第26話 そして眼鏡が生まれた

 豊かに水と緑を湛えるオアシスに、いくつもの野営テントが立ち並ぶ。

 その内のひとつのテントで、魔女の魔術クラフトは行われていた。

 クレセベテヒの都を去る際に、ザーフィルから与えられた素材を失敬していたアーティカは、小さな金属片を取り出して魔力をそそいで金属を溶かし、細く伸ばして結合させた。

 そうしてレンズとレンズを細いブリッジで繋ぎ止め、それぞれのバチ環に紐を通して輪を作れば完成だ。本当は、紐ではなくて金属の蔓にしたかったけれど、素材が足りない状況では、これが精一杯だった。

 アーティカは、完成したレンズを何度も何度もひっくり返したり、ランタンの灯りにかざして眺めた後で、ヴィンスに差し出した。


「つけてみて、ヴィンス。きっと美しいわ」

「ありがとう、アーティカ。……どうだろうか?」


 レンズを受け取ったヴィンスは、バチ環に通された紐を耳にかけた。

 ああ、半仮面よりもスッキリしていて、ヴィンスの美しい輪郭と碧眼がよく見える。アーティカはうっとりと見つめながら口を開いた。


「とてもよく似合っているわ。ああ、とても素敵。これならヴィンスの美しい輪郭を覆って隠すこともないし、レンズのフレームをもう少し洗練させれば、もっともっと美しくなるもの!」

「お嬢さん。そのレンズ枠の名前はどうするんだ?」

「え、名前?」


 突然、ジャックに問われて、アーティカは我に返った。

 名前。そんなもの、突然言われても。真っ白になった頭でぱちぱちと目を瞬かせながら、アーティカはジャックの方を見た。


「そうだ、名前だ。名前は大事だぞー。いつまでもレンズ枠だのなんだのと呼んでいられないだろ?」

「確かにそうですね。姫様、その道具はなんとお呼びすればよいのですか?」

「名前……名前。どうしよう、なにも考えていなかったわ」

「アーティカ様。アーティカ様の祖国では、そのレンズをどのような名前でお呼びになっていたのですか?」


 困り果てたアーティカに助け舟を出したのはエラだった。

 エラの言葉でしおしおに萎れていたアーティカの頭が、ぐるぐると勢いよく回りはじめる。それと同時に、アーティカの口も滑らかに動き出す。


「ラウフバラド国では、読書石リーディングストーンと呼んでいたわ。書物の上に置いて、文字を拡大しながら読むための道具だったから。でも読書石は原石を磨いて造ったもので、このレンズはわたしが理想とするウェネティア硝子には劣るのだけれど、それでも最高級クラスの硝子グラスで造ったレンズよ。ザーフィルには感謝しなくちゃね。ほら、見て。混ざりものも気泡も少ない。透明度が高くてとても滑らかでしょう!?」


 アーティカの演説は、後半に進むにつれて熱がこもって嬉々としていた。

 爛々と輝く瑠璃色の目に怯むことなく、真剣な表情でヴィンスがひとつ、提案を漏らした。


「では、読書硝子リーディンググラスではどうだろうか?」

「それは安直では、局長?」

「エラは厳しいのね。わたしはいいと思うけれど……」

「いけません、アーティカ様。ジャックも言った通り、名前はとても大事なものです。もっと慎重に考えなければ」

「うーん……そう、ね……」


 エラにたしなめられて、アーティカは唸った。

 読書硝子にダメ出しを食らった、ということは、安易な名付けでは朝が来るまでやり直しさせられるに違いない。

 アーティカはゴクリと喉を鳴らして、口に溜まった唾液を呑み込んだ。そうして、ヴィンスの顔をまじまじと見る。

 目元で光るまぁるいレンズ。時々、鏡のように光を反射してキラリと輝く美しさ。


「——眼鏡。眼鏡っていうのはどう?」


 眼鏡、という名を口にしたアーティカは、少しの迷いもなかった。恐れもなかった。

 眼鏡、眼鏡、眼鏡。胸の内で何度呟いても、しっくりくる言葉の響き。

 だからか。エラもジャックも、そしてサリアも。アーティカの名付けに賛同するように肯首していた。

 そして、ヴィンスも。


「眼鏡か……いいと思う」

「ありがとう、ヴィンス。……わたし、決めたわ。この眼鏡をもっと洗練させて、専門店を開くって」


 アーティカは、ふ、と胸の内に浮かんだ思いつきを、そのまま口に出して言った。

 ああ、いいかもしれない。言葉にした後で、アーティカはそっと思った。ヴィンスのように過去に苦しむ人を、見えないものを視ることで救われる人を、助けたい。

 それに、この眼鏡は、不可視を視るという奇跡や神秘がなくなったとしても、視力を補う道具として残り続けるだろうから。

 魔術クラフト技巧クラフトが合わさった象徴のような道具だから。

 アーティカは、柔らかく微笑んだ。そうしてヴィンスの硬く大きな手を取り、握りしめた。


「ヴィンス、手伝ってくれる?」

「アーティカ……私は未熟で頼りない人間だ」


 ヴィンスがふるり、と首を振った。

 ああ、どうして。ヒヤリと冷たい空気がアーティカの喉と肺を駆け抜けた。けれど。


「それでも、愛してしまった。君のために、生命を賭けたいと今でも思っている。でも、君を幸福に導けるのか……」


 伏し目がちに告げるヴィンスが、アーティカには愛おしく思えた。

 こんなときでもヴィンスは、真面目に考えてくれている。そんなヴィンスを一度でも疑ってしまった自分が恥ずかしい。

 アーティカは、眉を寄せながら何度も言葉を呑み込んではまた口を開こうとするヴィンスに、柔らかく囁いた。少しでも自分の気持ちと考えが伝わればいい、と思いながら。


「自信がないのね、ヴィンス。いいのよ、わたしはヴィンスが側にいてくれれば、勝手に幸せになれるのだから」

「アーティカ……」

「わたしも愛しているわ、ヴィンス。最期まで、あなたと共に生きたいの」


 と。告げたアーティカを、泣きそうな顔でヴィンスが力強く抱きしめた。

 いや、ヴィンスは静かに泣いていた。アーティカの頬に、肩に、ヴィンスが流した大粒の涙が、ぼたりぼたりと落ちていく。

 ああ、とアーティカは嘆息した。ヴィンスはきっと、知っているのだ。アーティカが人と魔の境界に立たされていることを。


「君と生きたい、アーティカ。もし君が、魔となって世界に溶けても、ずっとずっと愛し続けると誓うよ」


 泣きながら微笑むヴィンスはそう誓うと、困ったように微笑むアーティカに、そっと唇を重ねた。

 熱く濡れた唇と冷たく濡れた唇が重なり合い、互いの熱と心とを交換するように絡まって、アーティカはほんの少しだけ、人の領域に戻ってこれたような暖かな気持ちに安堵した。


◇◆◇◆◇


 数ヶ月後。

 境界都市マダールの夜市ナイトマーケットの片隅に、その露店は立っていた。

 数は少ないものの、丁寧な仕上がりを見せる眼鏡が並ぶその店には、アルハーゼンの書と記された書物が一冊飾られており、砂漠の民の女と異国の民の男が仲睦まじく店を盛り立てている。

 眼鏡と呼ばれる真新しい道具を売るその店は、決して繁盛しているわけじゃない。むしろ、誰も寄り付かず、店の前には空白ができるほど。

 それでも店主たちが店を畳まないのは、あるお客を待っているからだという。


「……あの、ここに来れば見えないものを視ることができる、と聞いたのですが」


 切なる思いを秘めた者が、眼鏡店を訪ねてくる日。ただそれだけのために、魔女は眼鏡を造って待っている。


「ようこそ、ここは過去を見失い、未来が閉じた迷える子羊のための眼鏡店です。あなたは、なにをお望みですか?」


 と。今宵も魔女は来訪した人のために、不可視の眼鏡を拵えるのだ。




<了>



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魔女のレンズ 〜砂礫の国の魔女の話〜 七緒ナナオ @nanaonanao

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