第7話


 ぐ、ぐ、と睡花の世が傾く。

 土壌がなだれ落ち、軽くなるたびに小さな揺れ戻しがきて、そしてまた、だれかが盆の上を覗きたくて引っ張るかのように、大きく傾ぐ。


「ぬ、う」


 ついに足場にしていた壁にひびが入り、青龍はうなり声を上げて飛翔の術をかけ、自分と美洲稚の周りに護りの術を重ねがけした。


「無駄だよ、天慈宝。敵は要石。この睡花の世を一人きりで支える、礎だ。世界そのものと言っていい。天慈宝、君がいかに強い龍であっても、世界相手には、勝てないよ」


 美洲稚は、青龍の腕の中で震えていた。

 震えて、青龍の絹の服地がくちゃくちゃになるほどにしがみ付いていた。

 青龍の腕は自分と一体になれと言わんばかりにぎゅうぎゅうと美洲稚を抱き締めている。

 けれど。

 このままでは。

 美洲稚の手から、力が抜けた。


 だって、きっと美洲稚はこの人を好きになったのだ。なぜか心は弾むことなく、失った痛みだけでそうと気づく、歪な思いだけれど。

 大切な人だと思う。

 だから。


「天慈宝様、もう、もう無理です」


 青龍の腕が食い込む。

 青龍ごと引き込む闇の縄とは別に、やはりどうしても、要玉は美洲稚を取り込みたいらしい。美洲稚にかかる重力は、きっと青龍にかかるそれの何倍もある。

 それを食い止めようと抱き締められて、いっそ青龍の腕で体が裂かれるかもと思うほどに、ぎちぎちと背が軋んだ。


「私、私の霊力も、本当は黒いんです。桃色じゃない。桃色じゃないのに! 霊力が少ないからか、まるで夜の蜜のように黒くて、だから、もしかして、要玉に同じだと思われたのかも……」


「ぐ、黙ってろ」


 青龍が、無理矢理に体を入れ替え、奈落に背を向けるようにして美洲稚を抱え込んだ。

 その拍子に足場になっていた壁は脆くも崩れ、広場の向こうに立っていた塔の壁に、背から激突した。

 がらがらと崩れる塔の破片が、音もなく奈落へと落ちていく。


「ぐ、涅璃珪ぁ!!!」

「なんだい青龍」


 楽しげな涅璃珪は、ふゆふゆと青龍の真上に飛んで来た。

 はっと気がついた周囲の者が青龍を支えようと慌ただしく動き始めるのを横目で見て、黒髪を揺らし肩をすくめて嘲った。


「この傾きが戻らない限り、睡花の世に安寧はないのに。今足掻いてもどうしようもないのがわからないなんてね」


「お前の狙いは、要玉の贄を美洲稚に押しつけることか。なぜ美洲稚なんだ」


「まさか! 僕は美洲稚を手に入れたいのに、そんなはずはないだろう? ああ、でも、今のその小娘じゃない。未来の美洲稚が欲しかった」


「未来の美洲稚……?」


「そうだ。もっと成熟して強大な霊力を身に帯びた、美しい人だった」


 涅璃珪の目が、美洲稚に向いた。けれどやはり、黒い目は美洲稚を通してどこかを見ている。


「私の霊力は黒で……。桃色じゃない」


「そうなんだね。でも説明できちゃうな。だって、青龍は銀白なんでしょ? 面白くないことにさ、未来の美洲稚の霊力は、恋をして変わったらしいよ。天慈宝の妃となって爆発的に霊力量が増えたことは誰もが知る事実だった。未来ではね。きっと、君の濃すぎて黒く見える深緋の霊力は、霊力量が増えたことで薄まり、さらに天慈宝の銀白を帯びてあの色になったんじゃないかな。その未来の僕は、色までは知らなかったけれど。それはもう咲き誇る仙桃の花のように、華やかで甘い霊力を振りまいていたよ」


 だからね。


「たくさん溜まっていた霊亀の霊力を使って、未来の美洲稚から霊力を奪って来たんだ。そして、現世の要玉に打ち込んだ。霊亀の霊力を混ぜたせいか、元々時間軸のずれた霊力だったせいか、面白いほど要玉を蝕んだよ。要玉が苦しんで吐き出そうとするから、美洲稚の霊力は盆を通り抜け表層まで噴き出した。実は僕は可視化なんて何もしてない。未来の美洲稚の霊力は、僕の手の中でなぜか桃色に見えるようになった。この世にとっては、異質な霊力だからかもしれない。……よい演出だったけれど、僕の狙いはそれじゃない」


「要玉の崩壊が狙いではないと?」


「それは、副次的な目的だね。僕はただ、この世の美洲稚に未来の美洲稚の霊力を近づけたら、自然と霊力が開花するんじゃないかと期待したんだ。どこに美洲稚がいるのかわからなかったから、世界そのものに霊力を撒き散らしたかった。――期待外れだったけれどね。


 仕方ないから、予言をした。青龍の近くにいれば、開花の可能性が高まるかもしれないと思って。渋々だ。でも、また妃にされたら困るから、蒼宮に入る前に美洲稚の心を縛らせてもらった。これほど手を尽くしたのに、まだ変わらないなんて、ほんと誤算だよ」


「期待外れに誤算続き。何も得られないのに、楽しそうだな。世界を、皆を道連れにしそうだというのに」


 青龍の周りに、翠や青の色を帯びた術が煌めき、わずかに奈落からの力が弱くなった。

 だがそれを、若亀が手を一振りして消してしまう。

 背後から飛びかかってきた若い兵士を、軽く避けて手刀ではたくだけで、兵士は半分に折れたように崩れ落ち奈落へ滑り落ちた。

 その隙に橙の霊力が若亀の足を撃ち抜いたが、これも手の一振りで傷が癒えてしまった。


「まあね。これから起こることが、本当に楽しみなんだ」


 そうだ。期待外れだ誤算だといいながら、ずっと若亀は笑みを浮かべている。

 嫌な笑みだ。

 この話を聞いてはいけないと美洲稚は思った。思ったけれど、何もできなかった。


「あのね天慈宝、実はお前だけが美洲稚を救えるのさ。なぜならあの桃色の霊力は、忌々しいことにお前こそが美洲稚に与え、引き出したものなんだから。あの桃色の中には、お前の霊力も入ってるってわけだ。――要玉が欲しているのは、道連れ一人。どうする?」


 美洲稚と青龍の視線が、交わった。

 その一瞬で、互いに何を考えているかが稲妻のように伝わる。

 今にも自分の体を突き抜けて奈落へ落ちていこうとする、鉛のように重い美洲稚を、青龍は深く抱き締めて、そっと触れるように口づけた。


「天慈宝、だめ」

「俺の、恋心をお前にやる。だから、お前は生きろ」

天慈宝あじら様」


 若亀が、煩わしい背後からの術をすべて振り払い、二人がぎしぎしとめり込む塔の壁を、蹴り抜いた。

 崩れ落ちる塔の影で、青龍は美洲稚を渾身の力で突き放した。

 全身に闇の霊力を絡みつかせていた美洲稚を、背後から掬い取るように若亀が羽交い締めにする。その途端、ぶちぶちと腐り落ちるように闇の縄は崩れ落ちた。


 奈落へ落ちていく青龍へと、力なく、美洲稚は手を伸ばす。

 なんと、なんと無力な己の手なのだろう。


「まだだ。縛りを解いてやるから、あの霊力を見せろ」


 耳元で囁かれて。

 いつか聞いた、割れ鐘が鳴るような不快な音が頭の中で鳴り響いた。

 ガチリ、と何かの鍵が外れたような気がする。いつの間にかかけられていた箍が外れて。


 押さえ込まれていた青龍への恋心が、愛おしさが、爆発するように噴き出した。


 美洲稚を見つめる、濃青の目の優しさ。

 寒がる美洲稚を毛布でぐるぐる包んで笑う目尻。

 消えてしまった村の方角を見つめる苦しげな表情。

 旅先の雑魚寝で虫の音に合わせて歌う小さな声。

 玉座に相応しい、端麗で偉大な己に厳しい王としての姿。


 恋心だけ置いて行ってしまわないで。

 あなたが、わたしの恋。


 奈落に、美洲稚の嘆きが響いた。

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