Rapport

棗颯介

Rapport

「寒っ………」

 見渡す限り周囲を白い雪山に囲まれた、人々が世間の目を逃れて隠れ住むかのようにひっそりと暮らす田舎町。それが俺のファーストインプレッションだった。山陰地方に足を運ぶのはこれが初めてだが、雪の降る中一人見知らぬ町を歩いていると、東にある東京・大阪・京都がどれだけ開発されていて住みやすく分かりやすい場所なのか実感させられる。今いるここはとても物悲しく寂しい場所だった。

 そんな町にどうして俺が来ることになったのか、話は一週間前に遡る。


▼▼▼


「お前、しばらく仕事場変えろ」

 担当編集者が無慈悲にそう告げたとき、一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。それまで話していた会話と何も結びつかない発言にしか聞こえなかったのだ。

「は?」

「そうだなぁ、島根とか鳥取とかあの辺がいいんじゃないか?静かだしこのシーズンは温泉とかも人気だろ多分」

 語尾に多分をつけるあたりこの編集者がその地方の風土や観光に明るくないのが見てとれた。

「いや、なんでそんな話になるんですか。僕の次回作の内容をどうするかって打ち合わせてたはずでしょ」

「お前の書く話なー、なんて言うんだろうな、薄情なんだよ」

「薄情?どういう意味ですかそれ」

「本の売り上げも新作出すたびに下がってきてるし、狂気沙汰くるいきさた先生にもここらで一度テコ入れが必要だろ」

「テコ入れって………僕の作品の何がいけないって言うんですか」

「だから薄情だって言ってるだろ堂々巡りだなぁ、ったく。下宿はこっちで見繕ってやるから、とにかく今の先生には新しい風が必要だ」

 小説家という職業を名乗り始めてから、スランプに陥ったことなんて一度もなかったし、これからもきっとない。アイディアは湯水のように湧き出てくるし、拾い上げたそれらを咀嚼して文字に起こした小説は正直どの作家にだって引けを取らない出来だという自信がある。

 なのにどうして、それなりに付き合いの長い目の前の強面の編集者がそんなことを言いだしたのか、自分には皆目見当がつかなかった。


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「新しい風ねぇ」

 確かに今まで感じたことのない風だった。冬の季節、山間の町に吹く風は都会のそれと比べて些か寒すぎる。今まで「身を切るような寒さ」なんて言い回しをいろんな作品で使ってきたが、今なら本当の意味でその寒さがどういうものか理解したうえで書けるような気がした。

 

 雪の降る中をしばらく寒さに凍えながら歩いて、ようやく下宿先に到着した。民宿のようだがお世辞にも客足が伸びているようにも見えない、田舎によくある年季の入った普通の宿だった。(おかげで長期滞在しても宿泊費はかなり安く済ませられたのだが)

「お電話した米倉よねくらです」

「お待ちしてました、狂気先生。温泉くらいしかない田舎町ですが寛いでいってくださいね」

「そうですね。あと、ペンネームで呼ばなくて大丈夫ですよ」

 特徴的な名前の方が印象に残りやすいという理由で決めたペンネームだが、面と向かって呼ばれるとさすがに気恥ずかしい。一応宿の予約自体は本名で行ったのだし。

 受付で宿泊手続きをしていると、目の前の女将さん(と俺は思っているが実際のところは分からない)がいる従業員用のスペースと思われる部屋の奥から制服を着た少女がひょっこりと顔を覗かせているのが見えた。

「あら、姜歌しょうか。そんなところに立ってないでご挨拶したら?先生のファンなんでしょう?」

「ファン?」

 思わず口をついてしまう。視界の先にいる少女はおどおどとした様子で女将さんのすぐ後ろまで寄ってきた。見ると少女の手には文庫本が一冊握られている。タイトルは『サーバーおじさん戦記 ~最後のDDoS攻撃~』。少し前に俺が書いて出版された本だ。

 自分で言うのもなんだがこれでもそこそこ自分の名前と作品は世に知られている。

ベストセラー作家とまではいかないが、こういう子がクラスに一人か二人いる程度には。

「あ、あの………」

 姜歌と呼ばれた少女がおずおずと口を開く。サインでも欲しいのだろうか。

「狂気先生には人の心とかないんですか」

「………」

 つい最近似たようなことを言われたばかりだ。強面の編集者に。

 ―――というか初対面の大人の男相手に開口一番煽り文句を言えるこのいたいけな少女は何なんだ。

 末恐ろしい。

 

***


 “人の心はないのか”と問われたが、似たような感想や意見が他の読者から届いているという話自体は編集部から耳にしていた。

 俺が書く小説は、どうにもハッピーエンドを好む層や一部の界隈からすると救いがないというか、胸糞悪くなる展開が多いということらしい。

 しかしそれはあくまで作者である俺の好みや匙加減の話であるし、気に入らないなら読まなければいいというのが俺のスタンスだった。実際、俺のそういう話を好んで読んでくれている人も多い。

 が、そればっかりでは作風がマンネリ化してしまうからというのが編集の言い分だったわけで。実際、売上が徐々に下がっているという話もあった。出版社だって慈善事業ではないのだから、結局最後は金の話になるのはそうだろうとは思うが。

 ———別に、なんでもよくないか?

 俺がどんな話を書こうがそれは俺の自由だ。他人のために書いているわけではない。

 ———“お前の書く話なー、なんて言うんだろうな、薄情なんだよ”。

 ———“狂気先生には人の心とかないんですか”。

「———クソっ、気が散って仕方ねぇ」

 宿の部屋で一人パソコンに向かって新作を執筆していたが、どうにも雑念が多く捗らない。気分を変えようと俺は宿の外に出た。

 昨日降っていた雪は止んでいて、今日はそれなりに良い天気だった。寒さは相変わらずだったのでチェスターコートとマフラーは外せない。東京に住んでいた頃は着けていなかった手袋もこの町にいる間は着用することを検討してもいいかもしれないな。

 一晩明けて改めて歩いてみても、人通りの少ない町だった。一応町の観光資源はいくつかある温泉施設とのことだったが、周囲を山に囲まれたこの土地はいかんせんアクセスが悪い。そのため世間的にも知名度はそう高くなく、温泉マニアや通な旅行者がいくらかいる程度らしい。

 ———まぁ、確かに漫画家とか小説家みたいな業種の人がカンヅメする分にはいいところなのかもしれないな。

 住みやすいとはお世辞にも言えないが、自然に囲まれてゆったりとした時間が流れているこの町は老後に暮らす分にはちょうどいい土地なのかもしれない。冬の季節は雪が多くて参りそうだが。

「ん………?」

 何の気なしに道を曲がると、その向こうに一際目立つ建物が見えた。それは小高い丘の上に鎮座していて、そこに至る坂道には幾重にも連なる朱色の鳥居が続いている。つまるところ、それは神社だった。

 そしてこれもまた何の気なしに、俺の足は自然とその神社に向いていた。神社は好きだ。来る者を選ばない。楽しい場所かと言われれば違うが、神様に顔を出して挨拶しておくだけでなんとなく得をした気分になれる。

 信号を渡って神社に続く階段の麓まで来たところで、この町ではまだ何人も見かけていない通行人とすれ違った。顔に刻まれた皺は重ねた年齢を感じさせるが、立ち姿というか歩き方にはどこか逞しさを感じさせる愛想の良さそうな老婆だった。

「お兄さんこのあたりじゃ見ない顔だねぇ。旅行かい?」

 昔から、出先で知らない人によく話しかけられることが多い。東京に出てきたばかりの頃は何度騙されて募金という名のカツアゲに遭ったことか。とはいえ二十数年の人生経験上、こと田舎町で起こるそれは往々にしてただの世間話か善意によるものがほとんどだった。

「えぇ、昨日着いたばかりなので、町を少し散策していました。大きな神社ですよね、ここ」

「ここはねぇ、創作の神様がいるところなんよ。後世に名を残す作家さんはみんな一度はここに来るって言われとるね」

「へぇ、そうなんですか」

 そんな神社があるとは知らなかった。案外編集部もここのことを知っていてこの町を推薦したのかもしれない。

「ちょっとお参りしてきます。教えていただいてありがとうございました」

「ええんよええんよ。なんもない町だけどゆっくりしてってな」

 去り際まで笑顔を崩さない老婆に僅かに心洗われる気分にさせられた。田舎の旅はこういう人との交流が醍醐味だ。

 社に続く参道は階段がそこそこの数あって、先程の老婆のようなお年寄りには些かきつそうに思えた。自分がまだ若くてよかった。

「いやはや」

 階段を登りきるとようやく正門が出迎えてくれた。一際大きな鳥居の脇には古びた木の立札に【鳴子なるこ稲成神社】と書かれている。

 稲荷神社と言えば起源は五穀豊穣を願って奉られたものだったと以前読んだ創作用の資料に書いてあった気がするが、創作の神までおわすとは、お稲荷様というのは随分と守備範囲の広い神様であるらしい。器用万能で羨ましい限りだ。

 境内はそこそこ広かったが、別段普通の神社と大きく異なる点があるわけでもなかった。境内に入ってすぐの右手側には手水屋があり、正面進んで奥の本殿手前には賽銭箱、そのすぐ近くには社務所と、おみくじや絵馬を結び付けるためのおみくじ掛けがある。また参拝ルートから少し外れたスペースには参拝者用のベンチもあるが、今は誰もいないようだ。

 作法に倣い、手水屋で両手を清めてからややのんびりとした足取りで本殿までの石畳を歩く。懐から取り出した財布にはちょうど五円玉が入っていたのでそれを賽銭箱に放り投げ、二礼二拍手して目を閉じた。

 ———願い事、何にしようかな。

 ———………。

 ———よし、決めた。

 そして最後に一礼し、おみくじでも買って帰ろうかと振り返ったときだった。

「………」

「………」

 目の前、足元に小さな動物がいた。やや尖った耳に鼻から伸びた数本のヒゲ。顔だけ見れば狐に見えなくもないが、首から下の胴体が丸っこくずんぐりとしていてそちらは狸などの方が近い。体長は俺の足の膝くらいまでだから、せいぜい五十センチもないくらいか。そして体毛は青空のように鮮やかな水色で、それが殊更この生き物が何なのか分からなくさせている。

 というか。

 ———二本足で、立ってる?

「おう、二本足で立ってるぞ」

「うわぁっ!?」

 目の前の水色の謎の生命体が急に人語を話したことに、思わず頓狂な声が漏れた。

「おいおいなんだ、人を見ていきなり大声出すなんて失礼な奴だな」

「いや、これは失礼。というか、人、ではないような気が」

「細かいことは気にするな、若人」

 水色の生き物は短い手でポンポンと俺の足を叩いてくる。その手には指と呼べるようなものは見えず、さしずめデフォルメされたマスコットのようだった。狸のような見た目といい体色といい。

「もしかしてドラ―――」

「多分それは違う」

「なんで俺の考えが分かった!?」

「いやなんとなく。それより、お前はオレが見えるんだな」

「まぁ、見えてなければ会話もできていないだろうけど」

「それもそうか。ところで―――」

「あの~?」

 水色の生き物が何か言おうとしたとき、遮るようにどこか間延びした声が届いた。

 俯いていた視線を正面に向けると、そこには一人の少女が不思議そうな顔をして佇んでいた。栗色の長髪を大きなリボンでポニーテールにまとめている、全体的に和風建築の多いこの町にあって少々異国情緒漂う少女だった。

「あの、誰とお話ししてるんです?」

「え?」

 改めて足元を見る。先程までと変わらずそこには狸と呼ばれがちな某国民的マスコットキャラを連想させる謎の生き物がいた。

 謎の生き物が口を開く。

「俺の姿は誰にでも見えるわけじゃないし、声も聞こえない。お前が特別なんだ。その子には見えてないし聞こえない」

「いや、そんなはず………」

 思わずそう口走ったとき、目の前にいる少女の訝しむような視線に気づく。その態度一つで、やはりこの少女には未確認水色生命体が見えていないことが窺えた。

「あー、いや、ただの独り言です。てっきり誰もいないものと思ってて。いやー恥ずかしい限り」

 別にそういうわけではないのだが、微妙に不条理というか納得がいかない。

「そうなんですか。面白い人ですね」

 そう言って少女がはにかんだ笑顔を浮かべ、俺の脇を通り過ぎて賽銭箱に向かった。まるで野鳥に餌でもやるような仕草で懐から小銭を放り投げて軽く一礼する。二礼二拍手一礼のマナーを知らないのだろうかこの子は。

 少女がこちらを振り向いて来た道を戻ろうと歩いてきたときだった。

「声かけろ」

 足元にいた未確認水色生命体が唐突にそう言った。

「………は?」

「いいから。あの子に話しかけろ」

「なんでだよ」

「お前がさっき願ったんだろ。あの子に話しかければ叶う」

「なんでお前が俺の—――」

 小声でそんな問答をしているうちに、少女が手を伸ばせば届きそうな距離まで迫ってきていた。

「ほら、早くしないと行っちゃうぞあの子」

 ええい、ままよ。

「あ、あの!」

「?はい、なんでしょう?」

 脇を通り過ぎようとしていた少女が立ち止まった。

 さて、言われるがまま声をかけたはいいが何を言えばいいのだろう。

「あっ、と………、俺、狂気沙汰っていう小説家なんだけど、知ってる?」

 名前も知らない少女相手にペンネームと職業を名乗ることが妙に居心地悪かった。しかし、咄嗟に出てきた言葉を今更撤回することもできなかった。

 少女は僅かに眉を顰めたが、やがて何かを思い出したかのように表情を変える。

「もしかして『カメムシの品格』を書かれてる?」

「そう!それ書いてるの俺」

「そうなんですか、それはお会いできて光栄です。あの本好きですよ私」

 そう言ってにこやかに微笑む彼女の笑顔は取り繕ったお世辞には見えなかった。

「この神社には豊作の祈願に来られたんですか?」

「豊作?自分は別に農家ってわけじゃ」

「あぁごめんなさい。このあたりの地域だとこの神社にお参りするクリエイターさん達の作る作品が良いものになるっていう意味で“豊作”って言葉を使っているんです」

「あー、なるほどそういう」

 確かに漢字の字面だけ見れば意味としては別段おかしくないように思える。

「まぁ、そんなところかな」

「先生の次回作、楽しみにしていますね」

「あぁ、ありがとう」

 さて話題が無くなってしまったがどうしようと思案していると、すぐさま次の“指令”が足元から伝えられた。

「この子におすすめの本を聞け」

「———なんで」

 怪しまれないようなるべく小声で尋ねる。

「いいから」

 聞きたいことは山ほどあったが、第三者が目の前にいるこの状況で下手に問答を長引かせると少女を困惑させてしまうことは分かりきっている。とりあえず指示に従うことにした。

「君は、結構本を読む方なのかな」

「えぇ、自分で言うのもなんですが、結構幅広く抑えてるつもりです」

「あー、その参考までに聞きたいんだけど、君は例えばどんな小説が好きなのかな。忖度は要らないから客観的な意見として聞きたい」

「うーんそうですね、最近だと咲良岬さくらみさき先生の『真っ青な薔薇を見ただろうか』とかですかね」

 咲良岬。俺は直接会ったことはないが、同じ出版社で書いている物書きのはずだ。デビュー当初からコアなファンはいたが一時期スランプだかなんだかで表舞台から消えたのが最近また新作を発表するようになって、今では飛ぶ鳥を落とす勢いで売れているという話は人伝てに聞いている。

「あぁあれか。タイトルは聞いてるけどまだ買って読めてはいないんだよな。どういう話なの?」

「んっとですね」

 少女は簡単にあらすじを説明してくれた。

 それは現代を舞台とした物語。主人公は才能に溢れるハリウッド俳優だったが、世界的に名が売れるにつれて一部の国の人々から人種による差別的な目を向けられるようになり、ついには傷心の末に仕事をストップしてしまう。そんな中友人に海外旅行を勧められ、訪れた日本の国で自分を慕うファンの人々と交流を重ねて少しずつ再起していくという異国の人間同士の心温まるヒューマンドラマ。

 ———なんというか、聞いてる限り小説よりは実写映画の方が映えそうなストーリーだ。

 刺さる人には刺さるのかもしれないが、自分が読んで本当に面白いと思えるのだろうかというのが正直な思いだった。

 とはいえ聞いておいてそんな抜き身な言葉を返すこともできない。

「そっか。うん、いい機会だ。今度また読んでみるよ」

「えぇ、是非。それじゃあ」

「あぁ、ありがとう」

 短く別れを告げると少女は踵を返して去っていく。

 その背が遠くなるのを見計らって、俺は足元にいた水色の毛玉に問いかけた。

「———で、お前は一体何なの」

「話すと長くなる。道すがら教えてやるから、とりあえずお前はさっきあの子に薦めてもらった本を買いに行け」

「道すがらだと通行人に俺が変な目で見られる。今この場で教えてくれ」

「やれやれだな」

 毛玉は嘆息すると背後にあった神社本殿までとてとてと歩いて行き、賽銭箱の上にちょこんと飛び乗った。

「よく聞け才能に乏しい人間よ、オレは太古よりこの地にて祀られし創作の神、『文路之御魂神フミノミタマノカミ』である!」

「誰が才能がないだぁ?!」

「お前以外この場に誰がいる。それより神様だぞ神様。何か言うことはないのか?んん?」

「じゃ略してフーミンって呼ぼう。タヌキっぽい見た目にもよく似合ってるぞ」

「誰がタヌキだぁ?!」

「お前以外この場に誰がいる」

「まったく、本当に面の皮が厚い奴だなぁ。狂気沙汰、本名は米倉千史ちさとだったか。作品がそうならそれを作った者もそうというわけか」

「ちょっと待て、ペンネームはともかくどうして俺の本名まで知ってるんだ?」

「オレは創作の神だぞ。世の中に溢れている創作物と、それ作った人間のことならなんでも知っている。プロもアマチュアも関係なくな。お前が中学生の頃に初めて書いた小説のタイトルが『LieLie来世』だってことも知っている」

「う、うぅぅ………」

 記憶の底に仕舞いこまれていたタイトルを他人に持ち出されて、古傷が痛むような心地になった。初めて書いた小説。その後の自分の小説家人生を語るうえで間違いなく自分にとっての記念碑的な作品ではあるのかもしれないが、長くこの道を歩いてきたからこそ、振り返るとどうしようもなく拙い出来に居たたまれない気持ちになってしまう。

「なに変顔してる。オレは好きだぞあの話」

「やめろそんな慰めは要らない………というか、お前みたいなのに読ませた記憶はないが」

「だから全部知ってるんだって。世に発表したとか誰に読ませたとか関係なく、人の手で創作されたものなら小説だろうが絵だろうが。なんなら今話したお前の小説のあらすじも語ってやろうか」

「いや!もういい分かった。お前が神様みたいなもんだっていうのはなんとなく理解したからもう許してくださいお願いしますフーミン」

「誠意は感じるが敬意は感じないなまったく。とにかくだ、米倉千史。いや、ここではあえて狂気沙汰と呼ぼう。オレはお前の願いを叶えるために現れた」

「願いって、俺がさっき賽銭箱の前で手を合わせて祈ったことか?」

「そうだ」

「願って早々現れるって、神様のフットワーク軽すぎやしないか」

「誰に対してもそうしてるわけじゃない。ただ、お前の場合はいろいろと勿体ないと感じてな」

「勿体ない?」

「とにかくだ、これからしばらく、お前にはオレの言うことに従ってもらう。そうすればお前の願いはじきに叶うだろう」

「はぁ」

「さしあたり、まずはさっきの子が言っていた本を買いに行け。そして宿に戻って最後まで読むんだ」

「それで本当に願いが叶うのか?」

「信じるかはお前次第だ。でもオレだって暇じゃない。同じ機会は二度もないぞ」

 見知らぬ土地で出会った得体のしれない神を名乗る未確認生物。

 そして願いを叶えるという話。

「———そんな次回作のネタになりそうな話、乗らないわけにはいかないな」

 こうして俺の、雪の降る町での奇妙な生活が始まった。


***


「………」

「どうだった。感想を求む」

 フーミンに言われた通り(呼び方についていろいろ言われたが名前が長ったらしいので結局フーミンと呼ぶことには折れてくれた)、あの後俺は町の書店で咲良岬が書いた新作小説の『真っ青な薔薇を見ただろうか』を買って宿に戻り、いま部屋でそれを最後まで読み終えた。

「読みやすい文章だったな。ちょっと説明くさいところが多かったのが気になるけど、全体を通して普通に楽しめたよ」

「それだけか?」

「他になんか欲しいコメントがあるのか?」

「肝心の物語の内容について触れていないだろう」

「んー、まあ主人公が俳優として再起していく流れ自体は良い話だとは思うよ?でもなんというか、最終的にどうなるか分からないみたいなワクワク感がなくて自分はちょっと物足りなかったかな。序盤を除けば全体的に話が綺麗すぎて」

「お前は確か、先の読めないストーリー展開を自分の作品で好んで書いていたな」

「先の見える話なんて書いていても読んでいてもつまらないしな。小説に限らず人生何事もそうだろ」

「否定はしないが」

 そう言うとフーミンは一つ息を吐いて、次の指令を下す。

「それじゃあ明日、今日と同じくらいの時間にまたあの神社に行くといい」

「行ったら何があるって言うんだ。青の次は黄色い体毛の神様が出てくるのか」

「それ頭に赤いリボンみたいな耳ついてないだろうな。違う。行けば分かる」

「分かったよ」

 どうせ次回作を書くこと以外にやることもないのだ。


 翌日、言われた通り【鳴子稲成神社】に行ってみると、参道の坂道を上り終えた先の境内に見覚えのある人影が見えた。

「こんにちは。奇遇ですね狂気先生」

「やぁ、君は昨日の」

 昨日ここで『真っ青な薔薇を見ただろうか』を薦めてくれた女の子だった。昨日会ったときと同じダッフルコートを着て、昨日と同じ色のリボンで栗色の髪を結んでいる。

 あぁそういえば、と俺は言った。

「昨日勧めてもらった本、読んだよ。面白かった」

「よかった、私もあのお話好きなので嬉しいです。プロの先生から見ても楽しめる内容でした?」

「あぁ。というか、面白さにプロかアマチュアかなんて関係ないと思うよ。自分が読んで面白いと思う本でも、他の人が読めばつまらないと言ったりする。小説なんてそんなものだ」

 実際、口ではああ言ったが自分は昨日読んだ本を手放しに『面白かった』とは内心思っていないわけだし。

「そうですね。ところで、先生は今日もお参りですか?」

「ん、あぁ。ちょっと気晴らしに」

「私もこの神社、好きなんです。小高いところにあるから町を見下ろせますし」

「言われてみれば、それなりに良い眺めだ」

 視線を少し左にずらせばその先に、一軒一軒の建物は素朴だが遠くまで広がる街並みと、それを丸ごと包むように聳える雄大な白銀の山々がある。都会に住んでいた頃には決して見れなかった風景だ。

「君はこの町に住んでいるんだよな」

 分かりきっているがなんとなく聞いてみた。

「はい、もう長いことずっとこの町にいます」

「物心ついた頃からこの景色を見て育ったのか。それは感性が豊かになりそうだ」

「えぇ、本当に」

 二人でしばらく無言で街並みを眺めていたが、視線を変えないまま不意に少女が口を開く。

「そういえば先生。昨日私がどうして『真っ青な薔薇を見ただろうか』を先生に勧めたか分かります?」

「ん?君があの本を気に入っていたからだろ?」

「それもありますけど、あの本の主人公と先生を少しだけ重ねてしまって。この町に来る作家さんって、何かしら行き詰まりを抱えてらっしゃる人が多いと聞くので」

「そう、だったのか」

 確かに創作の神様のいる町に外から来る人なんて、信心深い人を除けば何かしら神頼みをしたい境遇の人の方が多いだろうな。ましてアクセスの良いとは言えないこの山間の町なら尚更。

「差し支えなければ、先生がどうしてこの町に来たのか聞いてもいいですか?」

「あぁ、まぁ大した理由じゃないよ。編集部から、次回作は今までと違う作風に挑戦してみたらどうかって言われて、そのために仕事場を変えた方がいいって話になっただけで」

 その編集者曰く“新しい風”とやらは今のところまだ凪ぎの状態だが。

「なるほど。この町で、何か掴めそうな感じはありますか」

「今後に期待ってところかな。今のところはね」

 我ながら洋画の言い回しっぽい返しだと思ったときだった。

「この子に他に面白い本はないかって聞け」

 傍にいたフーミンがそう言った。創作の神様から新しい指令だ。

「———そうだ、せっかくなら他に君のおすすめの本とかあれば教えてくれないか。最近仕事が忙しくて他の人が書いた小説に触れる機会もめっきり減っちゃっててね」

 そう言うと、少女が少しだけ微笑んだ。

「えぇ、私でよければ」

「ありがとう。そういえば、君の名前をまだ聞いてなかったな」

「そうでしたね。私の名前は、文華ふみかです。文学の文に、難しい方の華で文華」

「すごく文学少女っぽい名前だ」

 名字を名乗らないのが少し気になったが、思えば自分もペンネームしか名乗っていないことを思い出し、それについては聞かないことにした。

「可愛いでしょう」

 そう言って悪戯っぽく笑う文華は確かに可愛かった。


「何もわざわざ一緒に来ることないのに」

「いえ、私も買いたい本があるので」

 昨日と同じように文華に教えてもらった本を帰りがけに書店に寄って宿で読む流れになるものと思っていたが、文華が『店で選んで決めます』と言ったので一緒に見に行く運びとなった。

 店に入ると、文華はまるで洒落たアパレルショップで新作の服を見て回る若い女性のような足取りの軽さで本棚を巡る。

「つくづく本が好きなんだな」

 そんな文華を見ていて思わず言葉が漏れ出てしまった。

「先生だってお好きでしょう?」

「まぁ嫌いではないな」

「なんだか手放しに好きだとは言えないみたいな反応ですね」

「好きとはいっても自分の仕事に関わる領域だからな」

「なるほど、一理あります」

 ふと、ある棚の前で文華が足を止めた。そして棚に敷き詰められた本の背表紙をしばらく目で追ったかと思うと、ある一点で止まる。

「それ、英語の本か?」

 文華が手に取ったのは『Charlie and the ChocolateFactory』と書かれた英語小説だった。日本でも翻訳された本が出版され、過去に実写映画化されたこともある世界的に有名な物語の。

「最近、英語の本も読めるようになりたいなと思ってて勉強中なんです」

「それは良い心がけだ」

「先生は外国の本は読まれたりは?」

「生憎、ノータッチだな。文華くらいの歳の頃からこっち、英語は苦手でね」

 まさか今日薦められるのは英語の本だったりしないよなと内心冷や汗をかいていたのだが、そんな俺の焦りを見抜いてか文華がクスリと笑う。

「大丈夫ですよ、先生に薦めるのは日本語の本にしますから」

「そうならありがたい」

 その後も店内をうろついて、最終的に彼女が俺に寄越してきたのは『落陽』というタイトルの文庫本だった。

「知ってます?」

「作品は知らないな。でも作者は知ってる」

 津島敦つしまあつし。大正から昭和にかけて後世に名を残す数々の作品を世に送り出した日本を代表する小説家。文豪だ。真面目に義務教育を受けていた者ならその名前は国語の授業で一度くらい聞いたことはあるだろう

「津島敦の代表作といえば『影と波の記憶』とかじゃなかったか?」 

「あれも好きですけど、有名すぎて先生もチェックしちゃってるかなと思ったので」

 本当は『影と波の記憶』も未履修なのだが、あんまり言うと小説家としての沽券に響きそうだから言わないでおいた。というか、昭和以前に書かれた文学作品は基本ノータッチだ。平成生まれだし。

「面白いのか、この話は」

「面白くはないですね」

「おい」

「本人から明言されているわけじゃありませんが、主人公が作者の津島敦自身をモデルにしてるって言われてるんですよこの話。昔の時代特有の空気感とか、作者の人生観みたいなものが描かれてて結構刺激的ですよ」

「つまり私小説ってわけね。なるほど」

 まぁ、俺個人の好みはどうあれフーミンから言われている以上、文華に薦められたものは履修しないといけないのだが。

「分かった。読んでみよう」

「感想、楽しみにしていますね」

 俺は二冊の本を購入し(文華の本も俺が買ってあげた)、店の前で彼女と別れた。

 文華の姿が見えなくなった頃、傍らに立つフーミンに尋ねる。

「なぁ、結局お前が俺にさせたいことって、あの子から薦められた本を片っ端から読んでいけってことでいいのか?」

「間違いじゃないが、それがすべてじゃない」

「まぁ、他の人が書いた本を読むことは自分の作品作りにも活かせるっていうのは納得なんだけども」

「案外同業者へのライバル意識みたいなものは持ってないんだな」

「他人は他人、自分は自分だ。それにいくら俺に文才があるとはいえ、一人の人間から出てくるアイデアなんてたかが知れてる。いろんな人が思い思いの物語を作ることに否定的な意見なんて持つわけないさ。実際、俺じゃ書けないジャンルもたくさんある」

 もちろんたまに他の人の書いた作品を読んで、自分にはない発想や文章力に悔しい思いをすることはないわけじゃないが。

「多様性を認めるその姿勢は買おう。というか、オレもお前一人の作品しか読めない世界なんてつまらないしな」

「そう言われるとなんか腹立つな」

 毒の吐き合いもそこそこに、俺たちは宿に戻った。


「ていうか、文華に連絡先聞くの忘れた」


***


 朝。下宿のエントランスで姜歌とエンカウントした。

「あ、狂気先生。おはようございます」

「あぁ、おはよう。今日も寒いなぁ」

「今日はまだ暖かい方ですよ。私が小さかった頃はこれよりもっと気温の低い日が冬の時期は当たり前でしたから」

「そう言われると、地球温暖化も悪いことばかりじゃないのかもしれないな。ところで今日は日曜だけど、部活とかかい?」

「はい、陸上部です」

「陸上?」

 目の前にいる姜歌は丸眼鏡をかけた大人しそうな佇まいで、正直運動系の部活に所属している印象はなかった。人は見かけで判断できないものだ。

 そういえばと、ふと思い浮かんだ疑問を投げかけた。

「姜歌ちゃんが通ってる学校に、文華って名前の子はいる?」

「文華、さん?ごめんなさい、私はちょっと分からないですね。別の学年にもしかしたらいるのかも」

「そっか、ならいいんだ」

 おそらく見た目的に世代が近いだろうし、この小さな町なら住民同士の距離も近いのではと思ったのだが、期待外れだったようだ。

「あ、そろそろ行かないと。すみません、私はこれで」

「あぁ、行ってらっしゃい」

 短く言葉を交わすと足早に姜歌は宿を出ていった。

「なんだ?あの子のことが気になるのか」

 気付くといつの間にか足元にフーミンがいた。

「別に気になるとかじゃないけどな。でも、あの子のこと、名前くらいしか知らないし」

「ふぅん。気になるなら今日会ったときに本人にいろいろ聞くといい。多分今日もあの神社にいるぞ」

「お前は何でも知っているなぁ」

「何でもは知らない。知っていることだけだ」

 神様も全能というわけではないらしい。


「降ってきたなぁ」

 身支度を整えて、今日もフーミンの“指令”通りあの神社へと足を運んでいる途中、宿を出て割とすぐのタイミングで雪が降ってきた。

 ———こんな日でもあの子はここに居るのか?日曜だし家の炬燵で丸まって昨日買ってあげた本でも読んでいそうだけど。

 最低限の荷物だけを詰め込んだ肩掛け鞄から折り畳み傘を取り出し、開いた。風の強い日だと壊れてしまいそうで折り畳みを使うのは憚られるのだが、今日は無風なので気にせず使うことができて助かる。

「………はぁ」

「こんにちは、先生」

 境内に上がると、そこには昨日と変わらず文華がいた。傘もささず、無防備に降雪に晒されながら参拝者用ベンチに座っている。

「何やってるんだ、君は」

「雪の降る生まれ育った町を見て黄昏ているんです」

「せめて傘くらい持ってきてくれ。見てられない」

 そう言って自分は彼女に雪が積もらないよう、持っていた傘を差しだした。

「大丈夫です。そんなに激しい降雪ではないですし、田舎育ちの女は寒さに強いですから。ほら、まるで蒲公英の綿毛が舞っているみたいじゃないですか」

「そういう問題じゃないんだ。都会育ちの男からするとね」

 ベンチに僅かに積もった雪を軽く手で払って、そのまま文華の隣に腰かけた。

「雪に塗れる女を捨て置いて、何が男か」

「あ、それ『落陽』の主人公の台詞ですよね。あっちは雪じゃなくて雨でしたけど」

「ちゃんと読んだよ。まぁまぁ楽しめた」

 『落陽』は歪んだ愛の物語。

 妻子ある身だった主人公の男は、ある日突然仲の良かった弟と死別してしまう。そして残された弟の妻、身寄りのなかった義理の妹を家に招いて共に生活することになるのだが、義妹の不幸な境遇を憐れんだ主人公は徐々に禁断の恋心を抱いてしまう。

 そしてついに義妹に己の心中を打ち明けるシーンで言っていた台詞が今言ったものだ。

「作者の私小説って言ってたけど、本当に当時あんな不倫劇があったのかい?」

「多少の脚色は入っているでしょうけど、一から百まで作り話というわけではないというのが現代の見解です。実際、作者の津島は何かと気の多い人物でしたから」

「まぁ、昔は一夫多妻なんてものもあったらしいしね。羨ましい限りだ」

「先生は誰か心に決めた女性はいないんですか?」

「いない。書いてる時々の小説に登場するヒロインだけが俺の脳内妻だ」

「脳内妻って」

「あぁでも、君のことは少し気になるな」

 そこで改めて文華の方を見た。

 話の流れ的に少しずれるが、別に気になると言っても異性として気になるという意味ではない。単純に彼女のことについて知らないことが多いからだ。

「まだ名前くらいしか知らないし」

「ただの暇してる、本が好きなだけの可憐な女の子ですよ」

「歳は?高校生くらいだと勝手に思ってたけど」

「女の子に年齢聞くなんてデリカシーなさすぎですよ先生」

 はぐらかされてばかりだ。本人に聞けばいいと今朝フーミンが言っていたのに。

「何もないように見えるこの町には、思ってた以上に謎が詰まっているらしい」

 ―――創作の神様を名乗る未確認生命体とかな。

 そう思いながら隣を見ると、フーミンが何やら本のようなものを開いているのが見えた。いつの間に持っていたのだろう。ブックカバーでもつけているのか、表紙や背表紙のタイトルは伺い知れない。

 ———神様も読書はするか。ていうか雪降ってるけど。

「そういえば、先生」

 文華の声に再び視線を戻す。

「ん?」

「先生はどうして小説家になろうと思ったんですか?」

「自分に文才があると思ったからだ」

 迷いなくそう答えた。

 自分に文章を書く才能があるという自信を持ったのはいつ頃からだったろうか。最初の作品(前にフーミンが言っていた『LieLie来世』だ)の時ではない。それはなんとなく覚えている。その後に何作か執筆を続けて、“続けられた”ということが自信につながったのだろう、多分。

 そうだ、思い出してきた。

「子供の頃から、チェスとか将棋みたいなボードゲームが好きな子供でね。小説を書く行為もそれに近いように思えたんだ」

「例えば、盤上の駒を差配するみたいに?」

「そう、しかもゲームと違って対戦相手がいないから、相手の駒の動きまで自分の思いのままだ」

 盤上に自分の思い描いた通りのシナリオを作る全能感。それに酔っていたんだ。多分今も。まるで酒やドラッグをキメて仕事をするみたいに。

「実際、それでプロの作家になれてるんですから先生には文才があったんですよやっぱり」

「つい最近、別の奴に才能がないって言われたばかりだけどな」

 そう言ってチラリとフーミンに視線をやる。相変わらず手元の本に釘付けだ。

「それはその人に見る目がないか、そうでないなら文章以外のことを指しているんじゃないでしょうか」

「文章以外かぁ」

 フーミンが最初に言った“才能がない”という言葉が文才以外のことを指しているのなら、それは何なのだろう。

 ふと、担当編集の言葉が頭をよぎる。

 ———“お前の書く話なー、なんて言うんだろうな、薄情なんだよ”。

「私、好きですよ」

「は?」

「先生の書くお話」

「あぁ。ありがとう」

 倒置法を使われたせいで変な誤解をしてしまった。

 すると、それまで沈黙を守っていた創作の神が急に話しかけてきた。

「その子をデートに誘え。これから。今すぐ」

「———は?」

「いいから。細かいところはオレがフォローしてやる」

 ———いやデートって。

 年齢は教えてもらっていないが、見た感じ二十歳は超えていないだろう。さすがに未成年に手を出すような真似はしたくないのだが。

「別に懇ろになれって言ってるわけじゃない。普通にその子を楽しませてあげればいいんだ」

「楽しませるねぇ」

「え、何か言いました?」

「いやなんでも」

 思わず声が漏れてしまっていた。

 ———まぁいいか。ここにじっと座ってても寒いし。

「少し、場所を変えないか?」

「え?」

「あー、ほら。俺ってこの町に来たばかりであまり詳しくないんだよ。散歩がてら町を案内してくれると嬉しいなーって」

 考えてみればこの町に来てからというもの、外出と言えばこの神社に来るか、帰りがけに本屋に寄るくらいでそれ以外の場所はあまり見ていない。

「ふふ。えぇ、分かりました。そういうことなら任せてください」

 横目にフーミンを見ると、『でかした』と言わんばかりにサムズアップをしている。

 ———その手、まん丸にしか見えなかったけど指あったのか。


 神社を出て、雪の降る町を二人であてもなく歩いた。雪はなかなか止まなくて傘はずっと差しっ放しだから、必然的に相合傘の形式になる。

 ———通行人の少ない町でよかったかもしれないな。

「ここが町の商店街。私は、というかこのあたりに住んでいる人は日用品はだいたいここで揃えるんじゃないかな」

「確かに、それなりに賑わってるな」

 あくまで町の他の場所と比べればだが。軒を連ねているのは大半が年季の入った建築の店が多い。おそらく、昔から住人に親しまれて続いてきた店しかないのだろう。この静かな町に移住してその上店を開こうとする物好きはそう多くなさそうだ。

 婦人服店、判子屋、洋菓子店など、ウィンドウショッピングするには些か敷居の高い店を通り過ぎていくと、ある地点で文華が足を止めた。

「ん?」

 立ち止まる彼女の視線を辿った先にあったのは、たい焼き屋だった。他の例に漏れず、店構えは古風で歴史を感じさせる。だがその分、味は確かだろうと見る者になぜか確信させる静かな佇まい。所謂老舗と呼ばれる類の店だろう。

 隣を歩いていたフーミンが話しかけてきた。

「たい焼き、この子に奢ってやれ」

「え?まぁ、いいけど」

 俺は文華に声をかける。

「たい焼きかぁ。なんか食べたくなってきたな。文華も食べたいか?奢るよ」

「でも昨日も本買っていただいたのに」

「大丈夫。それなりに稼いでるから」

 銀座の高層マンションで暮らすほどではないけれど。

 たい焼きを二個注文すると、店主は慣れた手つきで出来上がったたい焼きを袋に包んでこちらに寄越す。愛想の良い、人の良さそうなご老人だった。

「ほい」

「ありがとうございます!」

 受け取った文華は珍しくテンションの高い様子で、それがなんとなく引っかかったので聞いてみた。

「たい焼き、好きなのか?」

「いえ、そういうわけでもないんですけど。ただ、前から気になってたんですよねあの店」

「なんだ、ずっとこの町に住んでるのにあの店のたい焼きは食べたことなかったのか」

「それじゃあ先生はご自分が住んでいる町にあるお店はすべて一度は行ったことがあるんですか」

 少しだけムスッとした顔で文華にそう詰められて、俺は返す言葉もなかった。

「………久しぶりに食べたけど、美味しい」

「冬といえばたい焼きだよな~。今川焼でもいいけど」

「それって回転焼のこと言ってます?」

「ん?回転焼?突っ込まれるかもとは思ってたけどその場合大判焼の想定だったぞ」

「このあたりの地方じゃ回転焼って呼ぶ人も多いんですよ。他にも二重焼とか」

「へぇ~。まぁ確かにたい焼きと違って見た目もシンプルだし、付けようと思えばいろいろ呼び方ありそうだもんな」

「でも私はやっぱりたい焼きの方が好きです」

「俺もだ。なんとなくご利益ありそうだし」

 たい焼きを手元で頬張りながら美味しそうに表情を緩ませる文華を見ていて、少しだけ温かい気持ちになった。どことなく大人びているというか隙を見せない子だと思っていたけど、存外年相応の一面もあるらしい。

 そうしてたい焼きを食べながら二人で歩いていた時だった。

「あれ、狂気先生」

「ん、あぁ、姜歌ちゃんか」

 かけられた声に振り向くと、そこには姜歌がいた。時間的に考えて、きっと部活帰りなのだろう。学校指定の肩掛け鞄とは別に持っているビニール袋を見るに、宿の女将さんからお使いでも頼まれていたのかもしれない。

「どうしたんですか先生、

 姜歌の口から出たその一言が聞こえた瞬間、ゾッと背筋が凍える感覚を覚えた。ついさっきまで熱いたい焼きを頬張っていたというのに。持っていたたい焼きの包みを落としそうになるくらい。

 今、“一人”と言ったか?

 恐る恐る視線を隣に送ると、そこには依然文華が立っている。身体が半透明になっているとかそういうこともない。ついさっきたい焼きを手渡した時も、触れた手が身体をすり抜けるなんてこともなかった。この子は確かにここに居る。

 なのに姜歌は何を言っている?

 そうだ、フーミンなら何か知っているかもしれない。

 そう思い足元を見下ろすが、先程までいたはずの水色の神様は忽然と姿を消していた。

 ———………何が起きてる?

 隣に立つ文華はどこか申し訳なさそうに顔を僅かに伏せていた。


***


「………」

 その日の夜。俺は宿の風呂に浸かりながら昼間に文華と交わした会話を思い出していた。


▼▼▼


「私は人です。それは嘘じゃありません」

「それは見れば分かるよ」

 用事があるからと言って姜歌と別れた後、俺たちは再び神社に来ていた。境内に着く頃には降雪は止んでいた。

「でも、普通の人とは違います。信じてもらえるか分かりませんが、私は、神様から与えられた物語を最後まで終えないと死ねない身体にされているんです。ずっと昔に」

「与えられた物語?」

 言っている意味が分からないという風に首を傾げると、文華が続ける。

「私が生まれたのは、今からおよそ百三十年前。日本で言うと明治の時代です」

「………はぁ」

「当時の私はとても病弱で、大人になるまでは生きられないだろうと医者に言われていました。単純に、当時の医学が今よりも進んでいなかったというのもあるかもしれませんが。とにかくそんな私の病弱な身体を憐れんだ私の両親は、この神社に私を連れてきて祈祷を捧げました。“どうか娘を生き永らえさせて欲しい”と」

「ここの神社って創作の神様がいるところだろう?なんでまたそんな神社に」

 普通そういう願掛けとか祈祷は健康長寿で有名なところに行くものだろう。

「何もここでなければいけなかったわけじゃありません。ここ以外にもご利益のありそうな寺社仏閣は手当たり次第にあたっていましたから」

「随分と節操がない、いや、手段を選ぶ余裕もなかったのか。で、ここの神社の神様が君のご両親の願いを聞き届けてくれたってこと?」

「はい。でもそれは私の身体を丈夫にするとか病気を治すっていう直接的な方法ではなくて、“私を神様が作る物語の世界に閉じ込める”ことで叶えたんです」

「その神様が作る物語っていうのは何なんだ?まさか他の人には聞こえない声が脳内に直接聞こえるなんて言わないよな」

「聞こえればどれだけ楽だったでしょうね」

 文華は自嘲気味に顔を歪ませる。この数日見たことのない、とても恨みの籠もった表情だった。

「私がいつもこの神社に来ているのは、神様から与えられる物語を待っているから」

「待ってれば勝手に始まるのか?」

「現に、先生が現れて私を引き留めたじゃないですか。最初に会ったとき」

「………」

 それは、その直前に現れた創作の神が俺にそうするよう命じたから。

 つまり—――。


▲▲▲


「俺も、あの子も、お前の書いた筋書きに沿って動かされる登場人物だったってことか」

「まぁ、そういうことになるな」

 温泉旅館と比べれば見劣りするが一般的な家庭のものよりはいくらか広めの浴槽で、俺のすぐ隣で湯船に浮かんでいたフーミンが答える。

「文華が言っていたことを嘘だとは思ってない。お前が神様だって話も多分そうなんだろう。現にお前たち二人の姿は他の人たちには見えていないし」

「あるいはお前の頭がおかしくなったか、もしくはこの町に来たことも含めて、すべて現実のお前が見ている夢か幻という線もあるぞ」

「それはない」

「どうして?」

「夢で長風呂してのぼせそうになるなんてことさすがにないだろ」

 湯船に浸かっていろいろ考えているうちに、身体が少々温まりすぎたようだ。

「とりあえず、部屋で改めて教えてくれ。お前と、あの子のこと」

「あぁ」

 

 部屋に戻り、寝間着に着替え、電子ケトルでお湯を沸かして緑茶を淹れた。とんでもない非日常を体験しているというのに、俺はどうしようもなく冷静かつ緩慢だった。

 飲むかは知らないが一応二人分の湯飲みに茶を注いで、部屋の長机を挟んで改めてフーミンに尋ねる。

「聞きたいことはいろいろあるが、結局俺はこれからどうしたらいいんだ?」

「元々の話が『お前の願いを叶える代わりにオレの言うことを聞く』という話だったろう」

「俺の願いっていうと—――」

 あの時、神社で俺が願ったことは。

「———『世界平和』?」

「そうだ」

「一応聞いておきたいんだけど」

「なんだ?」

「創作の神様の守備範囲なのか、世界平和って」

「逆に聞くが、なんで創作の神がいる神社で世界平和なんて的のズレたことを願ったんだお前。聞いてたオレがどれだけ派手にズッコケたと思ってる」

「いや、大は小を兼ねるというか。神社とかお寺行ったらだいたいいつもそれ願うようにしてて」

 別に冗談でもなんでもなかった。家内安全とか商売繁盛とか、人の数だけ願いはあるが、それらすべてを包括してかつ究極的に表現できるのは『世界平和』以外にないだろう。自分も他人も、此方も其方も、今もこれからもすべてにおいて幸福でありますようにという純然たる願いだ。

「生憎、神様にも得意・不得意がある。オレに今の世界の全ての人を幸福にするような力も権限もないが」

 一つ息を吐いてフーミンが続ける。

「一人の少女の世界を平和にすることならできる」

「文華にとって、今のあの状態は平和なのか本当に?というか、どういう意図があってあの子をあんな状態にしたんだよお前は。悪意を感じるぞ」

「善意だよ。いくら専門外とはいえ、神は人の願いを聞き慈悲を与えてこその神だ。オレなりにあの子の両親の願いに真摯に応えた結果が今の状態だよ。ああするしか他に方法が無かった」

「文華は、どうして他の人の目には見えないんだ?」

 昼間、商店街で出会った姜歌は文華のことが見えていなかったことを思い出す。

「あの子は人ではあるけど、普通の人間という枠組みからは逸脱した存在だ。生きてはいるが存在が揺らいでいる………そうだな、生霊みたいなものか。普通の人間にはあの子の姿は見えないし声も聞こえない。お前があの子とコミュニケーションが取れるのはオレがお前をあの子と同じ物語の登場人物に選んだからだ」

「物語………お前が時々開いてた本か?」

 神社の境内でフーミンがベンチに座って読んでいたあの本。その時は気にも留めていなかったが、きっとあれがそうなのだろう。

 フーミンが頷いた。

「正確に言うと、既に完成した物語というわけじゃない。大まかなあらすじをオレの頭の中で組み立てて、実際にお前たちの動きや会話を見て書いている途中だな」

「このままお前の言う通りに俺が動くと、最後はどうなるんだ?」

 そう尋ねると、創作の神が嫌味っぽく笑う。

「先日お前が言っていたんじゃないか。『先の見える話はつまらない』とかなんとか」

「でももうネタばらしされている事項が一つあるだろう」

 ———“私は、神様から与えられた物語を最後まで終えないと死ねない身体にされているんです”。

「最後までお前の筋書きに従うと、最終的に文華は死ぬ」

「そうだな。そうなる」

 無慈悲な神の宣告に、言葉を失う。

「これまでも、お前以外にあの子の相手役をさせた人間は何人もいた。でも皆、途中で役を降りてしまったよ」

「それは、あの子を死なせたくないから?」

「そうだなぁ」

 大したことではないだろうにと言いたげな倦怠感のある声だった。

 確か、文華は百三十年ほど前に生まれたと言っていた。つまりこれまでに何度もフーミンから与えられた物語を繰り返してきたことになる。百年以上も死ねないまま、多くの人と関わりを持てないまま宙ぶらりんで生き続ける気分とはどういうものなのだろう。

 神から与えられた役割にただ従事し、筋書きという敷かれた運命のレールに沿うだけの人生。役を最後まで演じ切らないと永遠に降りられない舞台。

 “人の心はないのか”と言われがちな自分だが、今ほど他人の心を知りたいと思ったことはなかった。

「お前も、もうこの物語から降りるか?別に止めやしないぞ。そうなったらまた次の相手役を探すだけだ」

「………もし」

「ん?」

「俺が降りたら、どうなる」

「———あの子の物語は終わらない」


 『世界平和』———文華にとっての幸せとは何なのだろう。


***


「おはようございます、狂気先生」

「ああ」

 翌日、俺はまたいつもの神社に顔を出した。会う約束をしたわけでも事前に連絡をとったわけでもなかったが、今日も変わらず文華はそこにいた。

 今日は雪も降っていない。適度に雲は浮かんでいるが日差しも出て概ね良い天気と呼んで差し支えない日だった。

「もう来ないのかと思いましたよ」

 境内のベンチで隣に腰を下ろすと、ポツリと文華が独り言ちる。

「どうして?」

「経験上、今まで私に付き合ってくれた人は七割がた、私の話を聞いた時点で姿を見せなくなりましたから。信じられないか、怖くなっちゃったんでしょうね」

「残り三割は?」

「残りの人たちも、最後まで私の物語に付き合ってはくれませんでしたね」

 “私の物語”という表現に、どこか物悲しさを覚える。途中どんな道筋を辿ったとして、彼女にとっての結末は“死”という一点に集約されているのだから。

「終わり悪ければすべて悪しってね」

「何か言いました?」

「単刀直入に聞きたいんだが、君は死にたいのか?」

「はい」

「俺に自殺の手伝いをしてくれって?」

「うーんどちらかというと、私の最期の見届け人になってほしいって感じでしょうか。今回のこれは多分サスペンス小説ってわけじゃないでしょうし。それっぽい話は昔ありましたけど」

「あったんじゃないか。その時はどうなったんだ?」

「私が今もここにこうしていることが答えです」

「成程」

 傍に控えているフーミンを睨む。しまいには俺に包丁を取り出して文華の首を撥ねろとか言い出さないだろうなこの毛玉は。

「先生は、私のことを信じてくれるんですか?」

 文華がやや怯えるような上目遣いでそう尋ねる。

 信じるも何も。

「信じられないような出来事をこの目で見てるけど、自分の目は疑わないよ。それからさ」

「………?」

「君にとっての幸せって、何?」

「この物語の完結です」

 間髪入れず返事が返ってきた。まるであらかじめ台本でも読んできたかのように。いや仮に台本があったとして、こんなに間を置かず返事をしていては大根役者もいいところだろう。

 ———物語のヒロインではあっても、女優には向いてないな。

「分かった、付き合うよ。最後まで」

「………本当に?」

「面白そうだし」

「先生、本当に変わった方ですね。作品のネーミングセンスもそうですけど」

「平凡な生き方よりもイリーガルな生き方が好みでね」

「狂気の沙汰ですよ。名前負けしてませんね」

 そう言って文華は静かに笑い、やがて小さく呟いた。

「———ありがとうございます」

 それがこの子にとって必要なことなのなら。幸せだというなら、神様の筋書きに付き合ってやるのも悪くない。

 そう不敵にほくそ笑んだ矢先。

「狂気」

「?」

 傍らにいた傍迷惑な神が俺を呼ぶ声が聞こえた。

「この子のために新作を書け」

「次に出すやつ?」

「商業用のものじゃない。他の誰でもない、この子のためのこの子が読むためだけの物語だ」

「なんだよそれ」

「それの完成を以って、この子とお前の物語もクライマックスにする」

「———はぁ?」

「先生」

 小声で問答をしていると、文華がおずおずと話しかけてきた。

 途端、不審に思われていやしないかという考えが頭をよぎり、不自然なくらい勢いよく彼女の方を振り向いてしまった。

「ん?」

「もしかしてですけど、先生、私には見えない何かが見えてたりしますか?」

「えっ、あ、えーっと」

 どう言い訳をしたものかと思案していると、背後からまたフーミンの声が届く。

「いいぞ、この子にオレのこと話しても」

 ———いいのか?

 しかし、よくよく考えてみれば文華とフーミンにとってこの『物語』という名の舞台は今まで出演者を変えて何度も行われてきたものだ。であれば、文華が相手役の登場人物の裏にフーミンという神が存在することを知っていてもなんらおかしくはない。

 正直に打ち明けることにした。

「そうだな。見えてる。この神社で祀られてる神様。文路之御魂神フミノミタマノカミ………俺はフーミンって呼んでるけど」

「やっぱり」

 文華が続ける。

「最初に見かけた時から、何もない虚空見て一人で喋ってるように見えたから、そうじゃないかと思ってました。前回までに付き合ってくれた人達もそうでしたし」

「いまフーミンがさ、文華のために小説を書いたらこの物語は終わりにしようってさ」

「それは責任重大ですね先生。私から及第を貰える内容じゃないとダメみたいな条件は?」

 再度フーミンの方を見ると、ニヤつきながら首を縦に振った。

「どうやら、そうらしい」

「ふふ。それは大変なことになりそうですね。私、結構目が肥えてますから。もちろん今まで先生が書かれたお話はすべて好きですけど」

「はぁ。いっそ小説家なんてやめてパン屋にでも再就職しようかと思うよ」

 本当に趣味の悪い創作の神様だ。こう見えて学生時代はパン屋の店主に憧れていた。今の時代に自営業のパン屋なんてなかなか大変かもしれないが、無責任な客としての立場から見れば自分の店を持つパン屋の店主というのは妙に輝いて見えるんだ。

「パン屋よりは、たい焼き屋さんの方が私的には好みです」

「そういえば商店街でもたい焼きに釘付けだったな。何か思い入れでもあるのかい?」

「子供の頃、まだ私がこうなるよりも前に、両親が食べさせてくれたことがあって。それ以来の好物なんです」

「そんなに昔からある食べ物なんだな、たい焼きって」

「あのお店も、店長さんは当然代替わりしてますけど当時からずっとあそこにあるんですよ」

「それはすごいな」

 そんな他愛のないやり取りを繰り広げつつ、俺の頭の奥深くではこの『物語』を終わらせるための物語をどうするべきかという思案が渦巻いていた。

 思えば、俺が誰かのために小説を書いたことなんて今まであっただろうか。

 ない。一度も。


「———はぁ~~~~~」

「どうした、そんなデカい溜息ついて」

 気の抜けた声で尋ねてきたフーミンの首根っこを、俺は片手でぎゅっと掴んでキッと睨みつけた。

「ぐぐぐぐ、おい、ぐるじいぞ………」

「今からでもいいから神様が思い描いたシナリオを書き直してくれよ頼むから」

「神にも、ぎまりがあるんだ、一度言っだことは、どりげせないぃっ」

「はぁ………」

 フーミンを解放して、そのまま力なく部屋の畳に倒れ込んで頭を抱えた。

「げほっ、ゲホッ。なんだ、スランプか?お前には才能があるんじゃなかったのか、狂気沙汰先生」

「———今までの俺は、俺が読みたいもの、俺の書きたいことを書いてたんだ。誰かに読んでもらうための、誰かのための物語なんて書いたことない。何も浮かんでこないんだよ。面白いアイデアもキャラクターも」

「良い機会じゃないか。この山を乗り越えればお前は作家として一皮むける」

「神様は簡単に言ってくれるなぁまったく」

 そのまま部屋の天井を眺めていると、もぞもぞと動く小さな黒点が視界の端に映る。おそらく、小指の先ほどの大きさもない小さな蜘蛛か何かだろう。神様が蜘蛛の糸を地獄の罪人に垂らしてチャンスを与えるという小説を昔読んだ気がするが、いま目の前にいる神様は試練を与えるだけで救いの手は差し伸べてくれない。つくづく無情な話だ。

「神は、乗り越えられる試練しか人に与えないからな」

「フーミンてさ、最初会ったときもそうだったけど人の頭の中読めたりするの?」

「さぁな」

 はぐらかすフーミンの首根っこをもう一度締めてやろうかと思ったとき、不意に部屋の扉を軽くノックする音が聞こえた。

「先生、いま入ってもいいですか?」

「姜歌ちゃん?あぁ、いいよ」

「失礼します」

 直後、片手に何かやら盆を持った姜歌がゆっくりと部屋に入ってくる。

「さっき商店街でおつかい行って、たい焼き買ってきたんですけど先生も食べませんか?」

「貰おうかな。いろいろ考え事してて糖分が欲しくなってきたところだ」

「良かった。私もここで食べてってもいいですか?先生が食べ終わるまでの間でいいので」

「あぁ、構わないよ」

 俺は机に置いたノートパソコンをそっと閉じ、姜歌が持ってきたたい焼きを乗せた盆を代わりにそこに置く。

 二人でたい焼きを食べていると、姜歌が尋ねてきた。

「お仕事の長子はどうですか?」

「イマイチだ」

 イマイチというか、まだ一行も書けていない。

「何か、気分転換された方が良いアイデアが浮かぶって言いますけど」

「それなら、今しているところだ」

 そう言って手に持ったたい焼きを見せてニヤリとする。

「そうですね」

「そういえば、姜歌ちゃんは俺の書く小説を読んでくれてるんだよな」

「はい、だいたいは」

「たとえば、姜歌ちゃんは俺の次回作、どんな話が読んでみたい?」

 今までこんなこと、編集者を除けば他の人に聞いたことはなかった。それくらい、今の俺は追いつめられているということなんだろう。

「うーん、“キャラクターを大事にした話”、とかでしょうか」

「キャラを大事に?どういうこと?」

「先生の書くお話って、割とよく人が死んだり悲惨な目にあったりするじゃないですか。もちろんお話を盛り上げるために必要なことだとは思うんですけど、あんまりにもそれが目に付くと読んでて悲しい、というか寂しい気分になってくるんですよね。登場人物もただの舞台装置でしかないのかなーなんて」

「なるほど」

 以前から寄せられていた読者の感想ではあるけれど、こうして直接面と向かって言われるとなかなか堪えるものがある。

 いや、あるいは今の自分が、これまで描いてきたキャラクターたちと同じ立場に置かれているからなのかもしれない。今の自分は創作の神様が描く『物語』の登場人物で、神の気まぐれ次第でどうとでもできてしまうであろう身なのだから。

「———思えば」

「?」

「俺は面白い物語を書こうとするあまり、そこに出演する登場人物たちをないがしろにしていたところはあるかもしれないな」

 たとえばチェスや将棋に例えるなら、派手で劇的な勝利を演出するためにいくつもの駒を無駄に犠牲にする。そういう采配をこれまでしてきたんだと思う。“最終的に勝つ”という条件に固執するあまり味方の、それこそ敵の犠牲をも厭わない。

 所詮は虚構の世界の話なのだからと意に介していなかった。いや、こうして正面を向いて考えることもしてこなかった。

 ———自分が作った登場人物ひとを慮れないやつに、誰かのための小説なんて書けるわけないか。

 ふと部屋の隅にいたフーミンを見ると、僅かに口角を持ち上げてこちらを見つめていた。やっぱりこいつ、こちらの考えが読めてるんじゃなかろうか。

「あ、あと」

 徐に姜歌が口を開く。

「舞台は冬がいいです」

「冬?」

「ほら、今リアルに冬ですし。季節感のあるお話をその時期に読むのって、それだけでなんだか少し嬉しい感じ、しません?」

 そう言われて、俺は何の気なしに部屋の窓の向こうに続く外の景色に視線を移した。雪がまた降り始めていて、隣家の屋根はもう白一色、そのさらに向こうに見える町を囲む山は白銀に染まっている。

「まぁ、先生の新作が発売される頃には春が来てるんでしょうけど」

「そう、だね」

 なんとなく、道のようなものが見えたような気がした。


***


「あ、先生」

「文華?」

 その日、執筆の合間の気分転換に町を出歩いていると、ばったり文華と遭遇した。いつも彼女と会うのはあの神社の境内だったから、町中で会うのは妙に変な気分になる。

 というか、普通の人間でない彼女は普段会っていないときどこで何をしているのだろう?

「奇遇ですね、こんなところで」

「あぁ、ちょっと気分転換にな。このまま本屋にでも行って最新本のチェックでもしようかと思ってたんだ」

「それはまたしても奇遇です。私も本屋に行こうと思ってたので」

「つくづく本が好きなんだな」

「先生こそ」

「好きじゃなきゃ小説家なんてやってない―――というか、前にもこんな会話したな」

 そうでしたね、と言って文華がクスクスと笑う。その仕草だけ見れば本当にどこにでもいる少女と変わらない。実年齢は俺より百歳以上年上なのだが。

「じゃ、一緒に行こうか」

「是非」

 そうして二人仲良く肩を並べて歩いていると、文華が尋ねてきた。

「例の作品の進捗はいかがですか?」

「ボチボチってところだ」

 幸いなことに周囲の路地に通行人の姿はなかったので、気にせず彼女と会話することができた。

「時間はいくらかかっても構いませんよ。私はずっとここにいますから」

「締め切りのない執筆なんて何年ぶりだろうな、気楽すぎて涙が出てくる」

 実際は少女の運命がかかった締切以上のとんでもない重責を背負っているのだが。

「いっそ、このまま未完のままにしておくのはどうだろうって思うよ」

 内心思っていたことが口をついて出てしまった。

「それだと私も終われないです」

 文華が事もなげに笑って答えた。

「そう、だな」

 それが彼女にとっての幸せなら、叶えてやりたい。その気持ちは変わっていないのだけれど。

 やはりなんとなく、心の何処かで申し訳なく思う罪悪感にも似た気持ちがある。

 自分はただ偶然巻き込まれて舞台に上がらされた、ともすれば被害者と言ってもいい立場のはずなのに。

「先生」

 文華がいつもより少しだけ優しい口調で告げた。

「私にとって最後の物語、結末を楽しみにしていますから」

 隣を向くと、文華は屈託のない笑みを浮かべていた。

 哀しい。

 とても哀しい笑顔に見えた。どうしようもなく。


 書店に着くと、俺と文華は別々に本棚を見て周った。

「はぁ………」

「また溜息か?」

 俺が一人になったのを見計らってか、足元にいたフーミンが声をかける。

「本人にあんな顔されたらそりゃそうなるだろう」

「最後まであの子の物語に付き合うと言ったあの時の決意はどこに行った?」

「いや分かってるけどさ」

 文華のための例の新作は順調に書き進んでいる。きっとこれなら文華にも満足してもらえる出来になるだろうという予感もある。

 だが、章を一つ越えるたび、一行物語が進み、一言登場人物が声を発するたびに、文華の最期が近づいていると思うと、スランプなんかとは別の意味で筆が進まなくなってくるのだ、どうしても。

「哀しいな」

「あの子は今も哀しいままだ。それを楽にしてやれるのは—――」

「分かってるさ!!」

 思わず大きな声が出てしまい、少し離れたところにいた他の客や店員が何事かとこちらに視線を向けるのが分かった。

「———“人の心がないのか”なんて言われている狂気沙汰にも、ちゃんと人の心はあったらしいな」

「当たり前だろ、俺をなんだと思って―――」

「どうしたんですか、先生?」

 先程の声が文華にもばっちり聞こえてしまっていたらしい。奥の本棚から文華が慌ててこちらに駆け寄ってきた。

「いや、ごめん。なんでもないんだ」

 この子にはこれ以上余計な心配や気苦労をかけさせてはいけないと、努めて俺は笑顔を見せる。

「………先生」

 文華は徐に手に持っていた一冊の本をこちらに寄越してきた。

「?なんだ、また買って欲しいのか」

「はい。買って、読んで欲しいです」

「そういえば、『文華のすゝめ』シリーズはここ数日ご無沙汰だったな」

 そうおどけてみせて、渡された本の表紙を改めて見た。

 タイトルは『琥珀』。作者は咲良岬。

「また咲良岬先生か。文華はこの人の小説が好きなんだな」

「私は基本的にどんな本でも好きです。でも、今の先生にはこのお話を読んでもらった方がいいのかなと思って」

「これはどういう話なんだ?読んだことはないけど」

「読んでからのお楽しみです」

「分かったよ」

 文華の薦めならそう外れることもないだろうという確信にも似た思いがあり、俺は疑いなくそれを購入した。

 店を出ると、また雪が降り始めていた。

「先生は雪、好きですか?」

「冷たいから嫌いだな」

「私は好きですよ。寒い中食べるたい焼きは一層美味しく感じますし」

「意外と食いしん坊なのか文華は」

「それに、綺麗じゃないですか」

 どんよりとした雲から剥がれ落ちる白い結晶を、文華は愛おしそうに見つめている。それはまるで、もう見ることができないから目に焼きつけようとしているようにも見えた。

「さっきの本、また感想教えてくださいね」

「あぁ」

 短く言葉を交わして俺達は別れた。


「………ふぅ」

 その日の夜のうちに、文華に薦められた『琥珀』を読み終えた。部屋のストーブの音以外、何も響かない静かな夜だった。

「———気を遣わせちゃったなぁ」

「読んで最初の感想がそれか」

 傍に居たフーミンが呟いた。

「ストーリーとか登場人物の描写とかそれ以前の問題」

「まぁある意味、“以前”ではなくて“以上”かもしれないな」

「え?」

「お前、オレと最初に会った頃と比べればなかなか良い伸び方をしてるんじゃないか。スキルツリーで今まで育てていなかった部分を今ようやく鍛えてるって感じか」

「どういう意味だよ?」

「まだお前には伸びしろがあるってことだ」

 そう言ってフーミンがニヤリと笑う。そこに嘲りや見下した雰囲気はなくて、よくは分からないが満更でもない気持ちになった。


***

***

***


「———できた」

 後日、書き進めていた物語がついに完成を見た。

「ん、終わったのか?」

「あぁ、読むか?」

 ノートパソコンをフーミンに寄越そうとしたが、フーミンはそれを静かに制止する。

「いや、あの子と一緒に読むことにしよう」

「殊勝だねぇ」

「それより、書き終えたのはいいが推敲は済ませてるのか?あの子にとって最後に読む物語に誤字脱字なんてあったら締まらないだろう」

「済ませてあるよ。俺はプロだ」

「そうだったな。で、すぐにあの子に見せに行くのか?」

「———いや」

 立ち上がり、壁に掛けてあったチェスターコートとマフラーを羽織る。

「その前に、やり残したことがある」

 そのまま俺は宿を出た。幸いなことに今日は雪も降っておらず、空は晴れ渡っている。天候の神様がもしいるのなら感謝しなければ。

 向かう先は一つしかない。もはや通い慣れた鳥居の続く坂道を潜り抜け、地面に雪の積もる神社の境内に足を踏み入れると、彼女は変わらずそこにいた。

「狂気先生。こんにちは」

「何日かぶりだな」

「寂しかったです、先生に会えなくて」

「お世辞でも嬉しいよ。俺も寂しかった、文華に会えなくて」

「お世辞でも嬉しいです」

 そんな挨拶をしながら彼女の傍まで近づいた。

「小説が完成した。あとは君に読んでもらうだけだ」

「そうですか。お疲れ様です。そして本当にありがとうございます」

 文華のその言葉に彼女が心から自分に感謝し、労ってくれていることが伝わってきた。そのことに自分もようやく肩の荷が下りるときが近づいているのを感じる。

「読んでもらう前に、デート、しないか」

「え?」

 唐突な俺からの提案に文華が目をぱちくりさせる。

「後腐れなくフィナーレを迎えられるようにさ」

「私は、いつでも終わる準備はできていますよ」

「じゃあ、俺がまだできてないってことでここはひとつ」

 そうおどけて返すと、文華は根負けしたように笑って肩をすくめた。

「分かりました。先生の私にしてくれたことへのささやかな稿料代わりということで」

「そう考えると随分安い稿料だ」

「私みたいな若い女の子とデートできるんだから贅沢言わないでください」

「そうだな」

 実年齢はそっちの方が上だろう、という台詞は言わないでおいた。


「あ、見てください先生。町の子供たちが雪合戦してる」

 二人で町を歩いていると、車道を挟んで反対側の公園から何人かの子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「楽しそうだな。俺達も混ぜてもらおうか」

「私は、きっと仲間外れにされちゃいます」

 そう言って少しだけ寂しそうに笑う文華。彼女は普通の人間には見えないし聞こえない。あの子供たちにも、彼女の姿は映っていないことだろう。

「大丈夫だ、俺にはちゃんと君のことが見えているから」

「先生。………っ、分かりました」

 文華が微笑むのを見て、俺は公園にいる子供たちに大声で声をかける。

「おーい!おじさんたちも混ぜてくれー!」

「おじさんだれー?」

「知らない人と話したらダメって、先生が言ってたよー」

 ———うわ、田舎とはいえ思ったよりしっかり教育行き届いてる。

 子供たちの返事を聞いて、これはダメかと思ったときだった。

「みんな大丈夫。この人、私の知ってる人だから」

「姜歌ちゃん?」

 声のする方を向くと、背後に姜歌が立っていた。制服と鞄を持っているところから察するに、部活帰りなのだろう。

「ショウカ姉ちゃんの知り合いなのー?」

「そう!とってもすごい小説家の先生なんだよー!私も一緒に雪合戦、してもいーい?」

「姉ちゃんの知り合いなら、いいよー」

 姜歌の言葉に子供たちも納得してくれたようだった。

「ほら、いいって言ってくれてますよ。行きましょう先生」

「あぁ、ありがとう姜歌ちゃん。というか、あの子たち知り合いなの?」

「この辺りの子はだいたい顔見知りみたいなものですし。というか先生、子供と一緒に遊ぼうとするなんて可愛いところありますね」

「やれやれ」

 最初に会ったときから思っていたが、本当にいい性格をした子だ。

「———ほら、文華も」

「はい」

 姜歌の後を追うように、俺と文華は子供たちのいる公園に駆けていく。

 そこから先は、年甲斐もなく無我夢中ではしゃいだ。姜歌や子供たちの目に文華は映らないから、必然的に俺だけが文華を狙って雪玉を投げることになる。きっと周りの子供たちの目には、俺がとんでもなくノーコンで運動神経の悪い大人に映っているのだろうなと内心苦笑しつつ。

 ———文華が楽しそうだから、いいか。

「あははははっ!」

 俺が投げる雪玉も、他の子供たちから降ってくる流れ弾も、文華は嬉しそうに避けて、ある時はぶつかって、それでも笑顔を浮かべてこちらに雪を投げつけてきていた。

 今まで、こんな風に誰かと遊んだことも久しくなかったのだろう。こんなに満面の笑みを浮かべる文華を見るのは初めてだった。


「それじゃあ先生、また」

「あぁ、ありがとう姜歌ちゃん」

 ひとしきり子供たちと雪合戦を楽しんで、姜歌と子供たちは去っていった。

「楽しかったな、文華」

「はい。とっても、本当に………」

 遊び終えた文華は本当に嬉しそうに、楽しかった時間を惜しむように声を震わせる。

 そんな彼女を見て僅かに目頭が熱くなるが、切り替えるように自分の頬を叩いた。

「………あー、なんか沢山動いて小腹が空いてきたな。何か食べたいものあるか?―――って、聞くまでもなかったか」

「ふふ。先生のデートプランのセンスを信じます」

「やれやれ」

 足は自然と商店街の方に向いていた。

 営業日を知らないから今日開いているか不安だったが、愛想のよい店主の老人は今日もそこにいてくれた。

「いらっしゃーい」

「たい焼き、十個ください」

「はい、まいどあり。お兄さん、なかなか食いしん坊だねぇ」

「あはは、まだ育ち盛りなんで」

「そうかい、若いってのはいいねぇ。はい、お待ちどお」

「ありがとうございます!」

 俺は受け取ったたい焼きの包みを持って文華のところまで戻る。

「ほい。たくさん買って来たぞ」

「先生、私そんなに食べる子に見えます?」

「なんだ、本の虫なのにこういう言葉を知らないのか?『大は小を兼ねる』ってな」

「もう」

 文華は諦めたように笑う。

 ―――いいじゃないか。最後くらいお腹いっぱい好きなもの食べたって。

 その言葉は口には出さないでおいた。

「そういえば『琥珀』、読んだよ」

 二人でたい焼きを食べながら歩いているとき、以前薦めてもらった小説の話をした。

「はい、どうでしたか?」

「嬉しかったよ、薦めてくれて」

「どういう感想ですか、それ」

 反応に困ると言いたげに文華が笑った。

 『琥珀』という物語自体は、哀しい話だ。

 物語は前篇と後篇に分けられ、前篇の主人公は幼い頃から文章を書くことが好きな少年で、成長して小説家としてデビューするも大賞を獲得するまでには手が届かず伸び悩み、やがて自ら命を絶ってしまう。

 後篇の主人公は前篇主人公の幼馴染の少女だ。幼い頃から他の誰よりも彼の書く物語を読み理解を示していたが、同時に密かに彼のことを物書きとしてライバル視していた彼女は、成長した彼が先に逝ってしまったことで生き方を見失ってしまう。

 そうして少しずつ彼女の周りのいろんなものが崩れ落ちていく破滅的な物語。実際、最終的に後篇主人公の女性は前篇の主人公と同じように自ら命を絶ってしまう。

 でも。

「救いのある終わり方だったと思うよ」

 最期、ヒロインの前に幼馴染の少年の幻が現れて、彼女のすべてを肯定し、そして赦しを乞う。それで彼女の魂は満たされ、満足してこの世を去るのだ。

「後篇の主人公がなんとなく文華みたいだと思った」

「私はあそこまで悲劇的なヒロインのつもりはないですけどね」

「なんというか、雰囲気というか大枠の話だよ」

 ―――『私はこれで幸せだから、あなたは何も気にしなくていいの。あなたに罪なんてない。赦しを乞う必要もないから』。

 そんな台詞を最後ヒロインが言っている場面を読んで、きっと文華はこの一文を読ませたいがために自分にこの本を寄越したのだろうと理解できた。

 俺に、余計な気遣いをさせないために。

「咲良岬さんは」

「?」

「『琥珀』を最後に発表してからしばらく世間の表舞台から消えたんです」

「あぁ、確かそうだったらしいな。今ではまた売れてるけど」

「『琥珀』という小説も、発表当時はそこまで世間に注目されていなかったんです。私は好きだったんですけどね。いろいろと、当時の咲良先生の心が見えて」

「もしかして、これも『落陽』みたいに私小説だったりするのか?」

「だとしたら今ご活躍されている咲良岬先生はゴーストライターか何かになっちゃいますよ。でも、そうですね。一から百までそうというわけではないでしょうけど、モデルがご自身だったのはそうかもしれないって私は思ってますよ」

「ふぅん。まぁでも、今じゃその先生もすっかり売れっ子作家なんだ。月並みな結論だが続けることが一番の才能だよ。何事もね」

「えぇ。本当に、そうですね」

「———ありがとう」

 小さくそう呟いた俺の言葉は、冬の風に乗って空へと吸い込まれていった。


 西の空に陽が傾き始めた頃、俺達は再び【鳴子稲成神社】の境内に戻ってきた。

 デートという名の心の準備と整理はもう済んだ。これ以上他にやるべきことも未練もお互いにない。

「じゃあ、読みます」

「あぁ」

 俺は鞄から取り出したプリント紙の束を文華に手渡した。なんとなくノートパソコンにタイプしたものを読むよりは、製本されていなくても紙で読む方を文華は好みそうだと思ったのだ。

 それまで沈黙を守っていたフーミンも現れ、文華の肩にちょこんと乗っかって一緒に読み始める。

 俺が文華のために書いた物語。タイトルは『終わりを知るその時まで』。

 舞台は一年を通して雪の降り続ける、人里離れたとても小さな町。そこに偶然迷い込んだ主人公は元いた街に帰ろうとするが、雪の降る町には不思議な意思があり、雪の降り続ける限りはそこに住む人々の外への脱出を決して許さない。

 主人公は同じく町に囚われてしまった他の仲間たちと脱出の方法を探り、やがてこの町に雪が降り続けるのはかつて永遠を望んだ町の住人たちの意思であること、そして住人たちが信仰する町の守り神の存在を知る。

 永遠の冬を終わらせて春を迎えるため、主人公たちは町の奥深くの祠に座す神の元に赴くが、そこにいたのは背中に小さな白い羽を生やした少女だった。主人公は町を縛る雪を止めてほしいと訴えるが、少女はそれを拒否する。少女は遠い昔に再会の約束をした友人を今も待ち続けているのだという。

 そうして来る日も翼を持つ少女に嘆願しに会いに行く日々が続き、やがて主人公たちはかつて自分たちがこの町に訪れたことがあること、その時に少女と出会った記憶を取り戻していく。

 最終的にすべての記憶を取り戻し、少女がずっと待っていた彼らと再会できたことで少女は“終わり”を受け入れ、町に降り続いていた雪は止み、冬が明けて春が訪れた。元居た街に帰った主人公たちが春の陽だまりの中、背中に羽のようなアクセサリーを身につけた少女と出会う場面で物語は終わりを迎える。

「………」

 文華がそれらを読み終える頃には町は既に夕焼けの赤に染まっていた。

「どうだった?」

「狂気先生らしくない、とても良いお話でした」

「それ褒めてるのか?」

「褒めてるんです。とっても」

 そう告げる文華の横顔はとても穏やかで、憑き物が落ちたような表情をしていた。

 これで、俺がこの子にしてやれることも、この子がしなくてはならないことも、すべてが成就したと思えた。

 確かめるように傍らのフーミンを見ると、やはり文華と同じように微笑んで目を伏せている。どうやら神様からも及第点は貰えたようだった。

「先生」

「ん?」

「私、人生の最後に読む物語が、先生の書いてくれたお話で良かった」

「そりゃ光栄だ」

 人生の最後。最後の時が夕暮れ時なんて、ちょっとだけ素敵じゃないかと思う。

「大丈夫。日はまた昇るさ」

 唐突にフーミンがそう言った。

 ———やっぱり俺の頭の中見えてるだろ絶対。

「先生が私のことを想ってこの物語を書いてくれたこと、読んでて伝わってきましたよ」

「なんだか照れるな」

「本当は、いろいろ感想とか言いたいところなんですけど。もうあんまり、私の『物語』のページは残ってないみたいですね」

 そう言う文華の身体が、徐々に透けてきているのが見えた。

 本当に、本当の本当に“終わり”を知るときが来ている。俺達にも。

「あーあ、長かったなぁ。ここまで来るの」

「お疲れ様だ。俺には百年以上続く人生の物語なんて想像もつかないけど」

「本当に。大変でした。いっそ先生に私のこれまでのことを本にして出版してもらいたいくらい」

「せっかくの申し出だが、ノンフィクションは書かない主義なんだ。いろいろ確認とか許諾を取るのが面倒だし」

「ふふ、それは残念です。———ねぇ、先生」

「ん?」

 徐に文華が立ち上がり、境内を囲む低い塀の傍まで行った先でこちらに振り向く。本来なら彼女が陰になって届かないはずの彼方の夕日の光が、文華の身体を通り抜けてこちらまで届いていた。

 なんて神秘的で、美しくて、哀しい光景だろうと思う。まるで、星が姿を消す前の最後の煌めきのようだ。

「私達も、また会えますよね。先生が書いた物語のエピローグみたいに」

 そんなことができないのは、文華自身が一番よく分かっているだろうに。

 ———少し前の俺なら、『そんなわけないだろ』って言ったのかもしれないな。

 内心で自分を嗤う。返事は決まっていた。

「あぁ、また会おう」

「その時は、また先生の書くお話が読みたいです。一緒にたい焼き食べながら。約束、してくれませんか」

「分かった。約束するよ」

 そう言い俺は右手の小指を伸ばす。距離的に手は届かないし、きっともう彼女の身体に直接触れることも叶わないのだろう。心で直感できた。

 文華もまた嬉しそうに微笑み、片方の手の小指を立てる。

「大好きでしたよ。先生の小説」

 

 それが文華の最期の言葉だった。

 空の彼方から差し込む夕日の光が一瞬強く煌いたかと思うと、次の瞬間文華の姿はかき消えていた。


 残された俺は、やりきれない思いで顔を伏せた。やりきったというのに。俺も、彼女も。

「———文華」

 そう名前を呟くと、一層寂しさが募る。ほんの僅かの付き合いだったというのに。胸に残るこの感情の正体は何なのだろう。

「お前には心がある」

 不意に背中から声がかけられた。一部始終を見守っていたすべての元凶、創作の神様ことフーミンだ。

「当たり前だろう。俺だって人なんだ」

 顔を手で伏せたまま答える。

「そう、お前は人だ。神じゃない。人なんだ」

「………?」

「そしてそれは、お前が書く物語に登場する人物たちも同じ。現実の世界だろうが虚構の世界だろうが、人として存在する以上そこには必ず“心”がある。それをお前に知ってほしかったんだよ、は」

「何、言って―――」

 そこでようやく俺は伏せていた顔を上げてフーミンの方を振り向いた。

「———え?」

 そこにいたのは、フーミンだけではなかった。

「文、華………?」

 先刻、目の前で消えたはずの文華が立っていた。身体が透けたりもせず、その腕にフーミンをしっかりと抱きしめて。

「どうでしたか?神様が作った『物語』でいいように動かされる気分は」

 その声はまったく邪気に満ちておらず、今まで知っていた文華のそれと何も変わっていない。

 だが、単なる声色ではないもっと根本的な部分が今までと違って聞こえた。


***


「つまり、最初から全部お前達が仕組んだシナリオだったと」

「そういうこと」

「ということは、文華。お前が本当の」

「そう、私がこの神社で祀られている神様。文路之御魂神フミノミタマノカミ。私のこともフーミンって呼んでくれてもいいよ?千史」

 正体を明かしてから急に呼び方が『先生』から本名の『千史』に変わっているのは一旦気にしないでおこう。

「で、俺が今まで神様だと思ってたフーミンもとい、この青タヌキが」

「主様の神使しんし。名前は特にない。そういう役だったとはいえ、一時でもお前がフーミンって名前で呼んでくれたのは嬉しかったぞ」

 二人が悪戯っぽく笑う。

 とどのつまり、俺が最初にこの神社を訪れた時から、俺はこの二人が書いた『物語』に乗せられていたということだった。

 この神社の本物の神様だった文華が俺を登場人物に据えた台本を用意し、フーミンが主である神の名を騙って俺に近づき、当の文華も架空の経歴と設定を持った物語のヒロインとして舞台に登場した。

「悪意を感じる」

「善意だよ。って、こんな会話この子ともしてたね。騙してたっていうと聞こえが悪いけど、決してキミを陥れるためにこんな真似したんじゃないんだ。それは信じてほしいな」

「どうしてこんな真似をする必要があったんだ」

「最初に会った日、この子が言ったでしょ。キミのこと、いろいろ“勿体ない”と思ったから」

「勿体ない?」

 言われてみればそんなことをフーミンが言っていたような気もする。

「キミには文才がある。続けていけばきっと長く後世に名を残すような作品だって生み出せる。けれど一つだけ欠けているものがあった。物語の登場人物を大事にしないこと」

「だからオレ達は、お前をオレ達の用意した『物語』の登場人物にすることで、お前に作者の都合に振り回される人の心に共感してもらおうとした」

「………なる、ほど」

「で、どうだった?私達が作った『物語』の感想、聞かせてほしいな」

「最悪だ」

「だろうね」

「でも」

「?」

「———よかった。文華が消えてなくて」

 そう呟いた言葉は自分でも分かるくらいか細い声だったが、二人には確かに聞こえていたようだった。

「ありがとう。キミに“人の心を感じる”才能があって、本当によかった」

キャラを上手く動かす才能はあっても、小説っていうのは元来、読む人の心を動かすものだからな」

「千史が私のために書いてくれたあの小説、どんな内容になるのか心配だったけど、読む私のことも、物語に登場する人たちのこともちゃんと考えてくれてるのが伝わってきたよ」

 そう言って文華とフーミンがニッコリと微笑む。

 二人のその顔を見て、どうしてか無性に涙が出てきた。

「え、ちょっと、千史ってば泣いてる?」

「おいおい、大丈夫かよ?」

「いやっ、違うんだ、これは」

 なんとか取り繕おうとするが、言葉になってない言い訳ばかり口から出てきて、ますます情けなくなるだけだった。

 そんな俺を見て二人はやれやれといった調子で肩をすくめる。

「少し、私達もやりすぎちゃったかもしれないね。ごめんね千史」

「前の咲良岬って人間のときは、ここまでしなかったですしね主様」

「え、咲良岬って、あの咲良岬先生のことか?」

 今も俺と同じ出版社で本を出している小説家で、文華がたびたび俺に寄越してきていた本の作者だ。

「そう。実は彼も以前この神社に来てくれたことがあってね。その時は、彼を地元の青森まで帰るようにそれとなく誘導するだけで良いように事が運んでくれたんだけど」

「遠まわしだが主様が裏でいろいろ計らってくれたおかげで、彼はまた小説家として再起することができたんだぞ」

 そうだったのか。

 本人と直接会ったことはないが、機会があればそのことについてそれとなく聞いてみるのもいいかもしれない。

「そうだ千史。お詫びじゃないけど、キミに渡したいものがあるんだ」

「渡したいもの?」

 すると文華の傍らにいたフーミンがこちらに一冊の本を手渡してきた。

「キミと私の今回の『物語』。本にして作ったの。記念に受け取って」

「私小説でもないのに自分が登場する小説なんて、なんだか変な心地だ」

 受け取った文庫本の表紙には『Rapport』と記されている。

Rapportラポール………どういう意味だろう?」

「英語で“心が通い合う関係”っていう意味らしいよ。最近勉強したの」

「そういえば、本屋で英語小説を買ってたりしてたな。というか、神様なのに英語は読めないのか」

「日本の神様が英語読めるって解釈違いだと思わない?」

「———確かに」

 そう指摘されて思わず笑みが零れる。

 本物の神だって万能じゃないんだ。

 ふと気付けば夕日はほとんど姿が山に隠れており、じきに夜の訪れを感じさせた。そろそろ、宿に帰る頃合いかもしれない。

「じゃあ、俺はそろそろ宿に帰るよ」

「うん。ねぇ千史。さっき話してたこと、忘れてないよね」

「え?」

 さっき話してたことというのはどれを指しているのだろう。いろいろなやり取りがあって分からない。

「もう。約束したでしょ。“一緒にたい焼き食べながら、またキミの書いた物語が読みたい”って」

「あぁ」

 確かにしたが。

「今思い返すと壮大な茶番だったな、あれ」

「ひどいなー。言ってる私だってちょっとウルっと来てたのに」

「それはまた、いい女優になれそうだ」

「それは褒めてるの?」

「皮肉に決まってる」

「わ、やっぱりひどい」

 少しの間沈黙が続いたが、やがてどちらからともなく笑い声が漏れる。

 茶番だろうがなんだろうが、俺達はまた一緒に物語を読み合うことができるんだ。今はそれでいいじゃないか。

「千史の次回作、書店に並ぶのを楽しみにしてるよ」

「そうだな。次は今日読んでもらったのよりもっと良い物語にするよ」

「うん、期待してる」

「じゃあ、また来るよ」

「来るときはたい焼きも忘れずにね」

「あぁ分かった」

「またね」

「うん。また」

 まるで小学生の子供が下校中にする挨拶みたいに、俺達は何度も言葉を交わしてようやく別れた。


 帰り道の途中、コートのポケットにしまっていた携帯のバイブ音が鳴り響いた。液晶に映る電話番号は、東京にいる強面の担当編集のものだった。

「もしもし」

『あぁもしもし。どうだ狂気先生、そっちの生活は慣れたか?』

「えぇ、あまり栄えている土地とは言えませんけど」

『落ち着いてて仕事する分にはいいじゃないか。んで?次回作は良いのが書けそうか?』

「………そうですね。少し、今までの作風とは違うアイデアが浮かんできてます」

「おっ、そりゃあいい。今度俺もそっちに様子を見に行くから、その時に改めて打ち合わせさせてくれ」

「はい。よろしくお願いします」

『———ところで、なんかあったのか?』

「なんか、とは?」

『いやなんとなくだけど、なんか普段の先生と声の調子が違うような気がしてな。何か良いことでもあったのかい』

「良いことですか。そうですね、町の神社にお参りに行った先で、青いタヌキに化かされました」

『はぁ?タヌキ?なんだそりゃ』

「ハハハ」

 その後簡単な事務連絡だけして、電話を切った。

 ふと頬に触れる冷たい感覚に気付き顔を上げると、また雪が降り始めていた。

 ———そういえば初めてこの町に来たときも、雪が降ってたっけ。

 ———案外、こういう土地での生活も悪くないかもな。

 別宅でも借りるか、いっそこの町に移住するのも悪くないかもしれない。何しろここは、創作の神様がいる町なんだから。

「まずは、次回作を書き進めないとな」

 今なら今まで書いたことのない物語を生み出せるような気がした。何だって書ける。きっとそれは、今まで書いてきた作品よりは“心”を感じる物語になるんだろうという予感があった。

 ―――とりあえず、寒いからあの商店街に寄ってたい焼きでも買って帰ろう。

 そう決めた俺は雪の降り積もる道をまた一歩、歩き出した。

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Rapport 棗颯介 @rainaon

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