よん


 九十九堂つくもどうがある荻野町おぎのちょうは、荻野山と荒川あらかわに挟まれた土地に広がる小さな町だ。


 その中でも荻野山沿いに古くからある家は、町がまだ『荻野村』と呼ばれていた時代から続いている家々で、ゆきの一族が代々神主を務める荻野山神社を中心にひっそりと日々の生活を営んでいる。


「そんな田舎な町のせいだかなぁ。『不思議な話』と『ヒト』の距離は、今も近いわなぁ」


 荒川沿いを歩きながら、今宵の三輪みわの連れである町内会長が懐中電灯を揺らす。ぼんやりとした白円を不意に向けられた草むらから、光に驚いた虫がパッと闇の中へ散った。


「妖怪が出たって話もよぉあるし、七不思議なんてもんもあるからなぁ」


 まぁ、三輪さんの耳には釈迦しゃかに説法だろうがねぇ、と町内会長は機嫌よく続ける。


 夜の見回り当番は、荻野町の各自治会の役員が持ち場を分担して行っている。夏の見回り強化期間に駆り出される九十九堂の人間は、その役員の指示に従って行動することとされていた。


 だが見回り強化といっても、この見回り中に子供と遭遇することは滅多にないと言っても良い。


『夏休みだから夜の行動が活発になっている』と言っても、町の規模が小さい荻野町は、都会のように若者が夜遊びをする繁華街もない。


 比較的繁華な通りである商店街は、日が沈めばどこも店を閉めてしまうし、町に唯一あるコンビニは、町の学校に勤務する先生の社宅の隣という、ある意味最悪な立地だ。


 行けば必ず先生に見つかるような場所へ、危険を冒してまで遊びに行こうとする子供はいない。


 子供達が出歩くとしたら、せいぜいひっそり花火をしようと空き地に集まるか、夜釣りをしようと川へ近付くかといったところだ。


「ここの川も、河童カッパがおるっちゅー話やでな」

「……そういえば、七不思議の内のひとつである道祖神どうそじん様が、先日壊されたと聞きましたが」


 だが少ないと言っても、その夜歩きが完全にないというわけではない。


 子供だけの火遊びも、夜の川も、夜の繁華街と同等か、場合によってはそれ以上に危険だ。


 だから夏休み中は見回りが強化されるし、その行動が子供達への牽制けんせいになる。たとえ直に注意を飛ばすような子供に遭遇することがなくても、牽制ができて、それが結果的に子供達の安全に繋がるなら、九十九堂の面々は協力を惜しむことはない。


 夜の川は、危険なのだ。不幸な事件を起こさせないように気を配るのは『三輪』の責務でもある。


 夜の山も危ないのだろうが、『山』と『村』はミケが支配する領域だ。だから『川』と『町』が関わる見回りには、三輪が参加することになっている。


「道祖神様が壊されるなんて、問題でしょう。何か分かったことはあるんですか?」

「警察に調査を頼んだよ。したら、経年劣化による自然崩壊と言われてしもうたわい」


 連れが三輪であるせいか、今宵の町内会長の話題はあやかしにまつわるものが多かった。


 その流れで近頃気になりながらも日々の業務にかまけて調査をおこたっていた話題を思い出した三輪は、情報収集を兼ねて町内会長に話を振る。そんな三輪の言葉を受けた町内会長は難しそうに腕を組んだ。


「むしろあれは、壊れた方が良かったのかもしれんなぁ。なんせ、人を惑わす道祖神様じゃったから」


 三輪と町内会長が言う『道祖神様』というのは、荻野山神社へ続く道沿いに祀られていた道の神の石像のことだ。ミケの背丈くらいの大きさの石に男女の像が彫刻された素朴な御神体が置かれていて、いつも花やお菓子が供えられていたと三輪は聞いている。


『荻野町七不思議』にも名前が上がる存在で、三輪が『三輪』として町に関わるようになった時にはすでにそこに存在していた。ミケの口ぶりから察するに相当古くからそこに存在しているモノであるらしい。


「『人を惑わす』……ですか」


またつじの道祖神様』と町の人々に親しまれていた神ではあるが、その道祖神様には不名誉ないわくがあった。それこそ、町に住む人々が『荻野町七不思議』のひとつに数えるくらい、ただの『噂』や『怪談話』よりも実体のある曰くが。


 曰く、『三つ又の交差点にたたずむ道祖神様は、来た者の行く道を惑わす』と。


「本当に、そのようなことが? 道祖神様は本来、道行く者を守り、その行く先を導く神。それを逆に惑わせるなんて……」


 道祖神様の前を通った者は、迷子になる。


 迷って迷って、気がついた時には山の中や、町の外にいる。


 まるで道祖神様のイタズラで、間違った道を案内されたかのように。


「なんじゃい、三輪さん。実際に通ってみたことはなかったんか?」

「用事がなくて」

「まぁ、あっちはどちらかと言えばミケさんの土地じゃからのぉ」

「あと、私が道祖神様の前を通っても、実際に迷子にはならなさそうだなと、勝手に高をくくっていたというのもありまして」

「そりゃあそうだ、三輪さんは『三輪』だもんなぁ!」


 三輪の言葉に町内会長はカラカラと笑った。そんな会長の声に三輪は少しだけ身をすくめる。


 ──でも、確かに、私も『三輪』である以上、放置しないで現場に出向いてみるべきでしたね。そこはきちんと反省しなければ。


 長くこの荻野町に住んでいる三輪だが、案外『知っているつもりで実は知らない』ということは多い。今回話題になっている道祖神様に関してもそうだ。


 三つ又辻の道祖神様がいつ建立こんりゅうされたものなのか、誰が建立したのか、実を言うと三輪は知らない。いつから人を惑わすようになったのかも、三輪は把握していない。もしかしたら自身の父や、ミケならば知っているかもしれないが、今まで積極的に知ろうとはしてこなかった。


 ──昔はともかく、今の私は『九十九堂の三輪』なのですから。


『知らないことは罪』とまでは言わないが、『知らないことは職務怠慢』とは言えるだろう。


 重ね重ね反省点だなと思いながらも、三輪は話題になっている道祖神様について知っていることを思い返す。


 ──事が起きたのは、もう1週間前のことでしたっけ。


 道祖神様が壊されていることに気付いたのは、毎朝荻野山神社への散歩を日課にしている町の住人だった。すぐに町内会長へ連絡が行き、器物損壊の疑いで警察の調査が入ったらしい。


 そこまでは風の噂で聞いている。だがその後に続く話は耳にした覚えがなかった。


 ──絶対にの領域だと分かっていても、依頼がなければ私達は動けませんからね。


 九十九堂の面々は、誰かに頼られればそれがどんなに些細ささいなことでも喜んで動く。だが逆に誰かが願って頼ってくれなければ、どれだけ自分達が関わりたくても首を突っ込むことができない。


 である以上仕方がないことではあるのだが、こと今回に限ってはミケと二人でヤキモキしていたのも事実だ。


 ──今後、こういう場面でもこちらから介入ができるように、何か対策を立てておかなければなりませんね。


「とりあえず、撤去するにしても、修理するにしても、一度荻野山神社か、うちの所長に相談した方がいいと思うのですが。曰くがあるなら、なおさら。その辺りの相談は、誰かにされてますか?」

「そうさなぁ……。相談するなら、荻野山神社の神主さんかねぇ?」

「おや? 私や所長ではなく?」


 今更ながらひっそり営業活動をしてみたつもりだったのだが、町内会長の口から出てきたのは思いがけない言葉だった。


『この流れで来たら指名されるのはミケか自分だろう』と考えていた三輪は、町内会長の言葉に思わず振り返る。


 町の住人は皆、九十九堂がどういう存在であるかをきちんと理解してくれている。店員達のも承知だ。


 荻野山神社の神主……つまり雪の父が役不足であるとは言わないが、適役がミケか三輪だということは当然分かってくれていると思っていたのだが。


 三輪は疑問を込めて町内会長を見遣った。


 その視線を受けた町内会長は、実に、なんというか……現代若者の言葉を借りるならば、『ビミョー』な表情を浮かべている。


「だってなぁ……ミケさんは子供やし、三輪さんは……ほれ、こんなべっぴんさんやろ?」

「……は?」

「ちょっとなぁ……。女子供に、曰くがあるって分かってるものを扱わせるのは……ちょっとなぁ。いくらその道は九十九堂に任せた方がいいとも分かっていても、なぁ? 良心が痛むというか……」

「…………」


 前言撤回。


 荻野町の住人は、案外九十九堂の面々のことを分かっていないのかもしれない。


「……本気で、言ってるんですか?」


 思わず、低い声が出た。


 自分の顔が女顔で、世間一般で言う『美人』の部類に入るということは自覚している。背のなかばでひとつにくくった黒髪は腰下まで長さがあって、女性でもここまで伸ばしている人はまれだろう。


 薄手のカーディガンとカッターシャツに包まれた上半身。下はスラックスと、男物にしては若干かかとが高い革靴。右手首には水晶を連ねて作られた腕環が通されている。


 確かに、総トータルして見れば、女に見える要素がないわけではない。


 だがしかし。


「革靴のかかとの分を差し引いたとしても180センチ近いタッパと、華奢ではあるけれどこのボディラインは、確実に男のものでしょうて」


 実は女に見間違えられること自体は、珍しくない。というよりも、なぜか初対面では8割近い確率で間違えられる。こんなにガッツリ声も低いのに。


 ──なぜなのでしょうね? 女は『陰』で、三輪の属性も『陰』だからでしょうかね?


 確かに、男にしては華奢な方だとは思うのだが。我ながら中性的で整った顔立ちをしているとも思うが。


 だがごく普通に対面すれば間違いなく男であると分かるはずなのに、何気なく女性陣に分類されていたり、出会う男に片っ端から口説かれたりしていると、世の不条理を怨みたくなる三輪である。


「町内会長、私は……」

「ほっほっ! わーかっとるって。三輪さんは美人じゃけどきちんと男だし、ミケさんはただの子供じゃないってなぁ」

「ほんっとうにちゃんと分かって……っ!」


 本当に分かっているのか、いなされているだけなのか分からない口調に、三輪は思わず声を荒げる。


 だがその声は、不意に三輪の耳を叩いた不穏な音によってさえぎられた。


「……?」


 ゴボッという濁った音は、水が暴れている時に聞こえるものだ。き止められた水が、堰き止めきれる限界を越えようと暴れる音。


 だが荒川はその名に反して穏やかな表情を見せている。ここ数日晴天が続いたせいか、水量は平時よりも少ないくらいだ。水が暴れる気配はどこにもない。


「……町内会長、堤防の上へ上がりましょう。嫌な予感がします」


 だが三輪は自分が聴いた音を空耳だとは思わなかった。


 九十九堂の従業員であり、ミケの不在時には店を預かる立場にある三輪は、もちろんただの人間ではない。


 こと水に関わることで、『三輪』の天啓は外れない。


「あ、ああ……」


 三輪がまとう雰囲気を変えたと町内会長も気付いたのだろう。町内会長は戸惑いながらも素直に三輪の言葉に従い、堤防の上へ続く階段に足をかける。


 町内会長の動向を後ろから見守りながら、三輪はそれとなく周囲に視線を走らせた。そんな三輪の耳に再度、ゴボリ、ゴボリという不穏な水音が届く。


 ──やはり、空耳ではない。でも、一体何が……


 三輪は懐中電灯を上流側へ向けた。対岸には荒川グランドののっぺりした台地が見えている。


 メガネをかけている三輪だが、実は視力自体は悪くはない。むしろ夜目だけで言えば常人よりもはるかに優れているという自負がある。今だって三輪の視界は昼間と変わらず開けている。


「……っ!!」


 そんな三輪の視界の先に、は見えた。


 思わず息を呑み込んだ瞬間、体は反射的に後退していた。ザリッ、という己の足音で我に返った三輪は、慌てて階段を駆け上がる。


「町内会長っ、走ってっ!!」

「え?」


 三輪の叫びに驚いた町内会長が振り返る。


 その拍子に町内会長が持っていた懐中電灯が闇を裂いた。円形に闇が切り取られた先にはそこにあるはずのない壁が……迫りくる水塊の影が映し出される。


 その光景に町内会長が息をんだ。


「なっ……鉄砲水かっ!?」


 驚きながらも何が起きているのか町内会長は理解してくれたらしい。だが老齢な町内会長の動きは鈍かった。驚きがその鈍さに拍車をかけている。


 ──このままでは……っ!


 昔から大雨が降るたびに村の人々を苦しめてきた荒川は、大水おおみずを受け止めるために堤防が高く築かれている。このままのスピードでは迫りくる水塊に二人揃って呑まれてしまう。


 ──鉄砲水は、ただの水ではない。呑まれたら一巻の終わりだ!


 鉄砲水が連れてくるのは川の水だけではない。今まで水と一緒に堰き止められていた土砂や岩、枝といった物もひとかたまり水塊すいかいとなって一緒に川を駆け降ってくるのだ。


 いわばあれは水の形をした凶器。ただのヒトでは、足の一本が触れただけでも体ごと持っていかれる。町内会長のような高齢者などひとたまりもない。


 ──そんなこと、させないっ!!


 町内会長の背中を守るようにして立った三輪は、自分の『力』を懐中電灯に込めると迫りくる水の壁に向かって全力で投げつけた。それから一拍の間を置くこともなく、水塊が二人の元を通過する。


 だが二人を呑み込もうとした濁流は、まるで三輪と階段周りに透明な壁でもあるかのように不自然な形で湾曲した。


「み、三輪さん……っ!」

「大丈夫です、町内会長。ここは私が守ります」


 三輪がにらみ付ける先で、濁流は見えない壁に阻まれているかのように滑らかな曲面を作り出していた。まるで水族館の水槽のように不自然に切り取られた水の向こう側では、三輪の力を受けた懐中電灯がクルクルと光をまき散らしながら、濁流に流されることなくマイペースに漂っている。


 ──ひとまずは、大丈夫でしょうか。


 ここにいたのが自分で良かったと、三輪は思わず安堵の息をいた。


 今宵の町内会長の連れが自分以外であったなら、きっと今頃町内会長はすべもなくこの濁流に呑み込まれていただろう。その『もしかしたら』を考えるとゾッと寒気が背筋を走る。


 ──しかし、我々は良かったとしても、他の場所で誰かが巻き込まれていないとも限りません。消防に連絡をして、町の人の安全確保と、状況の確認を……


「町内会長、まずは落ち着いて、足元に気を付けて上に上がってください。それから、他班に連絡を取って……」


 続けて三輪は、町を守る『三輪』の一角として思考を回す。


 その瞬間、まるで三輪の思考が切り替わるすきを衝いたかのように、が三輪の足をすくい上げた。


「えっ!?」

「三輪さんっ!?」


 片足が滑り、体勢が崩れる。


 かしいだ体は目の前の水壁に頭から飛び込んでいった。あっという間に濁流の勢いに体を持っていかれて、気付いた時には三輪の全身は水塊の中に放り込まれてしまっている。視界は濁った水に塞がれ、ぬるい水が三輪の全身を錐揉きりもみさせた。


 ──っ、何事ですか!? が川に流されるなんて……っ!!


 足を掬われただけではない。今もなお右足首にが巻き付いている感触がある。そのがさらに三輪の体を水の底へ、底へと引きずり込んでいく。


 三輪は反射的に閉じていた目を開くと足元に視線を投げた。だが濁った水とそこに混じった砂や枝といった雑多な物のせいで視界が効かず、何が巻き付いているのか見極めることができない。それどころか泥水が目に入って鈍い痛みが走る。


 ──何とかしなくては……っ!


 考えるよりも早く体はもがいていたが、足首に絡みつく感触は離れていってくれない。それどころか、締め上げる力は強くなっていく。三輪の体が水の流れに不自然に逆らっているせいか、流木や岩までもが同調するかのように三輪の体を激しく叩いた。


 その衝撃に耐え切れず、ゴボリと口元から気泡が立ちのぼる。


 ──息、が……っ!!


 三輪に限って水死することはまずない。だがこの泥水を吸い込んだら、泥が肺に詰まって死ぬ危険性はある。もはや悠長に構えていられる余裕はない。


 三輪は左手を右腕に伸ばすと、手首にかかっている腕環に指をかけた。それを水流の勢いも利用して、糸ごと引きちぎる。


 ──間に合え……!


 パッと水晶が散らばった瞬間、フッと、全身が楽になったような気がした。


 が外れたことを確認した三輪は、思い切って目を開く。


 先程泥水で痛めた目に、今は痛みを感じない。うっすらと自らの周りに集まった清水の中を、今まで無力なまま濁流にもてあそばれていた髪がユラリと流れに反して揺らめいたのが見えた。


 ──いけるっ!!


『力』が正しく働くことを確かめた瞬間、三輪は右手を足元へ向けた。その手に三輪の意志を受けて清水がつどい、濁流と流れをことにする水弾が形作られる。


 ──いいっ加減に離れなさいっ!


 その水弾を三輪は一切手加減することなく己の足元へ打ち込んだ。ギュンッと一瞬、水の流れが変わり、ふっと足首を締め上げていた力が消える。


 ──……っ、外したか……!


 だがどうやらそのを仕留めることはできなかったらしい。


 三輪からの反撃をかわしたは慌てて水の中を逃げていく。


 己の身を包み込んだ清水から伝わる反動でそれを知った三輪は、せめて正体を暴いてやろうと濁流の向こうへ目をらした。だが相手はすでに遠くへ逃げおおせてしまったのか、気配の欠片かけらさえ見つけることはできない。


 ──この状況での追跡は悪手、ですね。


 己に余裕があれば追跡も可能だろうが、急に『力』を解放したせいか、いつもより状態が安定していない。このままでは追跡どころか、己の身が危うい。


 わだかまる怒りを何とか腹の奥底に沈めた三輪は、水面を目指して浮上を始めた。強制的にかせを跳ね飛ばしたせいなのか、それとも別の思惟しいが働いているのか、水は『三輪』の眷属けんぞくであるはずなのになかなか上手く浮上ができない。流木や岩を弾いて身の安全を確保するだけで精一杯だ。


「っはっ!! ガッ!! ゲホッ、ゴボッ!!」


 視界が悪い濁流の中では、水面の位置さえ定かではない。清水を集めて息を確保することにも、浮上にも手間取ったせいでわずかに息が続かなかった三輪は、水面間際で思いっきり泥水を飲み込んでしまった。


「うぇっ!! ゴホッ、ゴホゴホッ!!」


 反射的にむせ返りながらも、何とか岸辺に身を寄せ、川底の土を踏み締める。


 息も絶え絶えの体では膝に力を入れることさえ難しく、最後は四つん這い状態で川原に上がることになった。それでも何とか喉と腹に力を込めて飲み込んでしまった泥水を必死に吐き出す。


「ゴホッ、カハッ……ッ…はぁっ……はぁっ……は………」


 ──死ぬかと、思った……


 息が整うのに、しばらく時間がかかった。何とか呼吸を落ち着けて、川原に腰を落として座り込む。


 髪結紐を濁流に持っていかれたせいでほどけた髪が束になって川原にこぼれ落ち、乾いた土を水滴でまだらに染める。毛先が砂に汚れることをいとわず背後を振り向けば、荒川の川面はすでに穏やかさを取り戻していた。若干水量が多く濁ってはいるが、一晩経てばある程度は落ち着くだろう。


「……」


 それを確かめてから、三輪は右足のスラックスの裾をめくった。


『力』を解放した三輪の瞳には、日の光の下にいる時と変わらないくらい鮮やかに視界が開けている。


 そんな三輪の目には、己の右足首にできたアザがはっきりと見えていた。まるで誰かに強く握り込まれたかのような、人の手形に近い、鮮やかな赤色のアザだ。


「……この私を水難に遭わせるとは、とんだ無礼者ですね」


 腹に納まりきらない怒りを声に載せて呟く。そんな三輪の言葉を聞く存在モノはどこにもいない。それをいいことに三輪は一度だけ小さく舌打ちをした。


「…さーん………み…………さ…ん」


 その瞬間、三輪の耳に声が届いた。途切れ途切れにしか聞こえない微かな声だが、その声が自分を呼んでいることは分かる。


 今度は溜め息をこぼして気分を切り替えた三輪は、垂れてくる前髪をかき上げながら立ち上がった。


 声の方を振りあおげば、淡く闇を照らす懐中電灯の明かりがいくつもこちらへ近付いてくる。町内会長が他の班に連絡を取ってくれたのか、あるいは異変を察知して駆けつけてくれた誰かが町内会長と合流できたのか。


 ──心配、してくれたんですね。


『三輪』がこれしきのことでどうこうなるはずがないとみんな分かっているはずなのに、それでもこうやって案じてくれることを、三輪は素直に嬉しいと思う。


 だから三輪は、大きく息を吸うと、声がする方へ向かって大きく手を振った。


「ここですよー!」


 足を進めながら声を上げれば、光がこちらへ近付いてくる。


 そのことにそっと、三輪は苦笑を浮かべたのだった。

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