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蝉の声は途切れないまま、時間は着々と過ぎて行く。気づくと引越しは明日と迫っていた。
玄関前の廊下は私の努力の成果である段ボールが山積みになっている。玄関からリビングの様子が見えないほどだ。父の部屋に散らばっていた資料もだいぶ片づき、なんだか寂しい。
窓から外を見ると、夏だというのに周りがもう夕焼けに染まり始めていた。母は今日も担当している雑誌の写真がまだ入稿していないだとかで、帰りが遅くなると言っていた。日が落ち、暗くなる前に夕飯を調達しなければ。
立体映像探しは順調に進み、次第に見つかるものも少なくなってきた。懐かしい家具を引っ張り出してみたり、小物をテーブルに並べてメガネで覗き込んだりもしたが、反応がないことがほとんど。片付けと同じく、父の残した記録を巡るのも終わりへと近づいていた。
上着を羽織り、部屋の姿見で身だしなみを整える。メガネをかけた自分の姿。顔に対してレンズは大きく不格好だ。それに無表情な顔。
自分の顔をこれ以上見たくないと離れようとした瞬間、ピピっと小さな音が聞こえ、私は動きを止めた。鏡に視線を戻すと、私の体にかぶさるように認識率50%という文字とあの白い円が一瞬見えて、消えた。もしかして。
気になり、そのまま覗き込む。今度はじっと、自分の顔に視線を集中して見つめる。だけど、その顔にも映像にも変化はない。でも確かにあの音が聞こえたはずだ。
もしかして、と思い、メガネを外し、手を伸ばして自分の顔に向けるように持った。レンズにあるシャボン玉のレンズに光が反射して光る。フレームの横のボタンを押して、スピーカーの音量を上げると、「認識率50%、60%を超えました」と音声が聞こえた。やっぱりそうか。
そのままじっとメガネを見つめ続ける。今度はうんともすんとも言わない。横を向いたり、目を見開いたりするけど変化はない。なかなかうまくいかない。
この顔がいけないのかと思い、試しに頬を少し上げて、笑みを浮かべようとした。でも、なかなか頬の筋肉は動かず、ぎゅっと力を入れた。目の辺りがピクピクする。多分、相当不気味な顔になっているはずだ。すると、「65%、67%」と音が聞こえ、60%台まで数値が上がったことがわかった。
メガネを学習机の上に置き、それを覗き込む。両手の指で頬を吊り上げた。「70%を超えました」指をぐいっと上に押し上げるも、数字はそれ以上は変化がないようで、音は聞こえない。80%台の壁は高いみたいだ。
頬だけでなく口や目も少し開いて、硬い顔を限界まで伸縮させ極端な顔を作る。「75%を超えました」数値は変わらず70%前後。
何してるんだろう、私。そう思うと同時に、次第にいろんなことが頭に浮かんできた。そもそもなんでこんな保存の仕方してるんだよ。私がトリガーって、私のいない時は見れないんじゃないか、とか。そのくせ、なんで、なんで、いつも出張ばっかりだったんだよ、とか。
頭の中も顔もくしゃくしゃになり、よくわからず力を込めた目と、不自然に固まった頬がぴくぴくと動く。気になって横目に鏡の方を見ると、もはや変顔一歩手前のこの上ない不細工な表情がそこにあった。あまりの不細工さに、私はつい吹き出してしまった。
瞬間、「認識率94%」と、ピピっという音と同時に声が聞こえる。続いて「再生を開始します」と聞こえ、あ、と私は急いでメガネをかけた。
自分の足元近くを何かが横切るのが一瞬見え、驚いて後ろに飛び退く。半透明の小さい姿が部屋の扉をすり抜け、先へ駆けていく。その背中を追って、扉をあけ、リビングへと出た。
そこには、たくさんの”私”が居た。
生まれたばかりの頃だろうか、母に抱き抱えられている私がいる。猫のイラストが描かれた帽子を被り、それが気に入らないのか口を大きく開けて泣いていた。
母の足元には、何かの本の表紙を元気に自慢げに見せる私も重なっている。小さい頃、夢中に読んでいた絵本だっただろうか。確かに表紙の青い魚が気に入って、よく読み聞かせをせがんでうるさかったと母が言っていた。
横には床に座り込んで、拡げた画用紙にクレヨンで必死に何かを描いている私もいた。確か母が料理をしている後ろ姿を描いていたんだっけ。その横をすり抜けるように、母と追いかけっこをしてはしゃいでいる私の姿が横切っていく。
いろんな顔を見せる過去の私だった。そのどれも、その一瞬の色彩を帯び、リビングに佇んで重なっている。父の目を通して記録された、私の一瞬一瞬がここにギュッと詰まっている。
「こんなに撮り溜めてたのに、よう隠してたね。本当」
だから、きっと。少し恥ずかしかったのだろう。私と同じで、恥ずかしがり屋だから。でも、私や母には言わずとも、父はその瞬間、瞬間を逃さず、大切に記録してくいた。
私の歴史の中を一歩ずつ踏みしめ、進む。心の中の、散らかっていた父との記憶がだんだんと輪郭を帯び、記憶のキャンバスに線が描かれていく。
進んだ先、テーブルの横で下を向き、黒いスカートをギュッと握って立つ、小さな姿が目に入った。幼稚園の頃、お遊戯会で演じた魔女の服だ。それを照れながらも見せる姿。その顔は、今の私にはない微笑みを向けている。
「意外と、笑うの、上手じゃん」
口に出して初めて、声が震えていることに気づいた。頬がぴくっと動く。
今、私の顔はきっとくしゃくしゃだ。目の前に映る昔の笑顔とは全くの正反対。それでも、きっと、抱いている思いは一緒。
そこに残された私の姿を通じ、父の見ていた景色と表情がはっきりしていく。私の中あった膿みのようなものが消えていくのを感じた。心のずっと奥に感じる重たさは、もうない。
母が今日残業で遅くなるって言ってて本当に良かった。
そう、声には出さず心の中で呟いた。私は頬あげ、思いっきり泣いた。
「汐織、そろそろ出るわよー」
「ちょっと待ってー」
部屋の鏡の前に立つ。昨日泣き腫らした目がまだほんのりと赤い。あの後、仕事から帰ってきた母は私の顔を見ると驚いた表情を一瞬見せた。でも、それ以上は何も聞かず静かにぎゅっと抱きしめてくれた。そんなところが母らしいなと思う。
鏡に映る顔を覗き、頬を何度か上げる。やっぱり硬く重い。でも、今日のこの重さは今までのような嫌な重さじゃないと、そう思う。
リビングに向かうと母は肩がけバッグを三つも持ち、玄関口ですでに靴を履き始めていた。せっかちな母だ。その母の背中に向かって私は声をかけた。
「待って、母さん、ちょっと記念写真いい?」
そうして母に「はい」と私は父のメガネを手渡した。
「せっかくだし、これで撮りたい」
「そっか、最後だしね。でも私、あんまりうまくないよ」
「いいのいいの。それに、お父さんがきっとついてるから」
そっか、と言いながら、母は父のメガネを受け取った。その手はちょっとだけ震えていたれど、私は何も言わず見逃してあげる。玄関前の廊下に立って、振り返る。
「じゃあ、撮るわよー」
母が父のメガネをかけてこちらを見つめている。
私は体の力を抜き、その視線に応える。顔中が筋肉痛だけれど、昨日散々練習した表情を思い浮かべ、頬を上げた。母の目元のスピーカーからピピっと鳴る。
またひとつ、記憶の重なる音がする。
<了>
まなざしを重ねて 蒼井どんぐり @kiyossy
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