店を閉めるのは三輪みわの役目だが、店を開けるのはミケの役目だ。工房に詰めるコダマ、大牙たいがもしくは雷牙らいがも、ミケとほぼ前後する形で店にやってくる。三輪はいわゆる、遅番担当というやつだ。


 だから出勤した時には、店のメンバーが全員揃っているのが常である。


 ……確かに、常ではある、のだが。


「……全員が全員、私の出勤を雁首がんくび揃えて待ち構えているとは、どういう状況ですか」


 三輪は思わず店の敷居しきいをまたぐよりも先に溜め息をついた。


 九十九堂つくもどう従業員の全員が全員、上がりかまちの上に座布団を並べて、お行儀よく正座した状態で三輪のことを待ち構えていたのだから、その反応も至極当然のものだと判断してもらいたい三輪である。


「みっ……三輪が、か、川に流されたって……ちょっ……町内会長さんが、き、昨日の夜に、神社に連絡を……ブハッ」


 笑いをこらえてプルプル震えていたミケが、ついにこらえ切れなくなって噴き出す。それを右隣で聞いていたコダマも、つられたようにケラケラと笑いだした。


「……コダマ」

「だっ……だって、チョーウケるじゃんっ!? 『三輪』が川に流されるなんてっ……ヒャハハハハハハッ!!」


 今時の女子高生のような化粧をバッチリほどこした目元に涙を浮かべながら、コダマはヒーヒーと腹を抱えて笑い続ける。


 唯一三輪を心配そうに見つめているのは、コダマと揃いの作業用つなぎに身を包んだ大牙なのだが……


「……」


 三輪と視線があった瞬間、大牙はフイッと視線をそらす。表情のない精悍せいかんな顔立ちは、ほんのりと赤らんでいた。


「……大牙、私はこれでも、立派な成人男性なのですが」

「三輪、今日来ているのは、雷牙の方ですよ」


 プルプル震えながらもミケが口を挟む。双子の片割れと間違えられたことに傷付いたのか、雷牙は切なそうな顔で三輪を見上げた。その表情は、まさしく『恋する青年』そのものだ。思わず三輪の背筋に悪寒が走る。


 ──お前ら双子がそんな反応するからっ! 町内会長をはじめとした皆々様が勘違いするんだろうがっ!!


 思わず衝動のまま叫びたくなった三輪だが、代わりに深く息をつくことでなんとかそれをこらえた。


 その瞬間、不自然にうねった髪がポスンと背中に落ちる。髪結紐が千切れる前に落ち着けたことに、三輪は思わず己自身を内心で褒め称えた。


「おや? 三輪、腕輪の修理はできなかったのですか?」


 その一部始終を眺めていたミケが、パチパチと目をしばたたかせた。


 思わず反射的に三輪は自分の右手首に視線を落とす。確かにミケが言う通り、今、三輪の右手首にいつもかかっている腕輪はない。


「昨日の夜のうちに、実家には寄ったのですが……」


 三輪はひとまず店の中に入ると、隅に積んである丸椅子をひとつ引き抜いた。それをミケ達の前に据えて腰を下ろす。


「『やしろの中に穢れを持ち込むな!』と、父にど叱られまして」

「プッ!!」

「そっ……それで、封印の腕環、作ってもらえなかったんですか?」

「ええ、おまけに、思いっきり水をぶっかけられて、追い返されまして」


 三輪の言葉に再びコダマが噴き出した。ミケのプルプルも止まらない。雷牙の案じるような雰囲気がさらに強くなる。


「み……三輪の御大おんたいが操る水ならっ……、け、穢れの、じょ…浄化には、なっ……なったんじゃ……プクク…」

「ええ、できたでしょうね」


 三輪は憮然ぶぜんとミケの言葉に答えた。


 三輪の父は、荒川あらかわを治めるために荻野町おぎのちょう勧請かんじょうされた三輪みわ明神みょうじんの祭神である。


 大物主大神おおものぬしのおおかみの系譜に連なる大神おおみわ蛇神へびがみぞく一柱ひとはしらである三輪の父は、みずからに仕える巫女を妻に迎えた。その息子が、九十九堂事務担当である三輪だ。


 つまり三輪は半神半人で、おまけにその身に宿す神通力は水神である大神蛇神族由来のもの。川に流されることなど、間違ってもあってはならないことなのだ。


 ミケやコダマが『三輪が川に流された』ということにここまで爆笑している理由はそこにある。今回のことは『河童カッパの川流れ』よりも数段レベルが高い珍事だ。三輪自身もそう思っている。


 ──おそらく父はそのことや、私が帯びた何者か由来の穢れに腹を立てたわけではなく、母とイチャコラするのを邪魔されたことが気に入らなかっただけでしょうがね……


 流れでそこまで思い至った三輪は、思わず深々と溜め息をついた。


 神とヒトは時間の感覚が違うせいか、夫婦になって云百年がたった今でも、二柱ふたはしらの仲は新婚夫婦のようにアツアツだ。


 そりゃあもう、実の息子である三輪がそれに耐えることができず、実家である三輪明神を出てひとり暮らしを決行したくらいには。たまに顔を見せに実家である三輪明神に帰っても、身の置き場がなくて毎回困っている三輪である。


「でもさ、三輪、困るんじゃない? 腕輪ないとさァ。ホラ、瞳孔の形、ヒトじゃなくなってるし、色もほんのり青いよ?」


 ひとしきり笑い終わったコダマが身を乗り出して三輪の瞳をのぞき込む。その反応に三輪は思わずメガネの上から片手で目元を覆った。


 普段三輪の神通力は、母が作った封印の腕輪で押さえられている。


 半分人間の血が混ざっている三輪は、己の意志だけでは神通力を完璧に抑え込むことができない。封印の腕輪がない今、神通力は三輪が抑えようと思っても、うっすらと三輪の周囲へ放出されている。瞳孔が蛇のように縦に裂け、髪と瞳がうっすら青みを帯びて見えるのがその証拠だ。本性を封じるために掛けているメガネも、こうなってしまってはあまり役に立たない。


「町の人が相手なら、このままでも大丈夫だとは思うのですが……」

「そういう時に限って心無いヒトの目に触れて大事おおごとになる、という可能性は、少なからずあります。店番はオレがしてますから、三輪は日が高いうちに腕輪をもらいに行った方がいいですよ」


『三輪の御大やかんなぎさんがやってくれないなら、オレのやしろの方に行けばいいと思います。今日ゆきちゃん、いますからね』というミケの言葉に三輪は首を傾げた。


「そうなのですか? 学校は?」

「今日は講義がない日なんだそうです。大学って、よく分からないところですねぇ。学校なのに、毎日きっちりと出掛けなくていいなんて。ところで」


 ミケは笑みを引っ込めると、ひたと三輪を見据えた。ミケの琥珀の瞳に真剣な光が宿る。それだけで三輪の背筋が無意識のうちに伸びた。


「『三輪さんを川に引きずり込んだのは、七不思議のひとつである荒川に住む河童だ』という噂が出ているのですが、それは本当ですか?」


 ミケの言葉に、三輪の喉がコクリと無意識の内に揺れた。


 神は、ヒトの嘘を許さない。願を掛ける言葉は、まことを紡いでいなければ神の耳には届かず、仮に嘘の言葉が届いてしまったら、それはいかなる理由があろうとも真実として扱われる。


 今のミケの問いは、その鋭さをはらんだ言霊コトダマだった。故意であれ過失であれ、意図的であれ非意図的であれ、神前で不実を口にすることは決して許されない。


 ──荒川の河童、ですか……


 三輪は昨晩のことを慎重に思い出した。


 穏やかであったにも関わらず、いきなり暴れ始めた水。水神の血を引く三輪を濁流の中へ引きずり込んだ悪意。


 あれは、決して自然発生したものではない。自然発生したものならば、あの水は三輪が力を振るわずとも三輪を避けた。


 そもそも町を守る水神『三輪』としての責務を帯びて九十九堂に関わっている三輪には、あれが自然発生したものであった場合、現地で巻き込まれるよりも前に必ず水が暴れる天啓を察知できたはずだ。


 だからあれは、決して自然に発生したものではない。誰かが意図的に起こした、荻野町にわざわいをもたらす災害だ。


 だがそこに潜んでいた悪意は、はたして本当に河童のものだったと言えるだろうか。


 ──川を領域にするあやかしの代表格は河童。確かに荒川を治めているのは河童であると聞いていますが。


 荒川に河童がいる、という話自体は、三輪も知っている。だが直接会ったことはない。あの時、自分を水の底に引きずり込もうとしていた気配が本当に河童のものであったのか、三輪には判断することはできない。


 だが。


「……おそらくは」


 三輪の脳裏に、昨日店で見たあの破片がよぎった。


 そして、それを持ち込んだ三人組の少年と、その少年達が紡いだ言葉も。


「……おそらくは、違うと思います」


 その光景が脳裏によぎった瞬間、三輪の唇からは無意識のうちに『否』の言葉が紡がれていた。


 ──ええ。あれは、違う。


 無意識から出た言葉を、今度は自分の心で吟味ぎんみする。


 その上で確信を得た三輪は、伏せていた瞳を上げて、もう一度ミケの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「あれは、荒川の河童の仕業ではありません」

「……そうですか」


 三輪の言葉を受けたミケは、一度、静かに瞳を閉じた。


 九十九堂の店内に、ひと呼吸分だけ沈黙が落ちる。


 だがその沈黙は、本当にひと呼吸分だけだった。


「三輪が言霊をもって答えたということは、すなわち、そういうことなのでしょう」


 ミケは、三輪の言葉の真意を問わなかった。


 証拠があるのかとも、なぜそういう答えに行き着いたのかとも、何も問わない。ただ目を開き、三輪を真っ直ぐに見つめ返して、ニコリと穏やかに笑っただけだ。


 そんなミケの反応に、三輪の唇からホッと安堵あんどの息がこぼれる。その音を自分で聞いて初めて、三輪は自分自身がこんなにも緊張していたのだと知った。


 ──やはり、『ミケさん』は、すごい存在なんですね。


 たとえ普段小学生と同レベルで喧嘩をしていようとも。毎日雪に引きずられて屍状態で帰宅していこうとも。


 九十九堂の主はミケで、ミケは三輪などよりもはるかに格上の存在なのだ。


 そのことを、三輪はこんな時に思い知る。


「では三輪は、腕輪をもらいに行くついでに神主さんか町内会長さんを捕まえて、今回の事の次第を説明しておいてください」

「ちょっと待ってください。私は河童の仕業ではないと判じただけですよ? 事の次第なんて、これっぽっちも分かっていません」


 だがその感動は、ミケの無茶振りで吹っ飛んだ。


 胸の内に宿った尊敬の念をかなぐり捨てて、三輪はストップをかけるべく腕を胸の前へ突き出す。


「どうして今の流れでそうなるんですか。まずはきちんと調査をしてですね?」


 ミケは三輪に即刻この事件を解決してこいとのたまったのだ。昨日の今日で、三輪は事件に巻き込まれただけの被害者であるというのに。


 何という暴論。何という放任。


 これには三輪だって反論する権利があるはずだ。


「さて、コダマと雷牙は仕事を始めてくださいね。昨日持ち込まれたスカーフのつくろいは、結局コダマがやるんですか?」


 だというのにミケは三輪の言葉なんて全く聞いていない。毎日雪と三輪の扱いに反論するミケの言葉を無視しているお返しだと言わんばかりに華麗な無視を決め込んで、コダマと雷牙へ話を振る。


「うん、まぁねー。専門じゃないんだけどなぁ、布製品。ねェ、御祭神サマ、一人新しい子雇おうよ。布関係の依頼、多いんだからサ」

「確かに、多くはありますよねぇ。でもそんな都合よく見つかりますかね? 適正のある子。雷牙、昨日大牙が手を入れていたタンス、引きだし動くようになりましたか? ……ええ、なったんですか。良かったですねぇ」

「ちょっと、だから所長っ!」

「ああ、三輪。雪ちゃんに会ったら、相談したことがあるって伝えておいてください。お皿はオレが継いでおきますから」


 やっと振り向いてくれたかと思えば、そんな用事まで押し付けられてしまった。


 思わず面喰っている間にコダマと雷牙は工房へ引っ込み、ミケもご飯糊を作るために給湯室へ消えてしまう。


 一気に静まり返った店先に一人取り残された三輪は、誰にも届かなかった手をパタリと落とした。


 確かに腕輪は、早急に手配しなければならない。ミケの伝言をたまわってしまった以上、雪にも会わなければならない。荻野山神社は荒川の上流に近い場所にあるから、ついでに調査にも行ける。


 ──神社に出向くついでに荒川の上流部を調べて、鉄砲水が起こった直接的な原因を調査。その結果を元にとりあえずそれっぽい推論を立て、荻野山神社の神主様に伝言する。


 最低でもそこまでできれば、三輪の面目は立つはずだ。


 荻野山神社の神主は、荻野町の重鎮だ。重鎮つながりで、町内会長を始めとした町の重鎮……人間側の重鎮には三輪の推論はすぐに浸透するだろう。


 こんなことが起きて町の住人は不安だろうし、三輪には『川に流された半水神』という不名誉な噂が付きまとっている。真実に近い推論を立てられれば立てられるほど、三輪の不名誉も払拭できるはずだ。


 ──名誉挽回のチャンスを与えられたのだと思えば、まぁ……何となく納得もできます、かねぇ?


 三輪は小さく溜め息をこぼすと、まずは荒川の上流へ向かうべく、つい先ほどまたいだ店の敷居を今度は外側に向かってまたいだ。


 ──今日からは少しだけ、お迎えに対する所長の訴えに耳を貸すべきですかね。


 そんなことを思いながら、三輪はもうひとつ溜め息を転がしたのだった。

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