第25話 美しいということは
アーティカは、ザーフィルが言わんとしていることが確かに、わかる。
人間をやめつつアーティカは、このまま
もしかしたらもう、人間と違うところが出始めているかもしれない。人間としての輪郭が、魂の在りようと常識が、崩れかけているかもしれない。
そう思いながら、アーティカは真剣な眼差しを向けるザーフィルを見た。
ヴィンスとの戦闘で見せたザーフィルの姿。砂漠の悪魔を彷彿とさせるあの姿。
ザーフィルは確実に魔の領域を生きている。人間をやめている。
「あなたのところまで、堕ちて来い、と誘っているの?」
「まさか。俺はそこまで鬼畜じゃない。……わかっているんだろう、魔女よ。あの異人のために、相当な力を使ったな。レンズを何枚造り上げた? 鏡を見たか? 人間を超えつつある姿を、その美貌を見たか?」
「言われなくとも、承知の上よ」
アーティカは、ザーフィルの言葉を真正面から受け止めて、そう返す。
ザーフィルはしばらくアーティカを見つめていたけれど、長い長い息を吐き出して首を振った。
「お前はレンズを造ることをやめられない。いずれ、人間をやめるときが来る」
「それでもわたしは、ヴィンスといたいの」
「……魔女よ、いずれお前は独りになる。人も魔も、孤独に耐えられない脆弱な精神しか持たない。だからそれまで、俺は待とう」
「ザーフィル……」
「俺にはお前を待てるだけの時間と財と力がある。魔女よ、人の淵から転がり落ちたその時は、俺の元へ来るがいい。そのために用意した後宮なのだから」
そう告げたザーフィルの表情は、諦観と寂しさと優しさが複雑に混ざり合っていた。
ザーフィルの不器用な優しさを受け取ったアーティカは、ありがとうと告げる代わりに、柔らかく微笑みを返した。
「異端審問官よ、話は終わった。魔女と魔女の召使を連れて去るがいい」
「寛大な心遣いに感謝する、砂漠の皇帝よ」
「はっ! 心にもないことを言うな、王孫よ。俺としても、今はまだイリベリス神聖王国と戦争をする気はない、というだけだ。いいから砂漠の果てまで戻り、貴様らの軍隊を退けよ!」
ザーフィルが浮かべる険しい表情に、アーティカの顔が強張った。ギギギと音がしそうなぎこちなさでヴィンスを見たアーティカは、疑わしき者を見る目で問いかける。
「ヴィンス……もしかしてあなた、あのザーフィルを脅したの?」
「そんなことはしていない。私はただ、事実を話したまでだよ、アーティカ」
「それを脅しと言うのだ。……まったく、いっそのこと二人で
「それは……」
突然のザーフィルの提案に、ヴィンスの視線が泳いで彷徨う。
ヴィンスが躊躇ったのは、一瞬だった。チラリと一度アーティカを見たヴィンスは、すぐにザーフィルと視線を合わせた。
「それでも私は、私に与えられた役目を、信頼を、最後まで果たさなければなりません」
「……そうか。では、魔女は?」
「未練がましい男は嫌われるわよ。……あなたがわたしを魔女扱いしなかったのなら、揺らいでいたかもしれないけれど」
「なるほど。俺は初手から間違えていた、ということか」
肩を竦めて答えるアーティカに、ザーフィルがからからと笑う。
少しだけ寂しそうな表情を浮かべたザーフィルに、ヴィンスがなにを思ったのか。彼は一歩前へ出て孤独な皇帝との距離を詰めてから、そっと口を開いた。
「ザーフィル殿、砂礫の皇帝よ。あなたの下で働くことはできないが、私は、私たちは
「ええ、そうね。ザーフィル、きちんとお願いができるなら、わたしたちはあなたに力を貸すことでしょう」
◇◆◇◆◇
アーティカがヴィンス率いる砂漠班とサリアと共に、砂礫の帝国ディマシュカの都クレセベテヒから引き上げた頃には、すっかり陽が沈んでいた。
満天の星空はどんな時でも美しく輝いていて、アーティカは夜の空に浮かぶ星々に懐かしさを覚える。
ヴィンスとはじめて夜の砂漠を踏破した日が懐かしい。
アーティカは背中にヴィンスの温もりを感じて砂漠馬に揺られながら、境界都市マダールを目指す。
その馬上で、アーティカは再開したヴィンスを見た時からずっと思っていたけれど言わなかったことを、今、ここで、吐き出した。
「ねえ、ヴィンス。仮面にレンズをはめるのは、やっぱりやめた方がいいと思うの」
半仮面にはめ込んだレンズの存在を否定したアーティカに、素面のヴィンスが戸惑いながら口を開いた。
「アーティカ……理由を聞いてもいいだろうか」
ヴィンスの声からは、困惑が滲み出ている。
アーティカはそんなヴィンスの様子などお構いなしに、揺れる馬上で身を捩る。アーティカを膝の上に座らせていたヴィンスと顔を無理矢理合わせ、彼の頬にそっと触れた。
そうして、瑠璃色の目に真剣さと熱量をこめてヴィンスに告げる。
「ヴィンス、よく聞いて。あなたはとても美しい」
「あ、アーティカ。君は一体、なにを言って……」
「事実を言っているだけよ。あなたはわたしが今まで見てきた人間の中で、最も美しいひとだから」
アーティカは、ヴィンスの揺れ惑う碧眼を真っ直ぐ見つめて真摯に言葉をかけてゆく。
強く甘い言葉をかけられたヴィンスの頬は、夜であるというのにはっきりとわかるくらい熱を持って赤く染まっている。
アーティカの腰を支えてくれているヴィンスの手のひらが、熱い。じっとりと汗を掻いているのかわかってしまうほど。
緊張している。と、思いながら、アーティカはヴィンスの頬を両手で包んで思いの丈を囁いた。
「わたし、あなたのその美しい造形が、仮面で隠れてしまうのが許せないの」
「あ、アーティカ……? 君は本当に、なにを言って……?」
月夜に瞬く碧眼がアーティカを見ている。
やはり、この美しい目を、その輪郭を、仮面で覆って隠してしまうだなんて、もったいない。
そんなことを考えていると、ジャックの馬に乗せてもらっていたサリアが、いつの間にかアーティカたちの砂漠馬と並走していた。反対側にはエラもいる。
そして、馬上のサリアが申し訳なさそうに声を張り上げた。
「申し訳ありません、皆様! 姫様は美しいものに目がなくて……こうなってしまうと、もう、誰も止めることはできないのです!」
「まー、確かにウチの局長は綺麗な顔をしてるがなぁ。……それほどか?」
砂漠馬を走らせながら疑念を呈すジャックに、アーティカは鋭い否定を投げつけた。
「ちょっと、そこ! ヴィンスが美しいのが、顔だけじゃないってことくらい、わかっているでしょ!?」
「では、アーティカ様。具体的にはどの辺りが?」
「全部です。姿形、魂と、その成り方まで、すべて。なにもかも美しい——」
エラの問いに答えるように、アーティカはそう言った。
細くまぁるい指先でヴィンスの顔の輪郭をなぞり、耳朶の柔らかさや筋張った首の凹凸を恍惚とした表情で堪能する。アーティカは、ほう、と熱く濡れた吐息を漏らした。
「だからこそ、この美が隠れてしまうのはいけない。いけないのよ!」
「は、はぁ……。ではアーティカ。顔を隠さずにレンズを支える代案はあるのかい?」
自分のことであるはずなのに、いまいちピンと来ていないヴィンスが、腑抜けた声でそう言ったから。
「あります、あるのです! ……これよ!」
アーティカは、ドレスに最後までくっついていたレンズ飾りを二枚引きちぎり、夜空に浮かぶ月に掲げた。
「それは……飾り? 確かに綺麗な飾りだが……」
「どこを見ているの、ヴィンス。見るべきところはそこじゃない。いい? このレンズ飾りは、レンズの枠を金属で覆って造りました」
「ああ、そうか。レンズを枠で覆って、二枚のレンズを繋げるように溶接してやりゃあいいのか」
「顔に欠ける部分は……そうですね、レンズから耳に向かって蔓か何かを伸ばして差し上げればいいのでは? 紐でもいいかもしれません」
「でしょう!? いいアイデアでしょう!?」
ジャックやエラの助言は、アーティカを酷く興奮させた。それは、レンズ飾りを造ったアーティカが考えていたアイデアと似通っていたから。
アーティカが苦し紛れにレンズ飾りを完成させた時、あっ、と閃いたのだ。
これは、この
これならいける。アーティカは確信めいたものを胸に抱き、二枚のレンズに魔力を流す。
「じゃあ、今から造るわね」
「い、今から!? アーティカ、せめてオアシスについてからにしてくれないか!」
ヴィンスの切実なる叫びが、夜の砂漠に響く。
だからアーティカは、渋々魔力を引っ込めて、少しだけ口を尖らせ膨れっ面を夜風に晒しながら、オアシスにたどり着くまでずっと口を閉ざしたままだった。
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