第3話

 青龍陛下が、一人の女性を片時も離さず側に置いている。


 そんな噂が蒼宮から東国、果ては世界中に広まるのに、恐ろしいことにひと月もかからなかったという。

 蒼宮の精霊たちが皆、大丈夫かと思うほどの恋愛好きだったためでもあり、わざわざ青龍が他の三龍に恋人ができた宣言を手紙で送りつけたせいでもあり、また、青龍が美洲稚を連れて睡花の世のあちこちを文字通り飛び回ったせいだろう。


「ひ、ひいいいぃぃぃ!」

「美洲稚! 頭下げろ!」


 ガクガクと震えながら首をすくめた美洲稚の髪を数本道連れに、美洲稚の背後にいた爛れた豚のなりをした魔物は首を切り飛ばされた。

 ばしゃばしゃと魔物の体液を浴びて、気が遠くなりながらも必死にその場から逃れると、その踵を削ぐかという際どいところで青龍の破邪の術が広範囲を焼いた。


 この世の危機の真実を知りたいと、青龍は言って。

 おかげで美洲稚は、阿鼻叫喚、睡花の世の真下に広がるという奈落という名の地獄もここまで怖くはないのではないだろうか、そんな旅に連れ回されている。

 



 始まりは、見慣れない華やかで甘い色の霊力に惹かれて眠り込んでしまう青年が後を絶たない、そんな事件ばかりだった。だが、短い期間に状況は大きく変わっていたらしい。

 その桃色の霊力は、雲間から射す陽光のように、突如として大地から立ち上るそうだ。一般に霊力を目で見ることのできる者は少ないが、桃色の霊力だけは、誰でも見ることができるという。


 初めは、周囲の動植物が元気になる。時に大きな動物も、側で眠り込み、その後溌剌として去って行くこともあるという。

 その後、動植物は徐々に黒ずんで腐り落ちていく。その頃には桃色の霊力が触れる土も腐り、まるで吸い込まれるように大地に落ち込んでいく。そうした土地は綺麗な円形に土地がくぼむことが多く、腐食円と呼ばれているそうだ。

 腐食円は東国だけでも数カ所に生じており、徐々に大きくなっているという。


 この目で見たいと言い出した青龍に連れられて最も大きいとされる腐食円を見に来てみれば、近隣の村には既に住民の姿なく、すでに腐食円に呑み込まれた村もあるという。

 腐食円の底はすり鉢状に深く、重たい霧状の桃色の霊力が底に溜まっていた。


 青龍は美洲稚をひょいと気軽に脇に抱え、すり鉢の中へと踏み入った。

 そして、聞いていたとおりに弾き飛ばされた。

 誤算は、体が軽いせいか文字通り宙を舞った美洲稚を青龍が掴み損ねたことだろう。途中の木の枝に引っかかったので軽い怪我で済んだが、青龍や、鎧の男――名を風偉というと知った――や他の随行者たちにもずいぶんと驚かれた。

 仕方ないだろう、霊力の量も強さも段違いなのだ。泉から離れて久しいし。


 だがそれ以来、青龍はいつも美洲稚を隣に置いて気を配るようになった。守ろうと思ってくれたのかもしれないが、青龍が立つ場所、それすなわち前線である。腐食円の周囲には、森や洞窟の奥深くにしか存在しない魔物が溢れかえっているからだ。

 美洲稚はかえって頻繁に精命の危機にさらされるようになった気がする。




 靴の踵部分が削いだように失われているのをみて絶句していると、腰を掴まれて引き起こされた。そしてふわりと美洲稚みずちを包む、慣れてしまった香り。


天慈宝あじら様、汚れてしまいます」


 呼べと命じられて許されず、恐る恐る呼び始めた青龍の尊名にも、慣れてきてしまっている。


「よい。あとで浄化する。おい風偉、このあたりに熱泉があったろう? 浸かりに行く。後から来い」

「は」

「は?」


 美洲稚は混乱していた。泉に浸かる、すなわち産まれたままの姿になると言うことだ。男女が一緒に浸かるのは、男女が深い関係にある時のみ。

 恋人として遇すると言いつつ、そんな接触は一切なく来ていたのに。どういうことか。

 混乱している内に青龍の術で飛翔して目当ての熱泉についてしまうと、いつの間にか青龍は素裸になっていた。


「きゃああ」


 こんな時に狙ったような可愛らしい悲鳴を上げてしまったが、美洲稚としては脱兎のごとく逃げ出したい。目が潰れる。ただの木っ端精霊が、ここにいていいはずがない。


「お前も浸かれ。浄化はしてやったが、このごろ霊力も淀んでいるだろう。土地付きの精霊を連れ回してる方が悪いんだ、気にせず、少し休め」


「そこを気にしているわけじゃないですぅ」


「ははっ、じゃあなんだ。俺の裸に恥じらってるのか? 今更? よく背に乗せているだろうに」


 小馬鹿にしたように言われるのは、龍体化した青龍の背に乗って運ばれていることだろう。あんな、高所と速度の恐怖に半ば意識を飛ばしている状態を揶揄われるとは!


「あんなの、馬に乗ってるようなものでしょう! 男女の形で向き合うなんて恋人でもないのに破廉恥です!」


「馬! まさかお前、俺を馬呼ばわりしたのか!?」


 あ、と思う間に捕まって、身ぐるみを剥がれた。なんという手際の良さ。

 衣を失ったところが、青龍の肌に触れて、そのわずかに表出する細かい鱗と触れ合う感触に全身がかっと熱くなった。


 どこに触れられても熱くて、切なくて、どうしていいかわからなくて丸くなった美洲稚を、青龍は意外にも丁寧に抱えて、泉にどぼんともろとも飛び込んだ。


 二人の本性は龍。水にゆかりの精霊だ。

 人も動物も大抵の精霊も耐えられないだろう、赤い岩盤に囲まれた深い熱泉に、すぐに馴染んで揺蕩った。


「ほら、お前の泉と繋げてやった」


 そっと解放されて、美洲稚は懐かしい気配に引き寄せられるように底へと進んだ。岩盤に深く入った亀裂から、故郷の泉の水が流れてきている。

 美洲稚は、ぺたりと岩盤に張り付くように寝そべった。










 赤い岩盤に横たわる白い裸体は、天慈宝あじらの目に眩しく焼き付いた。

 美洲稚は亀裂から流れ込んでいるだろう、古巣の泉を捧げ持つように両腕をのばしている。

 浮かんだ肩の骨が優美な影をつくり、白い背がしなる。くつろいだ猫のような姿勢になった美洲稚の意識から、きっと天慈宝は消えている。


 面白くはない。

 だが、出会ったときから天慈宝の美貌を恐れるでも恋い焦がれるでもなく、小さな泉を任される程度の精霊の身で、青龍に同情までしていた美洲稚の肝の据わり具合は並ではない。

 身の程知らずの仔犬が吠えるのは目障りだが、表面上は大人しくそっと視線を隠しつつ、ちゃっかりこちらを観察してくるのには不快感は不思議となかった。

 これほど受け入れやすい存在と出会ったのは初めてで、愉快ですらある。


 謁見の間においては、玉座に座る者から心を隠すことはできない。そういう術が仕掛けられている。

 美洲稚が密かに思案していた、霊力の色による相性というものが本当であれば、それこそ、美洲稚と天慈宝はどうなのだろうかと、あれからつい考えてしまう。


 やがて美洲稚が身に纏う水が白金の輝きを帯び、美洲稚のまわりを慰撫するように巡ってから亀裂へ吸い込まれ始めた。

 溢れた一部の白金の帯は裾をたなびかせて熱泉の高温の渦に巻かれて舞い上がり、また泉全体に広がって、赤い岩石に金鉱石のごとく煌めきを埋め込んだ。


 天慈宝の目に、その色は見えない。けれど、何が起こっているかは、感じ取ることができた。

 なるほど、これが泉の精霊。

 つねに湛える水を清水とする業は、龍である天慈宝も成すことはできるが、これほど美しく優しく自然にはできない。良くも悪くも龍は強大だ。浄化のついでに、水に生きるものまで灼いてしまうかもしれない。


 美洲稚から、小さな泡がぷくぷくと上がっていく。

 つられてゆらゆらと水膜のように広がる透白の髪と、小さく華奢な踵を確認して、天慈宝はらしくもない安堵の息をついた。

 傷つけなくて、よかった。


 目を離せずに腕を組んでそのまま見ていれば、うっすらと開いた目がこちらを向いた。

 いつもなら、さっと顔を背けて頬に朱を散らせるだろう美洲稚も、今はぼんやりとしている。

 魂が縁づいた恋の泉を浄化することで、自分自身にも霊力が満ちてきているのだ。さぞ快いのだろう。

 常に霊力に満ちている天慈宝には、わからない感覚だ。


 だが、花弁のように瞳孔の周囲にだけ血のような赤みを帯びた薄色の目を見ていると、天慈宝もまた、満ちゆく快さを味わうかのようだった。


 まるで、その紅のような赤がそのまま一滴、己の心にも垂らされたかのように。

 ひとしずくなど、神とも並ぶ強大な銀白の霊力をいささかも染めることなど、ないけれど。



 恋など、世界を救うはずがない。

 天慈宝のその考えに変わりはない。

 だが美洲稚を連れて飛び回る、その行く先々で予想を超えた惨状を目の当たりにすれば、仮にも為政者としては手をこまねいている訳にはいかない。

 霊亀の予言に振り回されるのは癪だ。それを口実にして世話を焼こうとする蒼宮の者たちににもうんざりしていた。だから、美洲稚を側に置いたが。

 蒼宮に一度戻り、霊力の色を見る恋の精霊として、別な使命を与えねばならないだろう。

 

 それが終われば泉に帰ってよいと言えば、さぞ安堵するはずだ。

 戦闘にも魔物にも脅かされず、穏やかに過ごせるように、特別に泉近辺の保護を強くしようと思う。

 恋の泉とやらを見たことはないが、きっと美洲稚の霊力を帯びた清涼なよき水に満ちたよいところだろう。

 その深い泉の底で、美洲稚がうっとりとのんびりと、過ごしてくれれば、それでいい。その光景を守るためならば、何でもできる気がする。


 天慈宝はいまだ赤い岩盤に咲く蓮の花のような美洲稚を見つめて。

 まるで恋に蓋をするように、目を閉じた。

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