第8話

 奈落へ落ちていく天慈宝は、いつの間にか周囲が闇ではなく硬く冷たい檻と化していることに気がついた。

 要玉だ。

 貪欲に天慈宝を呑み込み、さらに取り込もうとしているのだろう。玉の内側には恐ろしいほどの圧で目に見えない霊力が満ちている。激しい頭痛と、全身の骨が一つの塊に押し固められそうな痛みに、天慈宝は顔を顰めた。

 霊力を込めて短剣を突き立ててみても、玉に弾かれて傷一つつけられない。


 だが、これでいいのではないか。

 これで、美洲稚は救われる。美洲稚の生きる睡花の世を支えることができると思えば、別れを心に決めた時にした決意とそう変わらないではないか。


 だが、高く、悲痛な声が聞こえた気がした。

 諦めて座り込もうとしていた天慈宝は、我知らず、短剣を握って立ち上がった。

 何も考えられない。何のためにここにいるのかも、もうわからない。

 ただ、ただ、あの声の元に行かなければと思う。


 不思議な空間は、完全な闇ではない。

 玉の煌めきと闇が共存している。

 頭痛を堪え、全身を押し潰す圧から身を守るために術を纏った。恐ろしい速さで自分の霊力が削れていくのがわかる。それは、龍においても最大の霊力量を誇る天慈宝にとって、初めて味わう恐ろしい感覚だった。

 いつ霊力が尽きるか、予想もつかない。

 焦りを抑えて、霞む視界で辺りを見回す。


 ふと、気がついた。

 うっすらと桃色を帯びた箇所がある。試しにそこを短剣で突くと、ほんの微かに罅が入った感触があった。

 なるほど、もしかすると涅璃珪が要玉に桃色の霊力を打ち込んだときに、ここを通ったのかもしれない。要玉はほとんどの桃色の霊力を吐き出したようだが、弱ってしまったところに残っているのだ。


 ここよ、と美洲稚が呼んだ気がした。

 天慈宝は短剣の耐え得る限りの霊力を込め、そこへ叩きつけた。

 罅が広がる。

 だが、天慈宝の手も焼け焦げた。

 五度、いや四度が手の限界だろうか。だがその次は、左の手がある。

 天慈宝は、再度霊力を込めた。







 あれから何度、短剣を打ち下ろしただろう。もはや刃は折れ柄だけとなった汚れた短剣が、天慈宝の棒のように焦げた黒ずんだ腕の先から離れ、どこかへ落ちていった。

 体を守る術も、もう保てない。

 術がとければ、一瞬で天慈宝あじらは潰され、取り込まれるだろう。

 ゆらりと倒れ込むがまだ、まだ諦める気は無かった。


 地に着く膝、手、そして打ち付ける額、全てに術を込める。やぶれかぶれの、最後の手段だ。


 ガツリと固い音がして、気が遠くなった瞬間、カラカラと軽い音をたてて、爪の先ほどの玉のかけらが倒れた天慈宝あじらの目の前に落ちて来た。


『道しるべに、感謝する』

 

 そう言って、誰かが天慈宝の焼け焦げた両腕を引いて要玉から引きずり出した。


『その霊力で、よくやった。穴を空けてくれたおかげで、道を辿れた』


 朦朧とする目で見上げれば。

 それは天慈宝と瓜二つの男だった。

 男に支えられ、奈落の闇の中で、天慈宝はぼんやりと相手を眺めた。


「お、れ?」

『そうとも言える。だが、ここからの未来においてはそうではない。俺は、愛しい女の霊力を根こそぎ奪われてしまった愚かな青龍だ。だが、お前のおかげでこの核を取り返せた』


 そういって、手のひらに収めた小さな小さな桃色の宝玉を、すっと宙に掲げた。

 するすると、解けた糸が巻き戻るように、要玉の真上に広がる広大な睡花から、桃色の優しい雨がその宝玉めがけて降ってきた。

 雨を吸い込むたびに、玉が大きくなる。


 わずかに逸れたその雫が天慈宝の頬に当たる。やさしく、ぽつりと。涙のように。

 すると、見る間に体が癒やされるのがわかった。

 枯れ果てようとしていた霊力が、少しずつ補われ、足されていく。初めて知る、その震えるほどの快さ。


 だが天慈宝が満たされるにはほど遠い段階で、もう一人の青龍は両手で抱えられるほどになった桃色の宝玉を胸に抱いた。


『それは礼だ。本当なら、お前にだって分け与えたくない。お前の飢えは、お前の相手で満たせ。俺は俺の運命の霊力はすべて回収したからもう戻る。ここに来るにも無茶をしたから、時空が少し歪んでいる。気をつけろ。

 ――ここからは、別の道だ』


 言い終えるなり掻き消えた姿を追うように、天慈宝は龍体化した。

 猛然と、虚空を昇り、傾いた睡花の世の上空へと回り込み。


 そして歪んだ時空を通り抜けて、見た。


 眼下には、落ち行く己と、それに手を伸ばす美洲稚。

 涅璃珪に抱え込まれ、もがいて手を伸ばしている。落ち行く天慈宝に向けて、置いて行くなと泣いて。

 そして、彼女を中心に、蒼宮を覆い尽くしそうなほど巨大な、花が開いた。

 そんな幻覚を見た。

 色は見えない。

 だがわかる。

 これは美洲稚みずちの恋の証。馨しく満ちて開いた、甘く愛しい霊力だ。

 そんな場合ではないのに、天慈宝はその美しさに陶酔した。


「これだ! よくやった。これが欲しかった!」


 美洲稚を抱え込んだ若亀が、哄笑する。嘆きの声を上げ、悲しみ震える美洲稚のことなど見もせずに、霊力ばかりを見ている。


 天慈宝は腹の底から怒りの唸りを上げた。


「涅璃珪ぁぁああ!!!」







 美洲稚の嘆きが響いた直後、上から、龍が降ってきた。


 青銀に輝く鱗を煌めかせる巨大な美しい顔がこちらを見て。その濃青の瞳に、美洲稚自分が映った。


「天慈宝!!!」


 なにをどうしたのか、わからない。

 ただ、思い切り若亀の手を拒絶した。

 思い通りに動く巨大な花色の力が、不意を突かれた若亀を弾き飛ばした。


 美洲稚の体が龍に向かって舞い上がる。

 龍の大きな青い目が見開かれて、そして次の瞬間には龍は天慈宝の姿に戻り、美洲稚をしっかりと抱き留めていた。


「な、何が……。今お前は落ちたはずだ。なのに何故お前が!? 龍は時の力は持たないはず」


「それはお前の知る事実でしかない。若亀、お前が招いたことだ。償え。今、要玉には美洲稚の霊力は残っていない。残っているのは、お前が混ぜたお前の霊力だけ」


 色を失い傾いた世界を見回した若亀の目には、何が映ったのだろうか。

 各地で変わってしまった地形も、今も端からぽろぽろと零れ落ちている命も、嘆きも、救いを求める声も、きっと何も見えてはいないのだ。

 生け贄として生きる自分を哀れんでいた男は、他者を突き落とす道を選んだ。

 それが、自分を救うはずもないのに。


「う、ぐ、このクソ龍がっ!!! 苦労して盗んできたあの美しい霊力が……」


「お前の霊力が混ぜられ歪められていたあの霊力が、美しいはずがない。もっと美しいものが、ここに在る」


 天慈宝は、炭からは回復したものの、まだ焼け爛れたままの手のひらを、若亀に向けた。

 腕の中に安堵したぬくもりを感じれば、かつての自分など子供としか思えないほどの霊力が湧いてくる。

 見る間に火傷は修復され、天慈宝は敵の目の前で、全き自分の姿を手に入れた。


「お、お前、その霊力、未来の……」


「未来はこれから創られる。まだそこには、何もない」


 天慈宝の手から迸った銀白の霊力は、一瞬で若亀の全身を縛り上げて、要玉の内部へと転移させた。

 崩壊の限界にあった要玉は、一瞬の思考すら許さずに若亀を取り込み同化した。

 要玉の修復に合わせて、美洲稚を抱いたままの天慈宝が、睡花の盆を水平になるよう霊力を解き放って持ち上げていく。


 到底、ただの精霊に為し得ることではない。

 絶えず湧き出る霊力をもってしても、有り得ない大業だ。

 だが、目を血走らせ、歯を食いしばって、天慈宝は霊力を送り続けた。


 いつの間にか、美洲稚が自分の胴にしっかりと抱きついていた。ぴたりと寄せた体から、おそらく意識的に霊力が流れ込んでくる。


「頑張って、天慈宝。頑張って……」


 涙混じりの声に、共に力尽きるまでという強い気持ちが籠っている。

 旅の間、どれほど見つめても頬一つ染めることのなかった美洲稚から、受け止めきれないほどの想いを注がれている。

 その胸の内を何と表そう。


 天慈宝は、長く一人だった。

 最強の龍として生まれ、登極し、友と仲間を見送りながら、淡々と時を重ねてきた。

 寂しいと思ったことなどなかった。

 だがそれは、寂しさを、孤独を、知らなかっただけだった。

 今、共に王座に立ってくれる伴侶を、尽きぬ勇気と霊力を与えてくれる最高の恋人を腕に抱いて、ようやく知った。

 天慈宝は、長く一人だったのだと。




 やがて、要玉は元通りの強固な礎に戻った。

 睡花の世は少し傾いたままとなったが、坂は坂、平地は平地と言える程度となった。盆の上のことだ。それも徐々に均されていくだろうし、新たな天変地異があるかもしれない。

 未来は、わからない。




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