第6話

「もう認めてるも同じ態度だが、一応説明させてもらおう。桃色の霊力には、そうと思ってみなければわからない程度だが、涅璃珪くりか、お前の霊力が混ざっていた。こちらは可視化されていないから、お前の霊力が何色かも俺にはわからんが、公正な証拠とするために霊力の波長を記録してある。複数の霊力関知の能力を持つ者にも、確認をさせた。

 桃色の霊力の持ち主は不明だが、それを各地で溢れさせ、あたかもそれが元凶のように見せかけるために、紛れて腐食の術を使ったのはお前だな、涅璃珪」


 若亀は返事をする気はないようだった。

 どこか遠くの音を聞くように、窓の外に気を逸らしている。

 その視線の先、空の遙か向こうに、黒雲の気配があるのを気にしているのだろうか。


 三龍たちから、静かな質問が重ねられた。


『涅璃珪よ、先代の偉大なる師、霊亀の爺様の捧げた要玉が、各地の土地の腐食によって弱っている。それを何と心得る。要玉こそ、睡花の世の基盤。その玉の寿命を弱めるような真似を、何故、よりによってそなたがするのだ?』


 優しい声だった。

 けれど、若亀は美しい顔を歪めて、翠色の龍の影へとペッと唾を吐きかけた。


「お優しく正しい龍の方々。そうとも、俺があの腐食を起こしたし、確かに先代の爺が遺した要玉が崩れたら、次に要玉を捧げるのはこの僕だよ。ご心配いただいて有り難いが、僕は正気だ。お前たちのその心配は、この世がより長持ちするようにという心配だろう? 今の要玉がほんの何十年長持ちしたとして、僕の辿る運命は何ら変わらない。それって、不公平じゃないか?」


『涅璃珪……』


「僕は、運命に抗うんだ。運命に抗いたい、恋をしたからね」


 そうすっきりとした顔で言い切った若亀は、何故か美洲稚を見たが。

 その眼差しは美洲稚を通り越して誰かを見ている。だれか。きっとこの場にいる誰も知らない誰かを。


 その時、ぐらり、と世界が傾いた。





 揺れ、ではない。傾きだ。

 平地は坂となり、坂は平地か崖となった。川は逆巻き、激流となり、溢れて零れた。

 動物も人も精霊も、立っていることができずに地にしがみ付き、それでもずるずると低い方へと滑り落ちた。鳥は斜めになった木に止まり、手のある者は建物や杭にしがみついた。


 ――睡花の世は盆である。

 盆が傾けば上に乗るものは、落ちていく。

 どこへ。

 奈落へだ。


 最初に、盆の端、世の果ての森の木々が、それを支えていた豊かな土ごと落ちていった。梢に避難していた鳥たちは一斉に飛び上がったが、次から次へと落ちてくる大木に打たれ、巻き込まれて落ちていく。それでも逃れた一部の鳥たちは必死に盆の上の大地へと追いすがったが、ついに届かず。

 高い鳴き声すら、奈落に飲まれてすぐに消えた。

 只の墜落ではない。

 まるで吸い込まれすり潰されるような、悲痛な声だった。





 蒼宮もまた、傾いた。

 広場の者たちが将棋倒しになる直前に、飛翔の術を使える者が周囲を助け壁を足場にして床に張りついた。咲き誇っていた花たちは、悲鳴を上げて雪崩れ、地に伏し、まるで嵐の後のようだ。


 傾きは大きく進んで、その後止まったようだ。

 だれもが、一度、息をついた。


 美洲稚は、青龍の腕の中、窓枠と床とに足をついていた。

 蒼宮は雲の上まで突き出た高山にある。

 今は足下にある蒼宮の窓からは、青い空と奈落の闇が真っ直ぐに虚空を二分する境界線が見えた。


 ぐぐ、と世界が軋む。また盆が傾く。

 これ以上傾いては、盆ごと落ちてしまうのではないかという角度。

 皆が斜めの世界にしがみついているそのとき。

 美洲稚は、奈落からの呼び声を聞いていた。

 声だけではない。体が重い。引っ張られている。


「何だっ」


 青龍の腕が美洲稚を深く抱き締めて引き留めた。


「天慈宝様、何か、霊力が……」


 美洲稚を重く引き摺るのは、何かの霊力だと気がついて意識を凝らせば、全身に絡みついていた霊力が、少しずつ、薄紙を剥ぐように色を見せていく。

 それは闇の色、奈落の色だ。

 遠く冷たく永遠の深淵から伸びてきた闇の縄が、美洲稚だけではなく、引き留める青龍にまで絡みついていた。


「この色、これは、これは霊亀様の……」


 つい先ほども、同じ色に包まれそうになったばかりだ。若亀の霊力はこれによく似た闇の色をしていた。だが。


「僕、何もしてないけれどね」


 飛翔の術で空に浮き、楽しげに小首を傾げた若亀からは、霊力が伸びている様子はない。

 ずる、と青龍の足が滑った。先ほどから銀白の霊力を研ぎ澄ませて、絡みついた闇色の縄を弾き飛ばそうとしている様子だが、歯が立っていない。

 力が及ばないのだ。

 東国の青龍、今の四龍で最強と言われる龍が。


「ははっ、桃色の霊力と同じだよ。何かごちゃごちゃ考えててみたいだけど、相性だとか色だとか、そんなものは問題じゃない。あの霊力に混ぜた僕の――というより長い間溜め続けた霊亀の霊力が、今の天慈宝より強い。それだけだ」


「では、この霊力は、先代の霊亀の……?」


「意思が残ってるかは怪しいけどねえ? 元はそう、先代の霊亀の霊力だ。今はすっかり、要玉と同化しているようだけれど。ほら、すごく怒ってるだろう? 僕が、要玉に例の桃色の霊力を打ち込んで均衡を崩したから、とても怒ってるんだ。それで、霊力の持ち主を道ずれにしようとしている。一緒に、要玉に封じられてしまえってね」


 美洲稚は、聞こえたはずの言葉が、一瞬真っ白に消えてしまった気がした。

 桃色の霊力の、持ち主? 誰のことだろう。


『霊亀の爺様が要玉に封じられていると、どうして思ったのだ』


 傾きの騒動に一度は消えていた三龍の影が、再び現れた。ゆらゆらと、陽炎のように揺らめきながらも、悲しげな声を届ける。


「思ったも何も、それしか答えはないだろう。霊亀の寿命は神ほどに長い。なのに先代はどこへ消えた。何千年も昔は、今よりもっと世界は傾いていたし、揺らいでいたというじゃないか。それが、ある時ぴたりと揺れが収まった。それ以来、爺は不在で、若亀と呼ばれる僕は聖域に閉じ込められている。誰もがわかる。爺が要石の核となって安定させた。僕はその予備か、次代の核としてだけ生きている、生け贄だ。違わないだろう、何も?」


 只ひたすらに、夢を見るんだ。一人きりの白い空間で、目を開けたまま。死ぬためにだけ生きている僕が、誰かと共に生き幸せになる夢を見続けるんだ。

 もう、飽きたよ。

 僕だって、運命を変えたい。

 夢で見た、美しい花の色を手に入れたいんだよ。

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