ろく


 ボーン、ボーン、ボーン……と、店の壁掛け時計が音を鳴らす。


 こんな夜中でも時計は律儀だなぁ、と、ミケは呑気にそんなことを考えていた。


 満月が近いためか、店の周囲に街灯はないが、周囲は明るかった。青白い闇を見つめて、ミケは静かに緑茶をすする。


「……おや、御祭神様。こんな時間に店にいらっしゃるなんて、珍しいですね」


 店の扉は、昼の開店時と同じように、一枚分だけ開け放ってある。


 その扉の向こうに、いつの間にか人影が映っていた。


 影の大きさは、ミケと同じくらいだろうか。決して大人が作り出す影ではない。だが今は、子供が活動するような時間帯ではない。


「早く御社おやしろに帰らないと、巫女様にお仕置きされてしまうのでは?」

「むっ、今日はちゃんと、許可をもらっていますよ。ほら、お供に緑茶も持たせてもらえました」


 クスクスと笑う影に、ミケはぷぅっとふくれっ面を見せた。いつものように上がりかまちに腰かけたミケの傍らには、昔ながらの水筒が置かれている。


御老公ごろうこうも、いかがですか? ゆきちゃんに頼んで、胡瓜きゅうりの浅漬けも用意してもらったんですよ。元気出ますよ?」

「お気持ちは嬉しいのですが、私は熱い飲み物は苦手なんです」

「オレがそんな不心得なことをすると思っているんですか? きちんと冷茶です」

「おや。では、御相伴にあずかりましょうか」


 人影は、軽やかに店の敷居を超えてきた。まっすぐにミケの所までやってきた影は、ストンとミケの隣に腰を落とす。


 影の正体は、ミケよりも幼い容貌の少年だった。


 小学校低学年くらいかと思われるあどけない顔立ちと、細い手足。のっぺりとした顔立ちは決して人目を引くものではない。人ごみに紛れ込まれたら、少年を見つけるのは至難のわざだろう。


 ミケは隣へ腰を落ちつけた少年に冷茶を注いだ湯呑を手渡した。少年はその湯呑を水かきの目立つ手で受け取る。ミケが間に置いた胡瓜の浅漬けを身振りで進めると、少年は嬉しそうに瞳を細めて爪楊枝を手にした。


「今回は災難でしたねぇ。というか、御老公ほどの存在モノが、どうして小学生の野球なんかに参戦していたんです?」


 ヒョイッと素手で漬物をつまみながら、ミケが少年へ話を振る。


 問いを受けた少年はパリポリといい音を立てながら漬物を飲み込むと、何かを懐かしむような表情を浮かべた。


「私達の使命は、御祭神様もご存知の通り、荒川を守ることなんですけどね。最近、どうにも川に悪さをするヤツがいるみたいで。子分達に見回りをさせるだけじゃなくて、私自身も見回りに出るようにしていたんですよ」


 幼子のような見た目を取っていながら、この少年の実態は決して幼子などではない。


 九十九つくもどうの経理を担う三輪みわとはまた別の方向から水を治める翁の言葉に、ミケは静かに耳を澄ませる。


「川の近くで遊ぶ子供達を守ることも、ほら、我らの仕事の内じゃないですか?」


 そんなミケの様子にニコリと笑いかけた少年は、そのまま視線を店先へ投げた。


「そう思って、紛れ込んでみたんですよ。最近の子供に『相撲を取ろう』と言っても、通じないんじゃないかと思いましてね。かといって、何と話しかけていいかも分からない」


 だから、私の方から少年達に混ざってみたんです、と少年は続けた。


 その言葉に耳を傾けたまま、ミケも少年の視線の先を追うように外へ視線を向ける。青みを帯びた闇は、少年が現れる前と変わらず穏やかだ。


「いやぁ、でもこの言い方は、格好を付けすぎたかもしれませんねぇ」


 不意に、その空気の中に穏やかに溶け込もうとしていた言葉が跳ねた。ペチペチと照れを誤魔化すかのように額を叩く仕草は、どこか外見にそぐわずジジ臭い。


「私はただ、彼らがしていることに興味があったんです。楽しそうだな、入れてもらいたいなと、ずっと興味を持っていた」


 きっとそその好奇心に、抗うことができなかっただけなんです。


 訂正しますね、と照れを隠せない声音のまま、少年は続けた。


「だからこの姿をとって、紛れ込んだんですよ。彼らは、どこの誰とも知らないのに、私をこころよく仲間に入れてくれましてね」

「……彼らは、あなたに謝りたいと言っていましたよ」


 その言葉達の中へ、ミケはポツリと言葉を差し入れた。不意を突かれる形になった少年は問うようにミケへ視線を流す。


「『野球をする時にまで持ち込んでいた、大切なモノを壊してしまった。だから九十九堂に直してもらって、それを持って、謝りに行きたい』と」

「いやぁ……いやぁ! 彼らは全く悪くないんですけどねぇ!」


 ミケの言葉を受けた少年は、さらにペチペチと額を叩いた。隠し切れない照れのせいで言葉を紡ぐスピードが上がる。


「少し、寝不足だったんですよ。それでも彼らの傍にいたくて、不調をおして参加したら、あのザマです。いやぁ、頭にボールが直撃した瞬間、マズいとは思ったんですけどねぇ! まさか、皿があそこまで派手に割れてしまうとは! 動揺してしまって、彼らには悪いことをしました。それに」


 その声が、不意にフツリと途切れた。


「……それに、三輪の御子息にも」


 手をパタリと落とした少年が改めて言葉を紡いだ時、少年が纏う空気と口調は元の静けさを取り戻していた。


 喜びに浮かれたヒトに近しいモノから、水を司るヒトならざる翁へ、少年を取り巻く空気がすり替わる。


「大変申し訳ないことをしてしまいました。私が万全ならば、あの時、あんな風に川を荒れさせることはなかった。……あの時私は、鉄砲水を止めることができなかった」

「力の源である皿を失っていたんです。仕方がありませんよ」


 そんな翁に答えるミケの声音は変わらなかった。今宵を満たす闇に穏やかに溶けていく声音のまま、ミケは翁に責はないとゆったりと答える。


 それでも翁は己を責めるような微苦笑を口元に広げた。


「いや、しかし今度御子息や三輪の御大おんたいにお目にかかった時、どんな顔をすればいいのか考え物ですよ。何せ、御子息には直接的なご迷惑をお掛けしただけではなく、各方面への説明までしてもらって、私にかかった疑いを晴らして頂いたのですから」

「三輪の御大は放任主義です。かんなぎさんに何かがあったならばまだしも、息子の三輪の身に何かがあっても、よほどの場合じゃない限り気にすることはないでしょうね」


 少年に答えながら、ミケは店に帰ってきた三輪が荻野山おぎのやま神社の神主にしてきたという説明を思い出す。


『あの鉄砲水は、自然条件が重なって、偶然発生したものだということにしてきました』


 荻野山神社に腕輪をもらいに行くついでに荒川の調査をしてきたという三輪は、自分なりに筋の通る仮説を考えたらしい。


『浅瀬や出っ張りに土砂が堆積して壁ができてしまい、ダムのように水が溜まってしまう自然現象があります』


 名前もそのまま『天然ダム』と言うらしい。ビーバーが川の流れにアーチを掛けるような現象が、地形によっては自然にできてしまうことがあるという。


 川の流れの中に自然にできた物だから、川の流れを完全に遮ることもなければ、いずれ時が来れば自然に壊れて流れも戻る。その時、多少なりとも貯えられていた水が一気に放出され、一時的に川が荒れる。これが鉄砲水が起きる原理だ。


『荒川の上流を調査したところ、この天然ダムがいくつか存在していました。地形図を見る分には、さらに上流部の山の中にはもっとたくさん存在していてもおかしくはありません』


 そのひとつひとつの規模は小さく、普段ならばそこまで気にかける必要はない。


 だがあの晩、何らかの原因があって、その天然ダムが全て一気に壊れてしまったのだとしたら。


『塵も積もれば何とやら。……上から下まで一気に壊れれば、あれくらいの災害となってもおかしくはありません』


 なぜそんなことが起きたのかは、さすがに三輪にも分からない。本格的に原因を解明したいならば、専門家に調査を依頼する必要があるだろう。


 三輪が水に落ちたのは、流れから飛び出ていた流木に足を取られたから。


『三輪』は水に対しては強いが、そこを流れてくる物に三輪の身に流れる血の加護は効かない。だからあんな事態になったのだ、と三輪は説明したという。


 筋は通っていると、ミケも思う。現に三輪の説明を聞いた神主は納得を示したという。人々の間には、三輪の言葉が真実として浸透していくことだろう。


 だがミケは、それが真実ではないことを知っている。三輪自身も、この説明では自身が体験したことに説明がつかないと分かっている。


 この説明はあくまでヒトを納得させ、安心させるためのもの。


 ミケ達が知るべき『真相』は、別にある。


「ヒトのために用意した説明には、辻褄が合わなくてあえて伏せた事実があります。……実際のところ、天然ダムには、人為的に壊された形跡があったそうです」


 あの晩、天然ダムが上から下まで一気に壊れることになった


 三輪はそれをヒトには『分からない』と説明した。だが実際に現地まで足を運んだ三輪には、天然ダムが壊れた『理由』が分かったという。


「拳です」


 ただそれはヒトには成せないことであったから、明言されずに伏せられた。


「拳でひと突き。それによって天然ダムは壊されていた。だからこれは、偶然発生したものなんかではない。誰かが狙って起こしたことなんです」


 三輪はミケにだけ見たことをそのまま報告してくれた。その上で率直な考えも聞いている。


 その報告に思いを馳せながら、ミケは両手で包み込むように持ち上げていた湯呑を上がりかまちの床板の上へ置いた。


 カツンと、湯呑と板がかち合う硬質な音が耳をつく。


「で、その『誰か』とは、誰なのかと。なぜそんなことをしたのかと」


 鋭く問いを発しながら、ミケは傍らへ視線を投げた。


「荒川を治める河童殿、あなたならば、御存知なのでは?」

「……私も、ヤツの悪行に振り回されて、恥ずかしながらまだしかとこの目に正体を焼き付けたことはありません」


 少年の姿をとった老河童は、今まで浮かべていた感情を全て剥ぎ落した。


 隠れていた怜悧な光が瞳を満たし、何が変わったというわけではないのにその身を包む空気が一気に大人びる。


「ですが、残された気配から察するに、ヤツが鬼族であることに間違いはありますまい」

「……鬼族」


 一口に『鬼族』といっても、その幅は広い。人に好意的なモノもいれば、悪意的なモノもいる。


 だが鬼族は、総じて妖力が強い。善意的であろうが悪意的であろうが、その存在は脅威だ。


 そして今回荻野町に現れた鬼は、確実に悪意を持っている。


「御祭神様も、お気を付けなされ。川と町には私、御大、御子息がおられるが、山と村にはあなたお一人だ」

「ハッ」


 老翁の言葉に、ミケは短く笑った。


 その瞬間、常にミケを覆っている陽だまりのような空気が消える。


「誰に物を言っているつもりだ、荒川の老翁」


 たとえるならばそれは、真冬の朝の空気のような。


 凛と冷えた、触れる者全てを端から切り裂く、姿なき刃のような。


 琥珀の瞳がギラリと、抜き身の刃のような苛烈な光を宿す。


「これは大変失礼を」


 そんなミケを前にしていながら、老翁はピクリとも揺らぐことはなった。ただ静かに頭を下げる老翁の表情は、満々と水を湛えて静かに流れゆく荒川の水面に似ている。


「随分と丸くなられたかと思っておりましたが。やはり御身の本性は、そう簡単には変わりませんな」


 老翁は静かに忍び笑うとスッと腰を上げた。


 小皿の上に乗せられていた胡瓜の浅漬けは、いつの間にか綺麗になくなっている。


「そろそろ、おいとまいたします。元々今日は、三輪の御子息に対する謝罪と、皿の受け取りにお邪魔しただけなので。いやはや、想定以上に長居をしてしまいました」

「そのことなのですがね……」


 ペコリと頭を下げる老翁に、ミケはわずかに苦笑を見せた。その苦笑につられて、陽だまりを思わせるおっとりした空気が戻ってくる。


「今、オレから渡せるものは、皿ではなく、これだけなんですよ」


 老翁が顔を上げ、問うような視線を向けた。


 そんな老翁に、ミケはジャケットのポケットから取り出したメモ用紙を差し出す。


「九十九堂は修繕屋ですが、直すものは何も、持ち込まれる品物、それだけではありません。壊れた品物をそこに込められた想いごと修繕するのが、九十九堂の仕事です」


 だから今は、これだけしか渡すことができないんです、とミケは眉尻を下げるようにして笑った。そんなミケの様子に目をしばたたかせた老翁は、メモ用紙を受け取ると折り畳まれた用紙を片手で器用に広げる。


 人ならざるモノである老翁の目には、月明かりしか光源がない中でもそこに書かれた文字がきちんと読み取れたはずだ。


「彼らは『人探しはミケさんの仕事ではない』と言っていましたので、これはオレの勝手なお節介です」


 ミケの言葉に、老翁は顔を上げた。その瞳に先程までの静けさはなく、さざ波が湖面を揺らすかのように感情が見え隠れしている。


「老翁だって、このまま別れてしまうのは、嫌なんでしょう? 『できることならもう一度』。その想いは、彼らと同じなのでは?」


 そんな老翁に、ミケはニコリと笑いかけた。


 いつも店で子供達と接している時と同じ顔で。


「だから今夜は、このままお引き取りください。そのメモ用紙、耐水用紙に油性ペンで書いたんで、老翁の住処に持ち込んでも大丈夫ですよ」


 ミケと老翁の視線が交錯する。


 世界から音が消えてしまったのかと錯覚するほど、周囲は静まり返っていた。


 まるで老翁の返事を、世界が息を呑んで待ち構えているかのように。


「……分かりました」


 その静寂の中に、言の葉は静かに響いた。


 答えを口にした老翁は、一度瞳を閉じる。老翁はメモ用紙を両手に持ちかえると、愛おしそうに、少年の姿を取っていても水かきが目立つ手のひらで包み込んだ。


「ここで、皿は受け取りません。彼らから、彼らの気持ちと一緒に、受け取ることにします。……ところで、御祭神様」


 老翁は瞳を開くと、ヒタとミケを見据えた。


 視線を受けたミケはわずかに姿勢を正す。


「皿は、直ったのですか?」

「直りました。オレがしっかり継いでおきましたよ」

「つかぬ事を伺いますが。……瞬間接着剤、使ってないですよね?」

「ギョックンッ! ま……ままままままさか、そんなことあるはずがないじゃないですか! は、肌に直接触れるものに、まさかぁ! き、きちんと古式ゆかしく、ご飯糊を使いましたよっ!」


 ピャッ!! とミケの頭から耳が飛び出す。


 何かを誤魔化すかのようにアタフタと両手を振り回すミケに、老翁は何とも言えない冷めた視線を向けた。


「……プッ」


 だがそれは、すぐに笑い声にかき消される。


 片手を口元に当ててクスクスと肩を揺らす老翁の顔には笑みが広がっていた。


「きっと、御祭神様が使おうとして、三輪の御子息が止めた、といったところでしょう。その場を見ていたかのように光景が目に浮かびましたよ」


 老翁の言葉にミケはむぅっと頬を膨らませるが、老翁の笑い声は消えない。


「では、お礼はまた後日、改めて」


 笑い声は消えなかったが、少年の姿は消えていた。クスクスという笑い声だけが、青白い闇の中に残される。その笑い声も、しばらくすると闇の中に溶けて消えていった。


 店の中には水気を含んだしっとりとした空気が残っているだけで、彼がここにいた形跡は何ひとつとして残されていない。


「……さて、後の仕事は、お皿の受け渡しと、上手くいくことを祈ることだけですね」


 ミケは再び自分の湯呑を手に取ると、水筒から緑茶を注いだ。キラリと月明かりを弾いて揺れる水面を店の外に広がる夜空に掲げて、小さく乾杯を挙げる。


「大丈夫ですよ。想いは、届きます。何せ、オレがそう言っているのですから」


 小さく独りごち、湯呑に口をつける。


 喉を滑り落ちていく緑茶は、夏の夜の蒸し暑さを払ってくれる。だがやはり、緑茶は淹れたての温かい物の方が好きだな、とミケは思った。


 それでも口を離して息をつけば、その息は『ぷはー』という満ち足りた音を帯びる。それはきっと、この荻野町が今、優しい気持ちで満たされているからだろう。


「何せオレは、『荻野山のミケガミさん』ですからね」


 満足そうに呟いたミケが、店の外へ視線を投げる。


 その先にある夜空では、星がピッカピカに輝いていた。

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