第17章 マントヴァへ

翌朝、イザベラはロアール川の岸辺でキアーラに言った。

「お姉様、マントヴァは滅亡を免れました。

お姉様の御蔭でございます。」

キアーラは首を振った。

「お礼を言わなくてはならないのは私です。貴女の御蔭で、私は祖国を失わずに済みました。 そして」

キアーラはイザベラの目を見た。

「私は、これでやっと力強く生きることが出来そうなの。」


遂に一行は船に乗った。

キアーラは岸辺にたたずんでいつまでも見送り続けた。

イザベラは、こみ上げる涙でその姿が見えなかった。


一行は、もう修道士や修道女の姿ではなかった。この服は、キアーラからのたっての贈り物なのだ。

あたりは燃え立つ様な緑だった。

「生きていたのだわ。」

イザベラは、涙がにじんできて、どうすることも出来なかった。死を覚悟してシャルルの前に進み出た時にも出なかった涙が。

全ての木々が、全ての花が、イザベラの目にしみた。


やがて一行は、リヨンに到った。

リヨンはソーヌ川とローヌ川の合流する交通の要衝で、ソーヌ側右岸の丘の上にはローマン・ビザンチン様式の白い教会ノートルダム・ド・フルビエール寺院がそびえ、そして丘の中腹にはローマ時代の劇場の遺跡が、丘の下には12世紀に建てられたサン・ジャン寺院が、この町の1500年の歴史を象徴するかの様に、樹木の間に静かなたたずまいを見せていた。

数週間前ここを通った時は命がけで、こんな美しい明るい町だとは少しも気がつかなかった。

もう二度と見ないかも知れないフランスの町リヨン。

イザベラは、感謝と感激に満ちた目で、ローヌ川の川船の上からいつまでも岸を見つめ続けた。


船はフランスを離れ、ローヌ川をアルプスへと遡った。

レマン湖の鏡の様な水面を見ながらイザベラは、数週間前、夜の湖面に落とした涙を思い出した。

モンブラン、マッターホルン、ブライトホルン、リスカム、そしてモンテローザ、ユングフラウ、この山々を生きて再び見る日があると思ったであろうか。イザベラは、朝日に金色に輝く峰々を仰ぎ、言い知れぬ感に打たれた。


一行は遂に上陸し、サンプロン峠に差しかかった。公道を大手を振って通ることが出来るのだ。

通行証書を見せると役人たちは敬礼し丁重に通してくれた。それを見てイザベラは、感動とシャルルへの感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

谷間には牛や山羊たちの鈴の音がこだましていた。

イザベラは、あのおばあさんや、ものものしいいでたちで山道を送ってくれた21人の若者たちは、今頃どうしているだろうと思った。もう一度会って、一人一人にお礼を言いたかったが、今は一刻も早くマントヴァへ帰らねばならなかった。イザベラは谷間を見ながら心の中で何度も「有難う」と言った。


馬で山道を下りながら、一行はいつかあのお花畑に来ていた。光輝く絨毯を敷きつめた様な可憐な花々。あたり一面がまばゆい光に包まれ、イザベラは夢を見ている様な気がした。

イザベラは、これをエレオノーラに見せたらどんなに喜ぶだろうと思った。

イザベラは馬から降りて、エレオノーラのために花を摘もうとした。

しかし、膝まづいて花々を見ているうちに、やめた。シャルルに言った言葉を思い出したのだ。

本当に、どんな小さな花も精緻で美しい造りをしているのにイザベラは驚いた。

イザベラはそこに神様の愛情の様なものを感じ、心を打たれた。


一行は馬の背に揺られて山を下り続けた。

「お妃様、私はこれから大急ぎでマントヴァへ向かい、一刻も早く殿様にお報せに行きたいのですが、お妃様たちは後からゆっくりお越し下さい。」

アントニオが言った。

「まあ、有難うございます。 でも、通行証書が」

「そんなの無くても平気です。行かせて下さい。」

「いいえ、やっぱり通行証書が無いと危ないです。もう少しお待ち下さい。」

アントニオは一刻も早くフランチェスコに報せたくてうずうずしている様だった。


針葉樹の林に入ると、木々の影が心地よく空気が清々しかった。時折り、鳥の声や枝を渡る羽音がこだました。

長く続いた林を出ると、遂にマジョーレ湖が見えてきた。

一行は馬を速めた。


「おば様」

イザベラは、馬を預けたあの農家に駈け込んだ。婦人は中から飛び出して来たが、イザベラの姿を見ると仰天した。

「あ、あの、どちらのお姫様でいらっしゃいますか?」

婦人は、やっとそう言った。

「おば様、私です。」

イザベラは歩み寄った。

「ほら、この間お世話になりました・・・」

「は?」

「馬をお預かりいただきました・・・」

「まあ」

婦人は絶句した。

イザベラは微笑んだ、今までのことを話した。 婦人は涙に暮れた。

「おば様、これはフランスまで持って行きました指輪です。国王陛下にお会いする時のために持って行ったのです。ブロワのお城で、はめて居りました。」

イザベラは指輪をはずした。

「これを差し上げます。」

婦人は声も出なかった。

「生きて還れるなんて思わなかったのです。この指輪は使命を全うしてくれました。」

「それでも」

「おば様、私はもう一つ指輪を持って参りました。」

イザベラは懐から、お守りにしていたあの母の指輪を取り出した。

「母の形見です。」

イザベラはそう言って、今はずした指に母の指輪をはめた。

婦人は涙ぐんで、掌に乗せられたイザベラの指輪をいつまでも見つめていた。


「おば様、私はよくおば様のことを思い出しました。」

婦人はお茶を注ぐ手を止めて、こちらを見た。

「夜はお寂しくございませんか?」

婦人は、目をうるませながら微笑んだ。

「それが、お妃様、息子が兵隊を辞めて帰って来てくれることになったのです。この秋に。」

「まあ」

イザベラは、我が事の様に喜んだ。


婦人は、預けていた馬たちを連れて来た。

「今度こそ、本当にお別れなんですね。」

婦人は目に涙をいっぱいためた。

「おば様のことは一生忘れません。

戦争が終わったら、またお会いしましょう。」

婦人の手を握りしめながら、イザベラは熱い涙がこみ上げた。


次の日の夕方、一行はミラノに着いた。

暮れなずむ空に、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の屋根が見えてきた時、

一気に様々な思いが押し寄せ、イザベラは溢れる涙を抑えることが出来なかった。


「すみません。ただ今、帰って参りました。」

暗い教会の中に向かって呼びかけると、燭台を持った尼僧が出てきた。

「まあ、お妃様」

尼僧は叫んだ。

「マントヴァのお妃様がお帰りです。」

尼僧は暗い奥に向かってありったけの声を出した。

それを聞きつけ、あっという間に教会中から修道士や修道女たちが駈け出してきた。

「よく御無事で」

何十人という尼僧や修道士はイザベラたちを取り囲んで泣き出した。

イザベラも涙が止まらなかった。

「馬をお返しに参りました。」

涙を拭きながらイザベラは言った。

「えっ」

皆は驚いた。

「それではフランスまであの馬で」

「いいえ、途中でお預かりいただきました。」

「そんな、わざわざ返しに来て下さるなんて」

「律義すぎますよ。」

修道士も尼僧も驚きの表情でざわめいた。

「ただ」

イザベラはうつむいて笑った。

「お借りしました衣は、モンパンシエ公爵夫人がどうしても欲しいと申しまして・・・これからの人生、心が折れそうになっても、この衣を見たら勇気が湧いてくる、って。

だから、ごめんなさい、お返し出来なくなってしまいました。」

皆は、明るく笑った。

一行が置いて行った物は、全て保管されていた。

「でも、これは皆様に差し上げるとお約束致しましたので。」

「そんなことは知りません。」

「そうです。あれは生きてお帰りになれなかった場合のお話です。」

修道士も尼僧も、持って帰る様、強硬に勧めてくれたので、イザベラは馬と馬車だけ返してもらうことにした。

彼らは、泊まっていくか、せめて食事くらいして行く様、勧めてくれたが、一刻も早くマントヴァに帰らねばならないので、イザベラは辞退した。


ミラノの町の中を行くと、フランス兵に呼びとめられた。通行証書を見せると彼は最敬礼し、そして言った。

「最近、治安が乱れて居りますので、どうかくれぐれも御用心を。」

「まあ」

「特に夜は物騒です。もし天幕をお使いになるのでしたら、この町の近くでは危険です。」

「どうも御親切に」

兵士は敬礼して行ってしまった。

あたりは既に夜のとばりが降りていた。

乱闘でも起こっているのか、あちこちで叫び声が聞こえた。

イザベラはぴたりと馬車の窓を閉めた。

馬車の速度が速まった。 誰も一言も喋らなかった。

と、突然、わあっという怒声が津波の様に押し寄せて来た。

次の瞬間、一気に馬車が傾いて、イザベラは座席から投げ出されそうになった。

無頼漢たちが襲いかかって来たのだ。

「急げ」

アントニオが叫んだ。 御者は必死で鞭を当てた。

「急ぐんだ」

叫びながらアントニオは、馬車に手を掛けた無頼漢目がけて突進した。

恐ろしい鞭のうなりが響いた。

「ああっ」

馬車に手を掛けた男が倒れた。

男たちは怒声を挙げて襲いかかって来たが、アントニオは寄せつけず、馬上で身を躍らせながら、馬車に掛けた無頼漢たちの手を片っ端から鞭で打ちのめして回った。

「急げ」

「行け」

従者たちも一世に鞭を震わせ、踊りかかった。鞭は風を切ってうなり、そのたびに無頼漢たちは叫びを挙げた。

突然、御者が絶叫した。

見ると、馬が仁王立ちになっているではないか。馬は恐ろしいいななきを挙げた。 無頼漢がけしかけたのだ。

「行くんだ」

「行け」

馬は跳ね上がり、馬車は大きく左右に揺れた。

無頼漢たちは一斉に怒声を挙げて襲いかかって来た。

馬車は今にも横転しかけた。

アントニオは突進するや無頼漢を打ちのめし、馬車の馬に乗り移った。

そして、恐ろしい勢いで鞭を当てると、馬車は並み居る無頼漢を弾き飛ばし、全速力で駈け抜けた。


やっとミラノの町を突き抜け、野原まで来ると、夜遅く一行は野に幾つも天幕を張った。

夜が明けると、一行はすぐにまた出発した。


「お妃様、お願いがございます。」

アントニオが馬上から話しかけた。イザベラは、馬車の窓から見上げた。

「もう、行かせて下さい。 殿様に一刻も早くお報せしたいのです。」

「でも、通行証書が」

「私は無くても平気です。」

「いいえ、国境付近にはフランス兵が駐屯しています。」

「御心配なく。 では」

言うが早いか、アントニオは馬に一鞭当てた。

「お待ちになって」

行きかけてアントニオはきびすを返した。

「これを持って行って下さい。」

「あっ、これは」

イザベラが差し出した通行証書を見て、アントニオは驚きの声を挙げた。

「これが無かったら、お妃様はお困りになります。」

「いいのです。私たちは大勢で参りますが、貴方は一人でいらっしゃるのですから。」

イザベラはアントニオの手に通行証書を握らせた。

アントニオは、感極まった表情で暫くそれを見つめていたが、深く一礼すると、しののめの光のさし始めた東をさして、夜明けの野を矢の如く馬を駆って去って行った。


マントヴァへの道をイザベラはまばたきもせず、馬車の窓から見つめ続けた。

刻一刻、着実にマントヴァに近づいているのだ思うと、イザベラの胸は高鳴った。


その夜、イザベラは天幕の中で眠れなかった。

明け方、まだ暗いうちにイザベラは、自分の喜びの声で目を覚ました。

今日こそ、今日こそマントヴァに着くのだ。

早朝、一行は出発した。

「ああ、マントヴァの風のにおいだわ。」

イザベラは涙を流した。


馬車は国境に差しかかった。通行証書が無いので、ここは最後の難関である。

イザベラは窓を閉めた。

馬車は、刻一刻、国境に近づいた。

その時、わあっという叫び声の様なものが微かに聞こえた。

そして、それはだんだん迫って来た。

「何が起こりましたのでしょう。」

「せっかくここまで帰り着きましたのに」

侍女たちは向かいの座席で震えていた。

イザベラは、身を固くした。

と、突然、馬車が止まった。

イザベラは、心臓が乱れるのを感じた。

不意に馬車の窓が外から開けられた。侍女たちは蒼白になった。

イザベラは心を決め、馬車から降り立った。

その瞬間,地を揺るがす様な歓声が湧き起った。

イザベラは気が遠くなった。

なんとそれは、無数の歓迎の人々だったのである。

イザベラは、立っているのがやっとだった。

その時、イザベラは、はっとした。

エレオノーラがこちらに向かって走って来るのだ。

イザベラは我を忘れて駈け出し、エレオノーラを抱き上げた。

その瞬間、涙が堰を切った様に溢れ、イザベラは息が止まりそうになった。

イザベラは、エレオノーラの小さな胸がつぶれるほど抱きしめたが、自分でも腕の力を緩めることが出来なかった。エレオノーラの柔らかい髪が口に入っても、イザベラは顔を摺り寄せて泣き続けた。

その横でフランチェスコは、いまにも涙がこぼれそうな表情で仁王立ちになっていた。

人々は、一斉に万歳を叫んだ。

人々は、声を限りに万歳を叫んだ。

その声は、マントヴァの山野に広まり、何時までも何時までもこだまし続けた。

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