あるいは幸運なミステイク

朝吹

あるいは幸運なミステイク(同題異話2023/11)


 容貌は、その者に特別な運命を与えるものだ。男に生まれても女に生まれても、どんな容姿に生まれようと、それぞれの外観に適した行動様式が後天的に与えられると云った方が正しいだろうか。

 新人モデルの女の子が泣いている。反対側には、眼をほそめて薄笑いをしながら顎を上に向けて素知らぬ顔をしているカメラマンの助手の女。

「ふてぶてしい。人の男を寝取る女は、不細工な女の率が高いのよ」

 苦々しげに同僚が呟く。

 ボディランゲージと「ここだけの話」という同情戦略。他の女から男を略奪しては悦に入る、そんなありふれた女たちを、モデル事務所に所属する私たちは山ほど見てきた。どうでもいいことだ。

 泣きはらした眼をしたルーザーを、親切なモデル仲間が慰める。

「あんな女は猿みたいなものよ。猿だから頭が悪くて理性がないの」

 誰かが云ってやらなければならないのだ。無きに等しい女の価値を高く見せつけるために人の男をわざと奪っていく猿どもは、愛も情も理解しない。汚い手段で雌としての値打ちを底上げするために奪うのだ。

 盗んだ男で威嚇するそんな紛い物にも、若いうちならばそれなりの需要はある。しなだれかかって上目遣いを駆使する猿女と、猿に男を奪い取られた女との違いは、本能に直結した強欲さと性欲と浅ましさの有無、その差だけなのだ。

「つまりそれは、男も猿ということなのかな」

「かわいい、わたしの、お猿さん」

「キィキィ」

「そんな鳴き声だったかしら」

 わたしは海外から日本にかけていた通話を飛行機に搭乗する前に切った。

 女の魅力はプリペイド。誰が云ったのかは忘れてしまったが、うまいことを云うものだ。すごい勢いで目減りしていき、二十代で女は、価値の大半を使い果たしてしまう。男が執着するのは女の若さ。美貌は次点だ。

「遠距離だけど」

 乗車前に一応、断りを入れた。タクシーの運転手は快諾した。

 現地の悪天候の影響で飛行機が遅れて日本に到着してしまい、PRIORITYタグのついた荷物を回収した頃にはすでに真夜中を過ぎていた。国際空港からタクシーに乗り込んだ。深夜料金になるが気にしない。わたしは金には困っていない。

 灯りの多くが消えている深夜の街が不穏で好きだ。ネオンサインだけを浮かべた薄墨色の夜は水底のように棲みやすい。

「ジェンダーフリーを唱える男が、女湯に入れさせろと頑張っているそうじゃないですか」

 空港から家までは二時間半。その間、タクシー運転手は静かな声で繰り言を述べていた。脳と心が女の、生まれは男が、スパの女湯に入れろと最近主張している。その逆に、戸籍上は女で、脳と心が男のひとが男湯に入りたいと求めることはないのだから、魂胆は見え透いているとタクシーの運転手は云う。わたしも彼に同意だ。

 たとえ本当に中身が女でも、男女の性差とはその外観の違いにも重大な意味がある。男の形態のままで女湯に入りたいとは、社会や他人の混乱をまるで考えていない自分勝手な我儘だ。

「お客さんもそう想うでしょう。差別だ権利だと云えば全て通るとでも、あの人らは勘違いしているんじゃないですか」

 深夜タクシーの運転手の話は、さらに、売春する若い女の子たちのことにまで横滑りしていった。

「親は知らないんですかね。わたしが親なら、娘の頬っぺたを引っぱたきますが」

「もっともなことですね」

 抑揚のない声で返答した。タクシーの運転手は深夜に空港から乗り込んだ若い客がまさかその身売りをやっていたとは微塵も疑わないらしい。

「まったく狂ってる。ひと昔前は援助交際と云っていましたけど、あんなことをやっていた女の子がその後、普通に暮らせるんですかね。金銭感覚も狂うだろうし、身体だって不特定多数の男のせいで汚れて子どもが産めなくなるかも知れない。危険性を学校で教えないのか。なんて世の中だ」


 男たちは、若い女が好き。


 女の価値はプリペイド。出来るだけ高く買って。出来るだけ。そして私たちは軽蔑する。私たちを金で買う男たちを、いい歳をした大人の男たちを。心の底から嫌悪する。誰ひとりとして私たちのことなど憶えていないだろう。わたしが誰ひとりとして彼らのことを憶えていないように。彼らは酷い存在。わたしがゴミ捨て場だったのと同じくらい。

 車の窓に顔を寄せているわたしの片目が、ひと気のない街の電飾を追っている。銀河のように樹々にかけられたLED豆電球の色は紫を帯びた深い青だ。

「何だったかな、何とかいう漫画。ドラマ化もした」

 タクシー運転手のお喋りは耳障りなことが多いものだが、その運転手の語り口はふしぎと心地よかった。彼の中にある誠実さのせいだろう。わたしの何かが同調しているのだ。失った少女時代。失った女の倖せと、あったかもしれない未来。途中でめちゃくちゃになってしまった。

 もう片方の眼球の裏で、わたしは他の何かを想い出している。生家の庭に咲いていたクロッカス。「あやちゃん」とわたしを呼ぶ母の声。母は幸田露伴の娘である幸田文の随筆を愛読していてわたしにその名をつけた。


 ──見てごらん、文ちゃん。あなたが植えた花が咲いたわ。あんな球根からこんなにも綺麗な色の花が咲くなんて。


「そのドラマのせいで若い子たちの間にパパ活が流行したというじゃないですか。商売柄乗せたこともありますが、ドラマの俳優ですら近くで見れば皺の寄った小汚いおやじでしかないのに、現実のパパなんて、現れるのは見るも無残な醜男ばかりでしょう」

 身も蓋もない言い草だが、タクシーの運転手に同感だ。ほとんどは汚物袋を携えた醜い猿にしか過ぎなかった。奇跡的な確率でそうでもないこともあったが。

 どんなに不景気でも金はあるところにはある。いずれの時も想っているよりも高い値がついた。モデルを抱く代金。


 タクシーの冷えた窓に額を寄せて、わたしは流れる夜の街を眺める。わたしは男たちに金で買われていたが、そのことを羞じてはいない。わたしにはそれだけの価値がある。中国人の大富豪がわたしの前に積み上げていった札束を、当然のことだと見詰めていたほどには。

 その次に、病衣を着たわたしの前に札束の塔を作ったのは、その大富豪の甥だった。幸運だったと云えるのだろう。まだ実感がない。一生ないかもしれない。それがわたしには似つかわしい。



 家の少し手前でタクシーを降り、小型のスーツケースを引きずりながら小道を辿って、ようやく玄関に着いた。かつては高級住宅地として知られた郊外の街は、持ち主が代替わりするたびに寂れていき、豪邸の多くは窓や青銅の門を締め切ったまま荒れ放題の庭の樹木に呑まれていこうとしている。森に還ろうとしている閑静な住宅地。宇航ユーハンは画像検索でこの街の空き家を次々と端末に映し出して、わたしに訊いた。どの家がいい。

「宇航、ユーハン」

 呼んでいると、ややあって、二階から螺旋階段を降りてくる音がした。

「お帰り」

「待っていると云っていたから。部屋に電気がついていたし」

「もう朝の四時か」

 眠そうにしながらも宇航は備え付けのウォーターサーバーからロブマイヤーのタンブラーに水をとり、わたしに差し出した。仕事をしているうちに机に顔を伏せて寝ていたのだろう、宇航の頬に本の角のあとがある。

 外はとても寒かった。まだ冬には早いのに。

「診察のたびに現地に行くのは不便だな」

「気にしてないわ。飛行機は好きなの。はい、お土産」

「どこの庭先から盗ってきたんだ」

 わたしの差し出した金木犀の小枝を宇航はグラスに挿した。

「風呂に入ろう」

 わたしの服を宇航は脱がせ始めた。ジェンガのように、わたしの前に互い違いに札束を積んでいった男の指。

 


 わたしの片眼は義眼だ。

 宇航ユーハンの伯父がわたしに暴行をふるった時に眼球を損傷して失明した。日本人の若い娘を買いあさるのが中国人の富裕層たちに流行していた。彼らは若い頃、日本のドラマを観て育っており、日本人の女に強い憧れがあったのだ。そこにはかつて彼らよりも先行していた日本に対する、幾ばくかの歪んだ復讐心もあっただろう。そのせいか手荒なことをする者が多かった。その一方で、敵国から奪った戦利品のように、わたしを着飾らせて世界中に連れ廻しもした。

 移動先で同胞に逢うと、彼らは目配せをする。日本人の人形だよ。わたしはその男の許へ送られる。どうにでも扱いなさい。いつかわたしは全てを棄ててしまうのだから。

 何かが蠢いている間も、心の奥底に軽蔑と嫌悪感を出来るだけ小さく折りたたんで、他のことを考えていた。

 気が付いたら血だらけになって浴室の浴槽に倒れており、シャワーは出しっぱなしで、濡れた大理石の床にはナイフと、あと何か、あまり想い出せない何か色々なものが転がっていた。ホテルの支配人が合い鍵で部屋に入ってくるまで、エジプトの高級ホテルの高層階の一室で、意識を失ったわたしは同じく意識のない男と共に、裸のまま鯉のように水しぶきを浴び続けていたそうだ。

「伯父のやったことを、お詫び申し上げます」

 疲れた顔をした宇航ユーハンが病室に現れ、わたしの前に札束を積んでいった。英国製のスーツを身にまとう若きビジネスマン。積み木で独りで遊んでいる少年のようだった。もちろん札束をそのままくれるわけではない。金額を可視化しているだけだ。

「美しい顔を傷つけてしまい申し訳ありません、あやさん」

 プログラミングされた機械のような声だと想いながら聴いていた。昨今では機械のほうがまだ温かみのある声音を作る。この男は女には興味がないのだ。

 片目を失ってしまったのだからモデルの仕事はもう出来ない。

「整形がしたいわ」

「当然です。お望みのままに」

 親族の犯罪をなかったことにする金の塔。積み上がった口止め料から視線を外し、わたしは宇航にもう少し増額するように暗に求めた。

「とても怖かった」

「申し訳ありません。貴女は伯父に気に入られたのだ。こんな言葉はなんの慰めにもならないでしょうが」

 わたしが抵抗した時に大富豪も床で頭を打っており、集中治療室にいるという。

「わたしは捕まるのかしら。それとも消されるの」

「まさか。一族の醜聞は覆い隠します」

「日本に戻りたい」

「退院出来るようになれば、すぐに」

「医者を探して下さい」

 傷ついた肉体。ただの心の入れもの。

 チャーター機を手配する電話をかけながら、宇航の眼がわたしを捉えていた。その眼光は先刻とは別の、あたらしい興味をもっていた。


 数日生きて死ぬだけの虫けらでも脱皮する。

 誰にも迷惑をかけないからそうしたい。

  

 

 海外の病院から姿を消した重要参考人の日本人の女はその後、いくら探しても誰も見つけることが出来なかった。大富豪の方は病院で死んだ。

 日本人ではなく他のアジア人ではなかったのかという風説がもっともらしく流されていた。新しい戸籍と旅券、アリバイを含めたすべてのことを宇航ユーハンが片付けてくれた。

 術後が心配だと云って、宇航はわたしに付き添って日本にやって来た。わたしは彼のお気に入り。宇航は流暢に日本語が話せた。都心の高級クラブや鮨屋、地方の名所は彼のほうが詳しかった。父親が日本贔屓で、子どもの頃から月末ごとに来日していたからだ。

「せっかく自力で貯めていたのに」

「貯金のことかい」

「目標金額に届いていたのよ」

「ぼくが中国の皇帝ならば世界に一つしかないこの身体のために、天にまで届く金を積む」

 背後から宇航ユーハンがわたしの残った方の眼の上に掌をおく。まだ生々しく残るメスと縫合の痕の上にも。痛みと違和感。どちらも子どもの頃からあったお馴染みのものだ。

 宇航が呟く。

「君の口から洩れ出る女言葉が好きだ」

 宇航の胸に身体を預けているわたしは大きな湯舟の中で足を組み替えた。わたしの身体は彼のお気に入り。

 風呂の天窓がしだいに白んで、秋の朝の訪れを告げている。

 この男を愛するわけではないが、昔よりもずっといい。熱い湯が落ちていく。庭に植えた球根。春になれば芽吹いて咲くだろう。

 わたしの名は博文(ブォエン)。

 日本に暮らす中国人の青年。



[了]


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