然のことに灯台守は驚いてしまいました。
こんな、
嘘みたいだ。
「夢みたいだ」
こんなこと、
けれど
「夢なら、最後まで見させてもらっても……
いいかな」
どちらともなく求めた唇は重なり合い、
目を閉じると
日が落ちるまでの、
魔法がかかって
「このことは二人だけの秘密だね」
二人のからだとこころはまだ明るいベッドの上で、結ばれました。
空が明るさを失うと、灯台守の時間がやってきます。
「それじゃあ、気をつけて」
「君も、仕事をがんばって」
灯台守は船乗りにカンテラをわたし、玄関口で去って行く船乗りを見送りました。
「あの」
「今度から、酒はいつもあの酒場で飲むようにするよ」
その言葉に、灯台守は頷きました。
それから、月に一度か二度、二人は酒場で会い、短いけれど幸せな逢瀬をすごしました。
灯台守は毎日灯台で仕事があり、船乗りは毎日こちらの島と向かいの島を行き来していましたから、二人の時が重なるのはわずかな間です。
それでも二人は、灯台守と船乗りの秘密の関係に幸せを感じていました。
寂しくなったときは、船乗りは船の上から灯台を見上げます。
会いたくなったときは、灯台守は灯台の上から船乗りの船をさがします。
二人にとってお互いは、夜の海にかがやく一筋の灯台の光のようでした。
ただ、つかもうとしてもかたちの無い光のように、
あの時船乗りの顔をぼかした珈琲の湯気のように、
二人は、なんとなく聞きそびれて、
お互いの『あること』を知らないまま、
愛を重ねていったのでした。
西の海には海を統べる『女王』が棲んでいました。
年に一度、海は『女王の日』をむかえます。
この日だけは絶対に海に出てはいけません。
海に出たらその者は女王の御殿に引き込まれ、二度と帰ってこられなくなるからです。
それは、この地に人が住み始めたときからの、人と女王との決まりごとでした。
その日は『女王の日』でした。
この日ばかりは灯台守も仕事を休みます。
空はうすぐらく、それなのに海はしらじらと光り輝き、風はうなりをあげ、いきものは息をひそめます。
小さいころ親に教えられたとおり、ベッドの上で灯台守はシーツをかぶり、この一日をやり過ごすことにしました。
窓を揺らす風の音、部屋の家具が今にもふわりと浮かんでしまいそうな、ふわふわとした不思議な空気。
灯台守はなんだかいやな予感がしました。
「あの人はどうしているだろう」
心配のしすぎだとは思いながら、双眼鏡を手に取ると、灯台守は灯室に上がりました。
光り輝く海には、
……なんということでしょう。
不自然な大波に揺られ、今にも沈みそうな一艘の船が浮かんでいます。
「そんな」
灯台守は双眼鏡で船の帆を見ました。
そこには見覚えのある、ボーダーのシャツに刺繍されたものと同じ旗。
そして、船の帆柱につかまって、灯台を見つめる人影がありました。
その人影がこちらに向かって手を振ろうとした時
船は、一瞬で光の海に沈んでいきました。
「これは悪い夢だ」
顔を真っ青にして、灯台守は強い風の吹く道を駆け出しました。
その後ろを心配そうにサルーキが追いかけます。
息を切らして、町の酒場にたどりつくと灯台守はその戸を強く何度もたたきました。
しばらくすると、いぶかしげな顔をして店主が姿を見せました。
「どうしたんだい、今日は『女王の日』なのに」
「あの人が」
「ええ?」
灯台守は、海で見たことを店主に話しました。
それを聞くと、私はとめたんだ。
と店主は悲しそうに言いました。
「どうしても向かいの島に届けなければならない荷物があると言って」
「そんな」
やはりあれは船乗りだったのです。
店主は言葉にならないうめきをあげる灯台守に、悲しいことだけれど諦めなければいけない、とりきめを破ったのは船乗りのほうなのだから。
と語りました。
「せっかく出来た友達なのにな」
そう店主が慰めの言葉をかけようとすると、灯台守はなにかを心に決めたような目をして、サルーキとともに酒場をあとにしました。
灯台に戻ると、灯台守は海の底まで届かんばかりの強い光で、女王にあてて信号を送りました。
その人をかえしてください。
かちかち、かちかち、と何度も光を切り替え、灯台守は信号を送りました。
愛する人をかえしてください。
その日から灯台守は、船の往来が終わったころ、毎晩毎晩、休まずに女王に向かって灯台の光で信号を送り続けました。
雨の日も、風の日も、雪の日も、月の無い日も、病に倒れた日も、サルーキが死んだ日も。
灯台守は信号を送りました。
そして、長い月日が流れました。
今では灯室に上がり、信号を送るだけでも一苦労です。
灯台守は老いていました。
その手には皺が刻まれ、ハンドルを握る手にも若いころのような力が入りません。
それでも、今も灯台守は毎晩信号を送り続けていました。
愛する人をかえしてください。
「ふう」
今日もまた、いつものように夜が明けます。
灯台守は灯室から降りると、朝の空気を吸いに外へ出ました。
断崖に建つ灯台の横には、小さな墓がありました。
その墓の隣に立つと、灯台守は町へと続く一本道を眺めます。
朝もやにけぶる道はまっすぐ、まっすぐ町まで伸びて
その道の上に、ぼんやりと人影を見たとき、灯台守は夢を見ているようだ、と思いました。
夢かもしれない。
夢でもいい。
神様がお迎えをよこすときに粋な計らいをしてくれたというのなら、それでもいい。
「やあ」
久しぶりだね、
と言うその声も、
ボーダーのシャツも、
日に焼けた肌も、
すべて、あの日のままの若い船乗りが、そこにはいました。
「やっぱりここは遠いな」
海のすぐそばにあるのに、海からずいぶんかかってしまった。
「そうだね」
「あの犬は?」
「もう、ずいぶん前に死んでしまった」
今はここで眠っているよ、と灯台守はかたわらの小さな墓を目で指しました。
「そうか」
「本当に、久しぶりだね」
すまない、と船乗りは申し訳なさそうに笑いました。
「君の光が届いたんだ」
船乗りは手に金銀財宝をもっていました。
女王がもたせてくれたのだそうです。
「童話みたいだろう」
「すごいな」
「あなたを愛する人と幸せにくらせるように、もっていきなさい、だってさ」
「そうか」
「ここでも、町でもいい。いっしょに暮らそう」
その申し出に、灯台守は少し黙り込んだあと、やさしい顔でゆっくりと首を横に振りました。
若い船乗りには未来があります。
けれど
「君はこれからの人生を幸せに生きてくれ」
そしてどうか私のことは忘れてほしい、と灯台守は悲しく微笑みました。
「どうして、僕たちは童話のように一緒に幸せになれるのに?」
「童話でハッピーエンドになれるのはお姫様と王子様だけだ」
と灯台守はうつむきました。
童話の中のお姫様は、
蛙になった王子様も、
白鳥になった王子様も、
獣になった王子様も、
呪いを解く魔法の力を持っています。
けれど
こんな、
こんな老いた、醜く老いた灯台守は
その言葉を言い終わる前に、船乗りの逞しい腕が
灯台守の痩せた体を、やさしく抱きしめました
「なら、この物語はハッピーエンドだ」
「君は僕を救ってくれた勇敢な王子様で、これから僕が一生かけて守り抜く、優しいお姫様なんだから」
気がつくと。
灯台守はその顔を皺だらけにして、船乗りの胸で泣いていました。
零れ落ちるあたたかな涙が、薄く珈琲染みの残るボーダーのシャツにひとしずく、またひとしずくと染み込んでいきます。
「名前を」
泣きながら、灯台守は尋ねました。
「名前を、聞いてもいいかな」
「僕も」
船乗りは微笑んで、灯台守に囁きます。
「僕も、君の名前が知りたい」
ふたりは小さく頷いて。
そして
末永く、幸せに暮らしたということです。
……え?
二人の名前は、って?
それは、二人だけの秘密。
ということに、しておきましょう。
西の 灯台守の はなし。
終
西の灯台守のはなし 藍田レプン @aida_repun
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