第24話 不器用な優しさ
過去を遡る単眼レンズにありったけの魔力を込めて
魔と人との境界をゆくアーティカは、ヴィンスの魂の美しさを楔にして人間の形を保ったまま——過去視のレンズを造り上げた。
◇◆◇◆◇
少しだけ気泡が混じった硝子レンズを通して視た過去は、色がなかった。
モノクロの映像は、ヴィンスの過去をあらわしているみたいでアーティカの胸がチクリと痛む。
『カリーナ様、本当に悪魔の儀式を行うのですか』
『……当たり前でしょう、なんのためにこの子を産んだと思っているの』
話をしているのは、乱れた髪でベッドに横たわる美しい女性と、生まれたばかりの男児を抱いた侍女だ。
白黒の過去の中にあっても美しさが際立つカリーナは汗にまみれ、胸が上下するほど疲弊している。母になったというのに、男児を見る目は冷たい。
侍女に抱かれた男児は泣いていた。酸素を求めて。あるいは、ぬくもりを求めて。
元気に泣くその姿は至って普通の赤子であった。
『……こんなに無垢で、可愛らしい王子でございます。考え直されてはいかがでしょうか』
『だからなに? この子の身には、私を犯してひとりで逃げた護衛騎士の穢れた血が流れているの。彼に復讐できるなら、私はなんだって捧げるわ!』
『カリーナ王女殿下、準備が整いましてございます』
カリーナが狂気に満ちた眼と声で叫ぶのを見計らったのか。目深にフードを被った異端の導師があらわれた。
『そう。さあ、その子を導師に渡しなさい。私を貶めたあの騎士を、私を捨てたあの騎士を、必ず見つけて殺してやるわ』
『それでは、目を捧げることにいたしましょう。悪魔の眼を得ることができれば、騎士を見つけることも容易です。王女殿下の復讐も叶うことでしょう』
『そんな! そんなことをしたら、王子は死んでしまいます!』
『うるさいわよ、黙りなさい。——導師、儀式をはじめて』
そうして、儀式がはじまった。
悪魔召喚用の魔法陣の中央に横たえられた男児は、導師によってまだ開ききってもいない目を切り裂かれた。
飛び散る鮮血と、火花のように激しく泣く男児の声に引き寄せられたのか。
◇◆◇◆◇
レンズが視せたヴィンスの過去は、そこで終わっていた。
ヴィンスの過去を覗いたアーティカは、気づけば止めてしまっていた息を吐き出して、呼吸を再開させる。手のひらはじっとりと汗が滲んでいたし、喉は痛いほど引き攣れて渇いている。
召喚された悪魔が、生まれたばかりの赤子を生贄に捧げる母を見て、なにを思ったか。
わかっていることは、悪魔は人間に同情するということだけ。孤独で哀れな人間に、悪魔は心を寄せて同情する。
だから
「私は母に愛されてなどいなかった。私は母の、復讐の道具でしかなかったのか……」
「ヴィンス……あなたが顔を上げて明日を迎えられるように、わたしがずっと側にいるわ」
絶望よりもなお深く。虚無に呑まれて表情を失くしたヴィンスを、アーティカは力強く抱きしめた。
前に抱きしめた時よりもヴィンスの身体は冷えていて、とても小さく小さく思えて仕方がなかった。
けれどアーティカは、無理に励まそうとは思わなかった。無駄な激励もしたくはなかったから。
「今は、深い悲しみと絶望に浸って身体と心を休めなさい」
アーティカは、ヴィンスが表情を取り戻して顔を上げるまで、ずっとずっと抱きしめていた。
◇◆◇◆◇
数多の星々が月とともに地平に沈み、新しい朝がやってきた。
ヴィンスはジャックを連れてザーフィルとの会談へ臨み、アーティカは残されたエラや騎士たち、サリアとともに、後宮の中庭に拵えたテントの中でヴィンスの帰りを待っている。
(ヴィンス……大丈夫かしら。ザーフィルに丸め込まれていないといいけれど)
アーティカは、朝食後にお茶の一杯も飲むことなくザーフィルの元へ向かったヴィンスの姿を思い浮かべて、ため息を吐いた。
朝食が終わるまでは、とても楽しい時間だった。サリアも交えてヴィンスやジャック、エラと久しぶりに朝食をともにしたからかもしれない。
出された朝食は香ばしく焼いた丸パン、塩漬け肉を薄く切って焼いたもの、トマトと
どうやって食べればいいのかもう知っているアーティカは、ナイフやフォークの存在を無視してパンを手で割り、肉とトマトペーストを挟んでかぶりついた。
口の中いっぱいに広がる大蒜の香りと、じゅわりと染み出すトマトの汁。その後から、香ばしい肉の旨味が口腔に溢れて、たまらなく幸せな気持ちになれる。
ただ、エラもサリアも、パンを頬張るアーティカを険しい表情で眺めていたけれど。
そんなことを思い出しながら、アーティカは狭いテントの中をウロウロしていた。
「アーティカ様。お気持ちはわかりますが、少し落ち着かれてはいかがでしょう?」
テントの中には折り畳み椅子が三つ。狭いテントは、数歩も歩けば端に着く。
五歩も歩かないうちにクルリと身を翻し、またテントの端まで歩くアーティカの姿は、少し
アーティカは少し照れたように頬を赤らめると、エラとサリアの元まで戻って、空いている椅子に腰掛けた。
「そ、そうよね、エラ。わたしの気が逸ったところで、なにが変わるわけでもないし」
椅子に座ってもまだ、気もそぞろなアーティカに、長い付き合いのサリアがひとつ提案をした。
「姫様。不思議な力で会議室の中を視ることができるんじゃありませんか?」
「サリア、なんてこと……! できるかできないかで言えば、それはできるけれど……でも」
アーティカはそこで言葉を切った。
脳裏に浮かぶのは、アーティカがヴィンスの元から逃げ出すきっかけとなった会話だ。あの日アーティカは、不用意にヴィンスの会話を盗み聞きした。
室内の透視と読唇術、それから微かに聞こえた声で判別した盗聴は、アーティカに早とちりという残念な結果しか与えなかった。
聞いてしまえば、視てしまえば、きっと話は早い。アーティカには、それができるのだから。でも。
アーティカは、不思議そうな顔をして見つめてくるサリアに、ゆるりと首を横へと振った。
「できるから覗くのは、違うと思うの」
ヴィンスとザーフィルの会談を覗きに行かない理由は、それだけじゃない。
アーティカの魔女としての力が、人間でいられるギリギリのところまで高まっているから。人間の形を保てなくなった魔女は、その輪郭が空気に溶けて肉体を失い純粋な魔になってしまう。
あるいは人の心を失って、美しいものを美しいと感じられなくなるだろう。
実のところ、人間ではなくなることは、それほど怖くはない。
アーティカが恐れているのは、人間でなくなってしまったら、ヴィンスと共に生きられないこと。レンズを眺めて愛でながら、平穏な余生を送ることだってできなくなるから。
「姫様……成長されたのですね」
「そう見えるだけよ、サリア。わたしのは、ただの保身」
ヴィンスを信じて待つことにした、といえば聞こえばいいけれど、結局アーティカはあの日の盗聴がトラウマになっている。
ここで魔術を使ったら、魔に偏って人間に戻れなくなるかもしれないから、やらないだけ。
長い睫毛を伏せたアーティカに、エラが言う。
「保身だとしても、私たちから見たアーティカ様のご決断は、高潔なものであると思います。あまりご自分を卑下されないよう」
「……エラ、ありがとう。今は、ヴィンスが無事戻ってくることを祈りましょう」
気遣う優しい言葉にはにかんだアーティカは、エラやサリアとともに、小さなテントの中でヴィンスの帰りを待つのである。
「アーティカ! ザーフィル殿からあなたの自由を取り戻すことができました」
テントの外からヴィンスの嬉々とした声が聞こえてきたのは、陽が傾きかけた頃だった。
会談を終えたヴィンスがアーティカがいるテントに入ると、その後ろから仏頂面のザーフィルがあらわれた。
「ついでだ、お前の侍女も連れて行け、魔女よ」
ため息混じりのザーフィルの声に、アーティカは悟った。彼らの会談は、ヴィンスが有利になるような結果でまとまったのだ、と。
二人の間で、どのような取引や話し合いが行われたのかはわからない。けれど、今、ザーフィルになにを言うべきなのかは、わかっている。
アーティカは、口をへの字に曲げて憮然とした態度を隠すこともしないザーフィルに、笑顔を向けた。
「ザーフィル、ありがとう」
「礼には及ばん。いずれお前は、必ず俺の元に戻ってくることになるだろうからな。今はせいぜい、自由を満喫すればいい」
投げ槍でありながらも、確信めいた響きを持ってザーフィルが言う。
アーティカが「どうして?」と聞く前に、ヴィンスがふたりの間に割って入った。まるで、アーティカを取られまいとするかのように。
「ザーフィル殿。アーティカは私と共に行くのです。あなたのところへは戻らない」
「異端審問官は黙っていろ、俺は今、魔女と話している。魔女と話す時間をくれる約束を守れ、王孫よ」
「ヴィンス、そうなの?」
「すみません、アーティカ。あなたのことなのに、私が勝手に約束してしまって……」
「ふふ、大丈夫。構わないわ」
アーティカは微笑むと、ヴィンスたちの元から少し離れてザーフィルと向き合った。
心労か、それとも疲労か。ザーフィルの浅黒い顔はやつれているようだった。それでも琥珀色の目はギラギラと輝いていて、皇帝の威厳は少しも損なわれていない。
そんなザーフィルが声を落として低い声で、アーティカに囁いた。
「魔女よ。お前は俺が言った言葉の意味がわかるな?」
「……っ!」
言われてアーティカは、息と言葉を呑み込んだ。
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