第5話

 青龍陛下の伴侶選びは蒼宮の正面広場にて、吉日執り行われることとなった。

 空に瑞鳥の尾と呼ばれる白い雲のたなびく佳き日。

 百花繚乱。国中の花が集まったかというほどに、広場に色が溢れていた。


「美洲稚様、大丈夫ですか?」


 風偉が気遣ってくれるが、先ほどから美洲稚の膝はガクガクと頼りなく、何度か転びかけている。


 朝から女官たちに綺麗に飾り付けてもらって、真っ白な装いだ。ただの一地方官吏の身としては普段より数段、いや数十段美しい絹の布目に、首を動かすのさえ緊張していた。

 そこへ、広場の様相を窓から目にして、一気に震えが来たのだ。


 広場の華々しい女人たちに比べて、自分のなんとつまらない地味なことか。だが、そんなこともどうでもいい。あの、色の洪水の中で、どうやって霊力の色を見よというのか。

 よろよろと、窓に縋った美洲稚は恐れ戦いていた。


 恋の精霊なんて言って、役立たず。


 そんな風に、ここ蒼宮の人々は言うはずがないとわかっているけれど。

 けれど美洲稚は、規律正しく静謐な蒼宮で働く精霊や人が、皆意外とからっと明るく楽しいことが大好きな人たちであることも、知っている。彼らが青龍陛下のことを、心から敬い、その幸せを祈っていることも。睡花の世の危機とは言え、青龍陛下の心を歪めることのないよう、その心に沿う相手を何とか見いだしたいと、皆が懸命に手立てを講じていたことも。


 だからこそ、美洲稚もきちんとお役目を果たしたかった。

 美洲稚だって、一地方官吏ながら蒼宮の下の一員であり、青龍陛下のことを大切に思っているのだ。


 色の奔流に目を戸惑わせながら、美洲稚はじっと広場を見渡した。


「今日は、予言を果たす吉兆の日として、予言をなさった霊亀様もご列席なさるそうです。なかなか人前にお姿を見せることのない方ですので、一目見ようと、候補の女人と関係のない者まで広場に入っているようですね」


 風偉が穏やかに解説をしてくれる。

 確かに、広場の混雑は、女人の装いが派手派手しいばかりが理由ではなさそうだ。親族一同を引き連れてきているのかと言いたくなりそうな、大人数の団体もいる。

 徐々に、美洲稚の心も落ち着きを取り戻した。

 ゆっくり、順に見ればよい。

 幸い、選別基準はそれなりに守られているようで、霊力が高い女人が多い。彼女たちの霊力はまるで炎のように天に向かってチラチラと舌を伸ばしている。

 多くは、無色か青。水に親和性の高い龍の眷属であれば、さもありなん。


「爺と呼ばれることもありますが、霊亀は先代がお隠れになり、今は陛下より年若い方が継いでおられます。私も一度遠目に拝見したのみですが、漆黒の髪の青年に見える方ですよ」


 風偉の声を耳に入れながら、美洲稚ははっと息を呑んだ。

 ――見つけた。

 艶やかな、花の王と称される牡丹のような真っ赤な霊力。その女人は、明らかに高貴な姫君だ。


「あの方だわ。あんな素敵な方が、陛下の」


 ずきり、と胸が痛んだ。楔を打ち込まれたような、鈍く重い痛みだった。

 これは、何だろう。

 ぽろりと頬に涙がこぼれて、美洲稚はようやく自分が深く傷ついていることに気がついた。

 これは、恋を失った痛み。

 自分は恋をしていたのだ、と。


 その時。

 焼けるような視線を感じて、美洲稚ははっと顔を向けた。

 何故かはわからないが、青龍が見ていると思ったのだ。考えるよりも早く、そちらを向いた。


 目が合った。

 黒い、射干玉の目だ。白目が少なく、黒目がちな、美しい目。

 同じく漆黒の、顎で切りそろえた髪を揺らして、その青年は微笑んだ。青龍よりもくしゃりとした笑みは、人懐こい少年のよう。そして青龍に劣らず、ぞっとするほどに整った顔立ちをしている。

 誰だろう。


「あれは。――美洲稚様、まさか霊亀の若とお知り合いか?」


 隣で風偉が何か言っているのに、答えるより前に。


 風が渦巻き、美洲稚を飾る幾重もの金鎖がしゃららと音を立て、白い髪と白い衣がぶわりと膨らんだ。


「見つけた。やっと会えたね、美洲稚」


 風の収まったそこには、幼げな、けれど底の知れない笑みを湛えた、黒髪の青年が立っていた。


「僕は涅璃珪くりかだよ。いずれ君に、名を呼んでもらう伴侶だ」


 線の細い、学者のごときおっとりした姿。

 だが、美洲稚の背には、どっと冷や汗が噴き出した。


 美洲稚を庇おうと一歩踏み出した風偉が、果たす前によろめいて膝をついた。


「霊亀様、いえ、若亀の君、これは、無体というものでは」


「僕が話しかけてるのに邪魔をしようとする君の方が無体でしょうに」


 そうだろうか。

 何をしたのかわからないが、歯を食いしばる風偉の額に浮かぶ汗は有り得ない量だ。だが美洲稚が何かを言おうとしても、ろくに口を動かせない。


 あたりには、新月の夜ほどの闇が立ちこめている。

 これはすべて若亀の霊力だと、美洲稚にはわかった。圧倒的な量、圧倒的な闇の色。あるいは、青龍の霊力すら凌ぐかもしれない。

 これが、精霊の賢者と言われる霊亀の霊力。


「うーん、でも、まだそそられないな」


 どうしてだろうな、と美洲稚を見て首をひねっている。

 風偉の顔色がみるみる青黒くなっていくのが、美洲稚は気が気ではなかった。

 けれど体も、口も動かない。

 いつもそうだ。恋の精霊なんて、と言われたときも。美洲稚は何も言い返せない。口も、恐ろしいときには体も強張って、思い通りに動かせない。

 けれどこのままでは、風偉が心配だ。

 だから。


 天慈宝様、助けてください。


 美洲稚は、自分の少ない霊力の一部を小さく千切って、どこにいるかわからない青龍へと飛ばしたのだ。

 旅をする間に、教わった術だった。いざという時に使えと言われ、けれど四六時中一緒にいたから使う機会などなかった。

 それを、今初めて使った。


 千切った霊力は、黒蝶の形を取った。

 こうして見れば、やはり美洲稚の霊力は黒なのだ。まるで、目の前の若亀の霊力のように。


 ひらひらと舞ってどこかへ逃れようとする黒蝶だったが。


「手がかかるんだなあ、やっぱりこのままだとダメだね」


 ぶつぶつと何かを呟く若亀が、何かしているのだろうか。ある程度のところから先へと進まず、まるで蜘蛛の巣にかかったかのように慌てて羽ばたいている。

 無力に暴れて、力尽き。

 窓際の空中に磔のようになった蝶の羽根が、深い深い緋色に透けて輝いた、と思ったのは、そこに目映い銀白の輝きが現れたからだ。


「涅璃珪、ようやく捕まえたぞ」

「なんだ天慈宝、ぶしつけに。……っ」


 若亀の足下にタタタタッと続けざまに煌めく銀色の何かが突き立った。円形に、若亀を取り囲むように。

 沸き立つ、術の気配。

 だがそれも一瞬のこと。特に効果を発する前に、術はふいとかき消えたようだ。


 憎々しげな顔をしていた若亀が、尊大に腕を組む。黒を基調とした豪華な衣装の袖が膨らんだ。


「何の真似だ。貴様の祝い事だと聞いて、わざわざ出てきた僕に対して取っていい態度か?」


「祝い事はまた別日。これは罠さ。貴様をおびき出すための。先代の霊亀の気配が濃厚な岩戸から出てこないものだから、なかなか貴様自身の霊力をはかる機会がなくてな」


「――ちっ、不愉快な奴だな、今のは霊力を写し取ったか」


 若亀の尊大さは変わらず、ただいささか粗暴な口調になった。

 いつの間にか隣に立った青龍に気づいて慌てて畏まろうとした美洲稚は、腰を抱かれて青龍にピタリとくっついた。

 その前面に、まだ肩で息をしているものの立ち上がった風偉が立ちはだかり、主を守る体制だ。


 いつの間にか広場から遠く切り離されたかのように、喧噪が聞こえなくなっていた。


「その通り。常々、疑問でな。桃色の霊力こそが元凶と言われる根拠に、納得いかずにいた。そもそも目に見える色のついた霊力など、我らは聞いたことがなかった。そこに、おそらく誰かのつけいる隙があった。これは異質なもの、我らの霊力とは相容れないもの、と思わせるための」


 誰か、とはなんのことだろう。

 だが確かに、先代の泉の精霊だって言っていた。強大な霊力は気配でわかる、と。美洲稚のように色のついた靄だったり炎だったりの形には、見えないのが普通らしい。


「だが美洲稚が霊力の色を見ることができると聞いて思ったのだ。では、あれは普通に誰かの霊力ではないのか、と。だが霊力を可視化して、しかも他者を弾く術を常時発動すれば、それだけで異質で不吉な天変地異の元凶が出来上がる。――そんな器用な芸当ができる者は、ごく限られている」


「それが、俺だと?」


 青龍が頷くと共に、その場に新たに三つの人影が現れた。青に、翠に、橙。三龍の、おそらく実体ではない影だけが、そこにいた。今この場の出来事を見定めるために、睡花の世の四君主が集まったのだ。


「ちっ、石頭の龍どもが」


 若亀が吐き捨てた。

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