悪魔と魔法陣と少女

鹿角まつ(かづの まつ)

悪魔と魔法陣と少女

中世ヨーロッパのとある街で起こった話。

その国では、宗教についてひときわ厳格な戒律が多く、中でも悪魔崇拝というものは最も邪悪な、禁忌きんきのものとされていた。

にもかかわらず、悪魔をあの世から呼び出して、願いを叶えてもらおうとしている少女がいた。

少女は、悪魔を招くための魔法陣の描き方を探していた。

そんな事が周囲に知られれば、処罰を免れられず、最悪の場合ははりつけにされる。それでも、少女は願いを叶えたいと必死の思いで探し求めて、ようやくある筋から作成図を手に入れた。

そしてある真夜中。

少女はこっそり自分の家を抜け出し、家の裏手にある納屋に忍び込んだ。

そしてろうそくの明かりをたよりに、猫一匹の首をはね、その首からしたたり落ちる血で、魔法陣を図のとおりに描いた。

少女の手も顔もネグリジェも、血だらけになった。

それからいけにえに必要な山羊や、その他小動物を次々と自分の手で殺し、

血まみれの屍を円い魔法陣の中心に据えると、いよいよ悪魔を呼んだ。


悪魔は、魔法陣のなかから、黒い霧に包まれて現れた。

首から上は牛、2本のとがった角を頭から生やし、赤く光る目に漆黒の皮膚を持ち、腕は少女の身体を握り潰せそうな強靭さだった。

そして悪魔は地を這う声で云った。「よくこの私を呼べたな。何でも望みを叶えよう。その代わり、貴様の死後には、その魂をもらうぞ」

少女は、そんな恐ろしげな悪魔に負けない、はっきりとした声で答えた。

「かまわないわ、死んだ後のことなんて。今、こんなにもつらいんですもの」

「ある人を殺してほしい」というのが少女の願いだった。

「あのね、私の家の隣にね…」

少女の家の隣には、少し年上の幼なじみの少年が住んでいた。

少女はその幼なじみを慕い、彼の顔を見たさに、よく隣家に出入りした。彼も、実の兄のように少女に親しく接してくれた。少女は心ひそかに思っていた。「私は大きくなったら彼と結婚して、子供を作って、幸せになるんだ…」

しかし、二人が年頃になった頃、いつの間にか幼なじみは恋人をつくり、そのふたりが結婚する段取りが進んでいた。

ある日そのうわさを聞きつけた少女は、仰天して彼のもとへ確かめに行った。

そこで初めて彼は結婚のことを、少女に照れながら打ち明けたのだった。

「そんなこと一言も話してくれなかったじゃない?」少女は震える指先を必死にかくして彼に聞くと、

「だっていつかは誰かから、君の耳に入るだろうと思ってね」

事もなげに彼は言った。

少女の世界が崩壊した。

(私だって、小さい頃から彼を好きだったのに)

自分に向けられる彼の優しい眼差しは、ただの幼なじみに対するものでしかなかったのだ。

しかし、自分に振り向いてくれないだけなら、まだ耐えられる。でも。

(彼が結婚したら、私は二人の新婚生活を、ただ見ていなければならないの?)

信じられない。そんなの、耐えられるはずがない。

少女は悲嘆にくれ、流れ続ける涙は、集まってひとつの恨みになった。

「だからお願い、その婚約者の女を殺してちょうだい!」


悪魔は、その黒い顔に「愚かな」とでも言いたげな高慢な笑みを浮かべると、

「承知した」という言葉を残して、真っ黒い煙を噴き上げ、跡形もなく消えてしまった。

その夜のうちに、男の婚約者は息を引き取った。

朝になって、婚約者の女がベッドの中で冷たくなっているのを、その家族が発見したのだった。

死因は誰にもわからなかった。


男は悲しみにくれ、食べ物ものどを通らない日々が続いた。

少女は今までのように、まめに男の家を訪ね、彼の話の相手になった。

彼が婚約者をどんなに愛していたか語るのを、辛抱強く聞いていた。

少女は、時に彼を外に連れ出したり、手の込んだ料理を差し入れたり、

心の限りを尽くして彼をなぐさめた。

やがて彼の心の傷は、少女の存在によって少しづつ、癒やされていった。

そして2年後。

彼は少女と結婚した。

いつも側にいて、優しさを注いでくれる彼女に、いつしか彼も心を惹かれたのだった。


少女は幸せに満ちあふれた毎日を過ごした。

この幸せは本当は、あの婚約者こそが享受するべきものであったのだが。

少女は幼なじみとの間に子供をもうけて、家庭を築いていった。

家を切り盛りするのは忙しく楽しく、これらのこともやはり、あの婚約者が受け取るものであったことに、少女は思い至ることもなかった。


ひとり息子がしゃべれるくらいになった年、愛する夫が急死した。病死だった。

妻である彼女は、立ち上がれない位に激しく悲しんだ。

顔から笑顔が消え、死んだような暗い気持ちで過ごす日々が続いた。

やがて、彼女に2度目の恋が来た。

久々に、彼女に安らぎと、肌の触れ合うぬくもりが訪れた。

しかし、その男には既に家庭があった。

彼の笑顔の中には、妻に隠れて会っているという苦さが混じっていた。

それでも、彼女はますます男にかれていった。


男と会えない日は、彼女は嫉妬にもだえた。

この瞬間にも、彼がその妻と暖かい時間を過ごしていると思うと、

胸が張り裂けそうなくらい辛かった。

その時、悪魔を呼びだした過去を思い出した。


(一度しか呼んではいけない、とは聞いてないわ…)

彼女はある夜地下室にもぐり込み、再び悪魔を呼び出した。

あの時と変わらず黒い霧の中から現れた悪魔は、今度は願いを叶える代償に、子どもの命をもらうと言う。

彼女は承諾し、悪魔に願いを伝えた。

あの人の妻を亡き者にしてくれ、と。


ひとり息子と、男の妻が同じ夜のうちに冷たくなった。

そうして、彼女は男と連れ添うことになった。

二人で住む家を探す相談を、彼の方から持ちかけられた時は、彼女は喜びのあまり彼を抱きしめた。


ある日の午後、彼女は初めて、自分は二人もの命を奪ったことを考えた。

しかし、後悔の念はちっともわいてこない。

(誰だって、誰かの犠牲の上に成り立っているじゃない…)

彼女は曇った窓の外を見ていた。


すると、向こうの方から、警察犬を何匹も率いて、警官がやってくるのが見えた。

警官は、彼女の家のドアをノックして怒鳴った。

「この家で、悪魔崇拝が行なわれているとの通報があった。鍵を開けてもらおう」

彼女の顔から血の気が引いた。

「何のことかわかりませんわ、言いがかりです!」ドアに向かって叫んだが、恐ろしさで声がかすれた。

ドアの外の警官は更に大きな声になった。「黙れ!ならばドアを開けるのだ!」

彼女がしぶしぶ鍵を開けると、腹の出た警官は有無を言わさずに彼女を棒で引っ立てて、地下室へ案内させた。

そこには、床に魔法陣のあとが、はっきりと残っていた。

血で描いた線は、床に染み込んで黒々とした色に変化している。

彼女が言い訳をしようとしたとき、背後で女のわめき声がした。

「これが証拠だよ!やっぱりお前が、うちの娘を殺したんだ!」

いつの間にか、地下室の入り口に見慣れない女が立っている。彼女に指を突き立て、顔を真っ赤にしていた。

「おかしいと思ってたんだよ!娘が死んだとたんに、娘と幸せになるはずだった男に近づいてさ…。お前の仕業しわざだったんだろう!」

太った警官は低い声で言った。「この女性から、あんたの周りで次々に人が呪い殺されているとの通報があったのだ。この人の娘さんが結婚直前に変死したのが一人目だ」

遠い昔、悪魔に殺してもらった女の母親。この人が、私をずっと疑っていた?

彼女は真っ青になった。足ががくがく震えてきた。「私は…違う…関係ないわ!」

警官はかまわずしゃべり続けた。「死んだのは、その次にあんたの子供、それからあんたの恋人の奥さん、で間違いないだろうな。ひそかに調べさせてもらったぞ。」

「この女は魔女だよ!」密告した女が、顔も目も真っ赤にして叫ぶ。

「待って!私は、あなたの娘さんを殺してないわ…私だって、息子を失ったばかりでつらいのよ。子供を亡くした悲しみは、私がよく知って…」

必死で嘘ばかりの言い訳をしたが、警官がさえぎった。

「ではこの陣は何だ!悪魔を呼び出したんだろう!悪魔と契約しただろう!」

「私、知りませんわ!」

外に逃げ出そうとした時、一筋のいかづちが彼女の脳天をつらぬいた。

あたり一面が光り、誰もが眩しさで何も見えなくなった。ようやく目が見えるようになった時には、彼女は魔法陣の真ん中に倒れていた。

彼女の皮膚ひふは、ちょうど悪魔と同じ真っ黒に変色していた。

彼女の首も腕も、関節という関節が、ばらばらの方向を向いている。

頭頂からは、雷に打たれた後の煙が立ちのぼっていた。

警官は彼女の死骸を見下ろして、瞠目どうもくして言った。

「これは間違いなく魔女だ。我々と同じ墓には埋められない」

こうして彼女の屍は、街中にさらされた後に、山のはずれにある谷に葬られた。


彼女は死んで、悪魔になった。

魂を悪魔に売った時から、彼女は悪魔だったのだ。

隙あらば、人の心に忍び込み、罠におとしいれ、まどわせ、疑わせ、互いに戦わせ、地獄の中にも地獄を作ってやろうと、今日も頭上高くを飛びまわっている。


                              おわり














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悪魔と魔法陣と少女 鹿角まつ(かづの まつ) @kakutouhu

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