第16章 フランスへ
1500年2月イタリア全土は息を飲んだ。
あのロドヴィコ・スフォルツァが大軍を率いてアルプスを越え、ミラノへなだれ込んできたのだ。
ロドヴィコは亡命先のスイスのインスブルックで500騎のドイツ騎兵と8000のスイス人傭兵を集め、フランス軍が圧政と略奪を欲しいままにするミラノへ攻め込んだ。
ミラノの市民は狂喜し、熱狂して彼を迎えた。そして、フランス配下のスイス人傭兵たちまでが次々に彼のもとへ走った。
昨秋ロドヴィコを裏切りフランス軍の手先となってミラノを陥落せしめたスフォルツァ家傭兵隊長トリブルツォは敗走した。
スフォルツァ城を奪還するやロドヴィコは、真っ先にイザベラに手紙を書いた。
イザベラは身を震わせて事の成り行きを見守っていた。
イザベラはロドヴィコからの手紙を受け取るや、すぐに返事を書いた。
「私は、自らミラノへ馳せ参じて閣下と共にフランス軍と戦いとうございます。」
ロドヴィコからは引き続き援軍の要請の手紙が届いた。
フランチェスコは腕を組み目を閉じた。
イザベラはくい入る様にフランチェスコの顔を見つめ続けた。
不意にフランチェスコは目を開けた。
「ジョヴァンニを送ろう。」
すぐにフランチェスコの末弟ジョヴァンニはミラノへ向けて出陣した。
イザベラは、ロドヴィコのため、そしてジョヴァンニのため、朝な夕な祈り続けた。
4月、フランス軍が1万の大軍を率いてアルプスを越えミラノへ侵入したという報せがマントヴァに届いた。
「ジョヴァンニ様が、ジョヴァンニ様が、今お独りで」
フランチェスコもイザベラも表玄関へ走った。
「兄上、無念でございます。」
泥と血にまみれたジョヴァンニは、馬から降りるやうずくまった。
「スイスの傭兵どもが裏切ったのです。奴らはフランス軍が法外な報酬を出すと言った途端に寝返って」
ジョヴァンニは荒々しく拳で涙を拭った。
「ミラノ公は、傭兵に身をやつして落ちのびようとなさいましたが見破られ、捕えられました。」
フランス軍再占領下のミラノでは、スフォルツァ派の人々に恐ろしい運命が待っていた。
一昨年ロドヴィコをマントヴァに迎えるに当たってイザベラが様々な問い合わせをしたスフォルツァ家の廷臣ヴィスコンティはフランス軍に拉致された。
フェラーラ出身の優れた建築家で20年間スフォルツァ家に仕え、レオナルドの友人であったジャコモ・アンドレア・ダ・フェラーラは、ロドヴィコの復帰後ミラノに帰国していたが、スフォルツァ派として処刑された。
そして、フランス軍はマントヴァを包囲にかかった。
マントヴァとミラノの国境には、日に日にフランス兵の数が増え、部隊が増え、陣を形成していった。
「ただでも狙っている奴らに、よい口実を与えてしまった。」
或る晩、フランチェスコは嘆息を漏らした。
「殿、大丈夫です。困った人を助けて、絶対に神様はお見捨てになりません。」
フランチェスコはイザベラの顔を見上げ、力無く笑みを浮かべた。
1500年5月17日イザベラに男の子が誕生した。
祝砲がとどろき国中の鐘という鐘が鳴り渡った。
イザベラと同じ誕生日に生まれたその子は、フランチェスコの亡き父の名をもらいフェデリーコと命名された。
10年間、実に10年間待ち焦がれた男の子の誕生。
しかし、イザベラもフランチェスコも、ゆりかごに眠るフェデリーコの顔を見てただ涙を流した。
そうしている間も国境へのフランス軍の侵攻は進んだ。
マントヴァの国民は、一人一人が戦に備え、フランス軍侵入の折りには一丸となって立ち向かい自分たちの国を守るため戦い抜く覚悟であることがはっきりと感じられた。
人々は自主的に武器を揃え、子供たちまでが町のあちこちで戦の訓練をしていた。
「この国を、どんなことがあってもこの国を滅ぼさないわ。」
イザベラは、密かに心に誓った。
6月16日フェデリーコの洗礼が行われた。
本来ならば、盛大な祝典が挙行されるはずであったが、フランス軍包囲下で一切のお祝いはとりやめとなった。
それでも、フランチェスコは嬉し気な表情だった。
その夜、イザベラはフランチェスコの部屋へ行った。
「殿、二人だけでお話したいことがございますの。」
イザベラは、明るく微笑んだ。
「あ、そう。ちょっと、みんな、悪いけれど席を外してくれない?」
フランチェスコは何時になく和やかな声だった。
侍女や執事たちは出て行った。
二人だけになると、イザベラの顔から急に笑みが消えた。
「殿、一生に一度のお願いでございます。」
イザベラの顔は蒼白だった。
「私をフランスへ行かせて下さいませ。」
フランチェスコは雷鳴に打たれた様な気がした。
「このままでは、国が滅びます。私にとって、命よりも大事なこの国が。」
イザベラの目に涙が光った。
「私は、ルイ十二世陛下にお会いして、この国を攻めないとの御言葉をいただいて参ります。」
「馬鹿な」
フランチェスコは叫んだ。
「捕らえられるだけだ。 みすみす捕らえられに行くだけだ。
わからないのか。 奴らは君を人質にして、この国を逆落としに窮地に追い込むだろう。」
「その様なことは致しません。」
不意にフランチェスコは、真っ青な顔をしておどりかかるとイザベラの襟首を荒々しく掴んだ。
「死ぬつもりだな。 捕らえられたら死ぬつもりだな。」
イザベラは答えなかった。
フランチェスコは襟首を掴んで振り回し、力任せに突き放した。
「よくわかった。
お前の心にあったのは、マントヴァだけだったのだ。
よくわかった。」
フランチェスコの声はうわずっていた。
「マントヴァですって?
マントヴァを思う心と、殿を思う心は一つです。」
フランチェスコは、いきなり狂った様に駈け出して行った。
夜半、イザベラはフェデリーコの部屋へ行った。
ゆりかごで無心に眠るフェデリーコの顔を見つめ、イザベラはどめどなく涙を流した。
明け方、イザベラは最後の支度にかかった。
イザベラは、昨年の暮れから、何時かはこの日が来ることを予知していた。
そして、フランス軍が国境へ進出するのを見て、遂にその時が来たことを悟った。
その日から、密かに支度を始めた。
イザベラは当初、ミラノに駐屯するフランス軍の総司令官に会いに行くことを考えた。ミラノはマントヴァの隣国であり、いざという時はフランチェスコが大挙して助けに来てくれるであろう。
しかし、考えた末にやめた。困難なことであればあるほど、究極の相手ではない第二、第三の人間に頼むことは、時として逆効果であり、危険ですらある、と判断した。
イザベラはまた、フランチェスコの姉であるモンパンシエ公爵未亡人キアーラを介してルイ十二世と交渉することも考えた。
しかし、これもやめた。
キアーラのことは非常に信頼していたが、それでも人づてで、あますなく自分の思いをフランス王に伝えることは困難だと思った。
イザベラは、仏王以上にその側近がマントヴァを狙っていることを聞いていた。あのヴェネツィアの教訓からイザベラは、よほど考えて行動しない限り生きて仏王に会うことは不可能だと考えた。
そのためには、絶対に、ルイ十二世の住むブロワ城に着くまで旅の目的を余人に悟られてはならないと心に誓った。
イザベラは、モンパンシエ公爵未亡人キアーラ・ゴンザーガを名乗ることにした。 もちろん、これは極秘で、キアーラにも何も言っていない。
イザベラは、そのためにフランスの衣装を用意した。
そして、ミラノまでは水路で行くのが普通だが、そこで馬車に乗り換えることは人目につき、手違いも起こり易いので、この度は初めから陸路を取ることにした。
イザベラは、旅の従者を厳選し、その人々にしかこれらの秘密を知らせていない。
他の侍女や執事たちには、あくまで湯治ということで押し通した。
早朝、最後の支度が出来上がった。
イザベラは、一刻も失わず発つことにした。
ただ、心残りは、フランチェスコがあの時出て行ったきりまだ戻っていないことであった。
表玄関の前には、既に沢山の人々が集まっていた。
小一時間前から馬車や何頭もの馬が停まっていたのを誰かが見つけ、町中に報せたのであろう。
誰一人として湯治ということを信じている者は無かった。
人々は身じろぎもせず無言で待ち続けた。
遂に表玄関の扉が開き、イザベラが現れた。
イザベラは、見違える様なフランスの衣装に身を包んでいた。
そして、その顔は、この世の人とも思えぬほど蒼白であった。
イザベラはエレオノーラを抱き上げ、ひしと抱きしめた。
やがてエレオノーラを静かに下すと、イザベラは馬車に乗った。
イザベラは、誰かに呼ばれた様な気がした。
既に日は高かったが、国境まではまだまだあった。
イザベラは、急いで馬車の窓を開けた。
「お妃様。」
若者が、馬を駆って馬車を追って来るではないか。
「まあ、アントニオ殿。」
イザベラは馬車を止めさせた。
「良かった。間に合った。」
「アントニオ殿とおっしゃいましたね。殿が危篤の折りには大変御世話になりました。」
「実は、今朝早く殿様がいらっしゃったんです。」
「えっ」
「うちは、国のはずれで鍛冶屋をやって居りますが、殿様は鍜治場まで訪ねて来て下さっておっしゃいました。」
アントニオは、口をつぐんだ。
「あの、何と」
アントニオは、声を落とした。
「それが、その、『お前はフランス語が喋れるし馬鹿力があるから、ついて行ってやってくれ。』と、そうおっしゃったのです。」
イザベラは、胸がいっぱいになった。
アントニオは、真剣な顔つきになり言った。
「殿様からのおことづてでございます。このたびのことは、出来るだけ人に悟られない様になさいますのが御身のためと。」
イザベラは、目頭を押さえた。
「アントニオ殿、そのことでお願いがございます。」
イザベラは、この極秘の計画をアントニオに語って聞かせた。アントニオは、驚愕して聞いていた。
「かしこまりました、お妃様。」
「あの・・・その呼び方は、ちょっと」
「かしこまりました、奥様。」
イザベラもアントニオも笑った。
馬車は国境を目ざして進み続けた。
イザベラは、もうこの湖や山野を二度と見ることは無いのかと思うと、涙で胸が塞がった。
最期の瞬間まで決して忘れない様に、イザベラは、マントヴァの湖を、野を、木々を、山を、凝視し続けた。
10年間心血注いで愛し続けたマントヴァにイザベラは、心の中で今生を別れを告げた。
馬車は午後、国境にさしかかった。
イザベラは、窓を閉めた。
少し行くと、フランス兵の声がした。
「その馬車、止まれ。」
イザベラは、目を閉じた。
「マントヴァの人間だな。何処へ行く。」
「口を慎め。」
アントニオが叫んだ。
「モンパンシエ公爵夫人キアーラ・ゴンザーガ様と知ってのことか。」
兵士たちは、ざわめいた。
「それでも、今は非常事態。ゴンザーガの御血筋の御方は、何としてもお通し出来ぬ。」
「何っ、お前ら、命知らずな」
馬車の中で息を潜めながらイザベラは、体の震えが止まらなかった。
アントニオがすごんだ。
「亡きモンパンシエ公爵様はなあ、ルイ十一世陛下の御従弟であらせられたことを忘れたのか。
その奥方様の御帰国の邪魔をして、お前ら、ただで済むと思うな。」
兵士たちは、顔を見合わせた。
そこをすかさずアントニオは大音声で言った。
「奥様は、持病が悪化されて御帰国なさるんだ。一刻を急いで居られるところを、お前ら、こんな足止めさせて、そのせいで手遅れになっちまったら、どうしてくれるんだ、えっ」
アントニオは、ひるまず続けた。
「こうしている間も奥様の御命は危ないんだ。馬車の中で奥様は、お前らの血も涙もない言葉を胸が潰れる思いでお聞きになって、今すぐ死んでしまわれるかも知れないぞ。
ここで死なれてもいいのか!!」
「そ、それでは、お通りを。」
兵士たちは、おずおずと言った。
馬車は兵士たちが見守る中を通過した。
「アントニオ殿、有難うございました。」
人気のない野原まで来ると、イザベラは窓を開けてお礼を言った。イザベラは、涙ぐんでいた。アントニオは、真っ赤な顔をしてうつむいた。
日が暮れ、一行は野に幾つも天幕を張った。
外は降る様な星空であった。
夜が明けると、一行はすぐまた出発した。
今日こそ、ミラノの街に突入するのである。
ここを迂回するには余計な日数を重ねねばならず、この焦眉の折りには事実上不可能であった。
そして、こここそフランス軍の本営が置かれ、町にはフランス兵が溢れているのだ。まさに難関中の最難関であった。
夕闇の迫る頃、ミラノの街の灯が遥か彼方に小さく見えてきた。
「奥様、どうなさいます?」
従者が小声で聞いた。
「参りましょう。暗い方が好都合です。」
刻一刻、町の灯が大きくはっきりと目の前に迫ってきた。
二人だけ連れて来た侍女はイザベラの向かいの座席で蒼ざめていた。イザベラも全身が硬直するのを感じた。
イザベラは馬車の窓を僅かに細く開け、隙間から外を見続けた。
「あっ」
町の随所にはかがり火がたかれ、大勢のフランス兵が通行する人間の取り調べを行っているのだ。
「奥様、大変です。」
様子を見に行ったアントニオが帰って来た。
「奴らは敵方の人間が本営に近づくのを恐れて厳重な取り調べを行っています。
数日前までは夜間の通行を一切禁じていたほどです。」
イザベラの顔から血の気が引いた。
「そればかりではありません。
奴らは、マントヴァから来た人間を血眼になって探しているのです。
見て下さい。」
アントニオは指さした。
「奴らはああして東から来た人間を特に厳重に、しらみつぶしに調べているんです。」
見ると、馬車から引きずり降ろされる者や拉致される者すらいるではないか。
イザベラの顔は、みるみる草の葉の様な色になった。
「おい、そこの馬車、来い。」
不意にフランス兵が怒鳴った。
もはや逃げることは出来ず、取り調べの列の最後についた。
イザベラは、ぴたりと窓を閉めた。
侍女たちは、がたがた震えた。
「お前、フランス人か?」
「ああ。」
アントニオはフランス語で答えた。
「それにしては、なんか様子が変だな。」
「そんなことないや。」
アントニオは叫んだ。
「お前のフランス語はおかしいぞ。」
「お前、本当にフランス人か?」
兵士たちは取り囲んでじろじろとアントニオを見た。アントニオの額に脂汗が噴き出した。
その時、さっと馬車の窓が開いた。
兵士たちの視線が一斉に集中した。
イザベラは、フランス風の大きな羽根扇を揺らせながら、あでやかに微笑んだ。兵士たちは、半ば我を忘れて見とれた。
イザベラは流暢なフランス語で言った。
「私は、モンパンシエ公爵未亡人キアーラ・ゴンザーガと申しますが、先の戦で夫を失った悲しみに思い侘び、我が心の慰めはただ故郷の山川のみと年ごろマントヴァへ足を運んで居りました。
しかし、このたびの戦で、私は弟たちとは敵味方となり、国王陛下に我が忠誠の心を示さんと、生まれいでし家に今生の別れを告げて、今、帰国の途に就いたのでございます。」
あたりは水を打った様になり、フランス兵もうちしおれ、涙を浮かべて聞き入っていた。
「知らぬこととは申せ、数々の御無礼お許し下さい。
それでは、旅路安けく。」
兵士の一人が丁重にそう言って通そうとした。
イザベラは丁重に会釈し、窓を閉めようとした。
「駄目ですよ。隊長はモンパンシエ公爵様に大変お世話になったと何時もおっしゃっていたじゃありませんか。奥様にお会わせしなかったなんて知ったら、後で大目玉ですよ。」
「それもそうだ。」
「奥様、どうぞもう少しお待ち下さい。今、隊長を呼んで参ります。」
イザベラは、心臓が止まりそうになった。
「御丁寧に。 いたみ入ります。 ですが、戦時下のお忙しい折り、私のために持ち場をお離れいただきますのは心苦しゅうございます。
どうか、隊長様にくれぐれも」
「ごめん」
いきなりアントニオが、馬に鞭を当てた。
それに倣って御者も鞭を当て馬車は疾風の様に駈け抜けた。
「お妃様の御蔭でございます。」
「有難うございます、お妃様。」
侍女たちは口々に言った。イザベラは、体の震えが止まらなかった。
「おい、追って来るぞ。」
イザベラは、とっさに叫んだ。
「サンタマリア・デレ・グラツィエ教会へ。」
馬車は一目散に教会目ざした。
「もっと速く」
アントニオが叫んだ。
「急げ。」
「あっ、教会だ。」
馬車は一気にサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会へ駈け込んだ。
「お妃様、マントヴァのお妃様ではございませんか。」
尼僧たちが駈け寄って来た。
「詳しいことは後で話します。追われているんです。」
尼僧たちは、慌てて全員を中へ入れた。
「駄目です。」
尼僧が泣きそうになりながら駈け込んで来た。
「『奥方様は馬車でお酔いになり、ただ今臥せって居られますからお引き取り下さい』
と何度もお願いしたのですが、
『ご挨拶申し上げるまでは絶対に帰らない』
と言って、隊長が外で居座っています。」
「ああ」
アントニオは頭を抱えた。 彼らは食事をしながら今後のことを話し合っていたのだ。
「もう、おしまいだ。」
従者の一人がテーブルに身を投げ出した。
「絶対にここから出られない。」
別の従者が悲痛な声を挙げた。
その時、食堂の扉が開いた。
皆は、総立ちになった。
なんと、イザベラは修道女の姿で現れたのだ。
「これなら大丈夫でしょう?」
イザベラは、明るく微笑んだ。 皆は声も出なかった。
「お妃様、その御姿でアルプスを?」
やっとアントニオが言った。
「そうです。 これでフランスへ行くのです。」
皆は、魂を奪われた様にイザベラを見た。
尼僧姿のイザベラは神々しいまでの不思議な美しさであった。
「わかりました。私たちも支度して参ります。」
そう言って、アントニオも従者たちも出て行った。
イザベラは、広い食堂に独り残された。
イザベラは、静かに壁に歩み寄った。
そして、「最後の晩餐」を見上げた。 食堂の奥の一段高くなった場所に今、まさに最後の晩餐が行われているかに見えた。
中央のキリストの姿は夕暮れの空を背景に、おかしがたい気高さと孤独をたたえて浮き上がっていた。
イザベラの耳にレオナルドの声が甦った。
この絵の完成を誰よりも待ち焦がれたベアトリーチェ。
従来の「最後の晩餐」の絵とは違い、慰める弟子も無いキリストの孤高の姿を涙を浮かべて見つめていたベアトリーチェ。
イザベラは万感の思いで見入った。
尼僧や修道士たちが松明をかざしながら教会の裏口へ案内してくれた。
「お妃様、馬は大丈夫でございますか?」
「私は、騾馬(らば)には乗り慣れて居りますが」
イザベラは、少しの間考えた。
「やっぱり馬に致します。」
「大丈夫でございますか?」
イザベラは、笑って言った。
「馬の方が速いですし、逃げる時も心強いですから。」
イザベラは、尼僧や修道士たちの方に向き直った。
「本当にいろいろと有難うございました。
どうか、私たちの置いていきますものは、もうこのまま皆様のお役に立てて下さいませ。」
その言葉に尼僧たちは袖で顔を覆って泣いた。
「お妃様、生きて再び御目にかかれます様、お祈り致します。」
尼僧も修道士たちも涙ながらに言った。
夜の道を馬で行きながら、イザベラは胸を押さえた。懐に母の指輪をお守りに入れているのだ。
「皆さん、よくお似合いよ。」
イザベラが急に明るい声を出すと、初めて皆はこわばった顔に笑みを浮かべた。
「困ったなあ。もっと坊さんのお説教を真面目に聞いて覚えときゃよかったなあ。」
アントニオが僧衣の袖をやんちゃに振り回しながら言うと、皆はどっと笑った。
「ラテン語? ラテン語なんか知らないよ。」
「大丈夫ですわ。 お妃様は当代随一のラテン語の名手だって評判ですもの。」
イザベラは、どきっとした。無我夢中で僧尼の姿に変装したが、誰一人として専門の聖職者の知識など無いのだ。
それでも、イザベラはくよくよ考えないことにした。もはや今となっては、この道より他に無い。
イザベラは、パオラ修道女と名乗ることにした。
一行は、ミラノから北西に向かいアルプスを目ざした。
時は6月下旬。 青い空にまぶしい太陽がやるせなく照りつけた。
一行は午後、マジョーレ湖の南岸にさしかかった。
いよいよこのあたりからアルプスの山麓である。あたりには低い山々が幾つも見えた。つつじやシャクナゲの咲き乱れる岸辺の道を、馬は蹄の音を響かせながら北へと進んだ。
「お妃様、御気分がお悪いのでは?」
「お顔が真っ赤です。」
「大丈夫よ」
イザベラは、喘ぐ様に言った。
「大変です、お妃様が」
イザベラは、そのまま気が遠くなり馬から落ちそうになったところを、間一髪駈けつけたアントニオに支えられた。
「うわっ、ひどい熱だ。」
アントニオは両手でイザベラを抱えると近くの農家に駈け込んだ。
「すみません、修道女が急病なんです。」
暗い奥から40歳くらいの婦人が駈け出してきた。
「まあ、お気の毒に」
婦人はイザベラの額に手を当てた。
「大丈夫でしょうか?」
アントニオが、おずおずと聞いた。
「いつも教会の中に居られる修道女様が、慣れない遠乗りで、ちょっとお日様に照らされ過ぎただけですわ。 じきにお熱も下がりますよ。
さあ、どうぞ。」
アントニオは夫人について中へ入り、言われるままに木の寝台にイザベラを下した。
イザベラは、薄目を開けた。
「あっ、おきさ・・」
思わずアントニオは口を押えた。
「パオラ様、気づかれましたか?」
「修道女様、大丈夫ですか?」
イザベラは、急に眼を見開くと、慌てて起き上がろうとした。
婦人がそれを制止した。
「申し訳ございません。見ず知らずの御方に」
「いいんですよ。修道女様をお泊めできれば、うちにとっても功徳になりますからね。」
見るからに人の好さそうな婦人は満面に笑みを浮かべた。イザベラは頭が下がる思いで胸がいっぱいになった。
婦人は冷たい水に浸した布をイザベラの額に乗せてくれた。イザベラが涙ぐむと、夫人は心配そうな顔をした。
「修道女様、お苦しいですか?」
「いいえ。」
イザベラは、目頭を押さえた。
「こんなに良くして下さいまして、胸がいっぱいです。それに貴女様を拝見して居りますと、母を思い出しました。」
「まあ。修道女様のお母様は」
「私が、十九の年に亡くなりました。」
婦人は、目をうるませた。
イザベラは、天井を見つめて言った。
「私は先程から、もうずっとここにいたいなって、そんなことを考えていたのです。叶わぬことですが。」
婦人はうつむいて涙ぐんだ。何かよほど深い事情があることが察せられ、婦人は言葉を失った。
従者たちは、村中の家々に分散して泊めてもらうことになり、侍女二人はこの家に泊めてもらった。
婦人は侍女たちを休ませ、自分はその晩ずっとイザベラの枕元に坐って何度も額の布を取り換えてくれた。
枕元には、一本の粗末な蝋燭が燃えていた。 そして、窓の外では、大きな木々がざわざわと音を立てていた。
「奥様は、お独り暮らしでいらっしゃいますか?」
「まあ、奥様だなんて」
婦人は、エプロンで顔を覆った。
「修道女様は、よほど良いお生まれなんですねえ。それをこんな難儀な旅をなさって・・・
私には息子がいますが、何年も前に軍隊に入ったきり帰って来ないんです。」
婦人の話を聞きながら、いつしかイザベラは眠りに落ちた。
はっと気がつくと、枕元に母が座ってこちらを見つめていた。イザベラは飛び起きて母を抱きしめようとしたが、体が動かなかった。 母は微笑んだ。
それを見てイザベラは、言い知れぬ安らぎが心の中に広がるのを感じ、そのまま意識を失った。
早朝、イザベラは木の寝台で目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからず、母の姿を探してあたりを見渡した。
そして、枕元で座ったまま眠っている婦人を見つけ、昨日の全てを思い出した。
イザベラは、さめざめと涙を流した。
夜明けの光の中で涙にむせびながらイザベラは、母が守ってくれている、と感じた。心の中には新たな勇気と決意が湧いた。
イザベラは起き出し、婦人に心を込めてお礼を言った。
そして、すぐに出発しようとしたので婦人は驚いて引き留めたが、イザベラの決意が固いことを知って、急いでイザベラのためにお粥を炊き、お弁当に柔らかい白パンを持たせてくれた。 侍女たちにも朝食とお弁当を用意してくれた。
「この先は、川船でいらっしゃいませ。 川船の方が、馬より速いですし、お日様に当たらなくて済みますわ。 これから真夏に向かいますから、ますます日差しが強くなりますよ。」
「有難うございます。 私も本当はそうしたいんですけれど、馬を置き去りに出来ませんから。」
「いいことがありますわ。修道女様がお戻りになるまで、あの馬は全部うちでお預かり致しましょう。 ここから先、船着き場までは貸し馬でお行き下さい。」
それを聞くとイザベラは、布の袋を取り出して婦人の手に握らせた。
「ここに20ドゥカーティございます。」
「えっ」
「この様なもので私の思いを表すことはとても出来ませんが、昨日からのお心づくし、そして馬たちをお預かりいただくことへのせめてものお礼です。」
「とんでもございません。 それに、こんな大金、法外です。」
「どうかお納め下さいませ。 ただ、一つお願いがございます。」
イザベラは、婦人の目を見た。
「もしも、半年たっても私たちが戻りません時は、あれらの馬をミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会までお返しいただきとうございます。」
従者の泊めてもらった家々にお礼に行っている間に、婦人は貸し馬を探してきてくれた。
「もう、本当にお別れなんですね。」
婦人は涙ぐんだ。
「この御恩は、終生忘れません。」
イザベラは、涙を浮かべ一礼すると、馬に乗った。
一行は、山道を北へと分け入った。
かなりの高度までは針葉樹の林が続いている。 あたりは大木が林立し、木の間より差し込む日差しは光の道を作って、浅緑のビロードの様な草に覆われた地面に降り注いでいた。 林の中には所々に白や紫や薄紅色の花がひっそりと咲いていた。
そうかと思うと、小川の岸辺の僅かな草原には、星くずの様な白や黄色の小さな花々が、天の川の様に咲き乱れていた。
馬は人気の少ない山道を登り続けた。
突然、視界が開け、イザベラは息を飲んだ。
まばゆい様なお花畑が、目の前に広がっているのだ。
色とりどりの可憐な無数の花々が斜面を覆い尽くし、絨毯を敷きつめた様であった。
そして、彼方には、残雪に輝くアルプスの峰々がそそり立っていた。
ひときわ高く見えるのは、モンテ・ローザであろうか。
あたりの緑とは全く異なる銀を帯びた青白色の山々は、天を衝く様にそびえ立っていた。
イザベラは、その偉容に打たれ、馬を止めた。
「とうとう、ここまで」
イザベラは、万感の思いで仰ぎ見た。
書物にも読み、話にも聞きしこの山を、今、かかる旅の身で見ることを思う時、イザベラの心は千々に乱れた。
イザベラは、再び馬を進めた。
登りゆくほどに峰々はさらに眼前に迫って来た。
夕方、一行はサンプロン峠の麓に差しかかった。
今朝借りた馬はここまでであり、峠を越えるには別の馬主を探さなければならなかった。 幸いあたりには、峠を行き来する旅人のために馬を提供する者が何件かあった。
「えっ、公道を通らないって?」
馬主が目をむいて聞き返した。
「はい、どうしても拝んで行きたい聖地がありますんで、脇道の方を。」
アントニオが言った。
「聖地? そんなのあったかなあ。 まあ、とにかく、あそこは山賊が出ることで有名なんだから。」
「そこを何とか」
従者たちは口々に懇願した。
「いや、うちは山賊に馬を盗られちゃ上がったりですよ。 お客さんたちも、命あっての物種ですからねえ、公道を通られた方が身のためですぜ。」
馬主はそう言って、別のお客の相手を始めた。
一行は次々に他の馬主を訪れたが、全て断られた。
「お妃様、やっぱり公道を通りましょうか?」
侍女が言った。
「いえ、あそこは厳重な取り調べが行われますから、何としてでも避けねばなりません。」
皆は黙ってしまった。
「あっ、ちょっと」
不意にアントニオが、通りかかった地元の人らしいおばあさんに声をかけた。
「私どもは旅の僧尼でございますが、馬が無くて困って居ります。」
「そんなら、あそこに馬屋が。」
「それが、全部断られたんです。」
「へえ」
「実は、どうしても拝んでいきたい聖地があるから、脇道を行ってくれと頼んだら」
「そりゃ無理ですよ。ここの山賊は有名じゃから。 それにしてもあんな所に聖地なんてあったかね。」
おばあさんは首を捻った。
「い、いや、あるんですよ。ちゃんと。」
「ふうん、聞いたこと無いねえ。」
皆は、蒼ざめた。
「まあ、いいわ、どうでも。 それじゃ、麓の若い衆に頼んでみるわ。」
「まあ、有難うございます。」
イザベラは、思わず声を挙げた。
おばあさんはイザベラの顔をまじまじと見つめてつぶやいた。
「こんなあらたかそうな尼さんは、初めてじゃ。」
おばあさんは、皆の方を見て言った。
「今晩は、うちの村で泊まりなされ。
そうそう、教会でお泊りになるのは如何ですかね?」
イザベラは、どきっとした。
「御親切に。 でも、出来ましたら皆様のお宅にお泊めいただけませんでしょうか?」
「そりゃ一向に構わんが、教会の方がきれいだし、悪いことは言わんから教会に泊まりなされ。
そうじゃ、今から行って頼んで来てあげよう。 教会の方が居心地もいいと思うよ。」
「おばあさん、俺・・・私たちは、せめて旅の時ぐらいは教会と違う所で寝泊まりしたいんです。」
イザベラは侍女たちと一緒におばあさんの隣の家に泊めてもらうことになった。他の従者たちも数人ずつ分散して村の家々に泊めてもらった。
落ち着くと、すぐに皆が集まって来た。
「お妃様、これは少しお金が要りそうです。」
アントニオが言った。
「お金を出さない限り、人手も馬も集まらないでしょう。
この際、多人数でなければ危険です。 山賊が恐れをなして、襲うのを思いとどまるくらいの多人数でなければ。」
「わかりました。」
イザベラは、金貨の入った袋を取り出した。
「あっ、お妃様、それは」
従者たちは、どよめいた。
「お妃様、それは、いざという時のためにとって置かれたお金ではございませんか。」
「今が、その時です。 人は、いつお金を使うべきかを見誤ってはなりません。」
「しかし、帰りのことも。」
「その必要は無いでしょう。
マントヴァを攻めないとルイ十二世陛下がお約束下さいました暁には、大手を振って公道を帰ることが出来ます。 さもなくば、二度とこの道を通ることはございません。」
皆はうつむいて沈黙した。 イザベラは、慌てた。
「驚かせてしまってごめんなさい。 どんな時でも、皆さんは国へ帰れます様、ちゃんと手を打ちますから、御心配なさらないで。」
皆は声を挙げて泣き出した。 イザベラは、途方に暮れた。
その時、アントニオが進み出て、押し戴く様に金貨の袋を受け取った。
「決して、無駄には致しません。」
アントニオの真剣な目つきに、イザベラは圧倒された。
アントニオはその袋を大事そうに懐に入れると、おばあさんの所へ走って行った。
「おばあさん、何人くらい集まりますか?」
「大体15~18人というところかね。 じゃが、この仕事は怖がって誰も来んかも。」
「1人に1ドゥカーティ払います。」
「へっ。」
おばあさんは、目をぱちくりした。
「来てくれるでしょうか?」
「気過ぎるわ。 若者どころか、じい様たちまでやりたがって、仕事の奪い合いになるわ。」
アントニオは、ほっとした。
「その代わり、ちょっと頼みがあるんです。とにかく出来るだけ強そうに見えるいでたちで来て欲しいんです。」
「ははん、なるほど。」
おばあさんは、お茶を飲みながら大きくうなづいた。
「それで、一番強そうな恰好をしてきてくれた人には、もう1ドゥカーティ余分に払います。」
お茶を飲んでいたおばあさんは、むせ返った。
翌朝、おばあさんの家の前には、見るからに恐ろし気ないでたちの若者たちが馬に乗ってものものしく集結した。
「随分多いですね。」
「21人も集まったんじゃ。」
どの若者も知恵を絞って、強そうないでたちを工夫したのがよくわかった。
まさに甲乙つけ難い出来栄えであった。
イザベラは、おばあさんと、そしてお世話になった村人たちに丁重にお礼をして出発した。 馬は村の人々から借りたものである。 峠の向こうに着いたら、若者たちに村まで連れて帰ってもらう約束だった。
登って行くほどに、だんだん岩が増えてきた。
そして、花は少なくなり、種類が変わってきた。昨日のお花畑に見られた様な軽やかで華やかなものは影を潜め、落ち着いた姿の花が岩にはりつく様にして所々に静かに咲いていた。
イザベラは、白い花びらで真ん中が黄色い花を何度も見かけたが、そのたびに明らかに種類が違うので驚いた。
峠近くになっても、岩の隙間には凛とした花が夢を見る様に咲いていた。
急な岩場を馬の背に揺られて登るのは骨が折れた。その上、山賊が今にも襲いかかって来ないかという恐怖で、心は張りつめ通しだった。
峠に差しかかった時、イザベラは一瞬めまいを覚えた。遥か下方に小さく小さく村や森や川や湖が見渡せるではないか。峠近くは霧がかかるかも知れないと言われたが、今日は視界がよく見渡せた。
遂に登りつめ、これより先は下るのみである。
イザベラは今一度、来し道を振り返った。
一行は、いよいよ下りにかかった。下りはさらに難儀であった。岩場で馬が何度もつまずきそうになり、その度に冷汗が出た。ここを山賊に襲われたら、ひとたまりも無い。 皆は身を震わせる思いで、心の中で念じ続けた。
突然、絹を裂く様な叫び声が挙がった。後ろの方からついて来た侍女だ。
一気に全員、血が凍った。
アントニオは、僧衣の下の刀の束に手を掛けた。
「お、おどかすなよ」
皆は恐る恐る振り返った。
「ごめんなさい。」
侍女は蒼い顔をして笑っていた。
「馬が転びそうになったの。」
どっと一斉に笑いが起こった。
「ひどいわ、ひどいわ」
イザベラも、思わず修道女らしからぬ明るい声を挙げた。急に皆は喋る様になった。
「ところで尼様、一体いつになったら聖地に着くんですか?」
「えっ」
「わしらも、この際、拝ませてもらおうと思ってるんです。 なっ」
若者たちはうなづいた。
「こんな時でもなかったら、とてもこんな所、来ませんから。」
イザベラは口ごもりながら言った。
「私も先程から道の両側をよく見ているんですけれど」
「もっと道からそれて探しに行きましょうか?」
「このままでは、わしらも後味悪いや」
「い、いえ、それが、その、もう少し先だった様なきがするんです。」
一行はまた黙々と馬の背に揺られて岩場を下り続けた。
ようやく難所を超え、麓の村が目の前に迫って来た。
「尼様、結局見つかりませんでしたね。」
「もう、いいんです。」
「本当にいいんですか?」
「一体どの辺だと聞いていらっしゃったんですか?」
「本当にあったのですか?」
いきなりアントニオが叫んだ。
「さあ、そろそろ誰が一番強そうないでたちだったか考えようかな。」
すると、若者たちは一斉にどよめき、声高に話を始めた。
さすがにアントニオも困った。皆、甲乙つけ難い出来栄えなのである。それに、21人の中から1人だけ選ぶということは、何か忍び難い気がした。
しかし、約束は約束である。
「お妃様、いかが致しましょう?」
たまりかねてアントニオは、小声でイザベラに訳を話した。
「まあ。」
イザベラは驚いた。
「それなら、皆さんに2ドゥカーティずつお渡ししてちょうだい。」
「えっ」
アントニオは蒼くなった。
「せっかく私たちのために恐ろしい山道を来て下さったんです。それに、あんな勇ましいいでたちを工夫して下さって。
御蔭で私たちは峠を越えることが出来ました。」
アントニオは、しおれて聞いていた。
「もし、ここでお一人だけ2ドゥカーティお渡ししたら、きっと後に気まずいものが残るでしょう。私たちに親切にして下さった方々にその様なことをしてはなりません。」
アントニオは、すっかりしょげてしまった。
「申し訳ございません。私が至らなかったばかりに。」
イザベラは、首を振った。
「無事に峠を越えることが出来たのも、アントニオ殿の御蔭です。」
アントニオは頬を染め、一礼すると走って行った。
若者たちは、尾根にこだまする様な歓声を挙げ、何度も何度も振り返って手を振りながら大喜びで帰って行った。
麓の村で馬を借りると、2時間ほどでローヌ川に着いた。
一行は、そこで川船に乗り換えた。
この川の行き着く先が、フランスの入口リヨンである。 そこでロアールの川船に乗れば、そのまま運命のブロワに着くのであった。
右岸には、ユングフラウが迫っていた。両岸の緑の向こうに、純白のユングフラウは気高い姿で輝いていた。
気がつくと、左岸には遠くモンテローザ、リスカム、ブライトホルン、そして彼方にマッターホルンが重なる様に見渡せた。
イザベラは、時が経つのも忘れて見続けた。
その時、イザベラは、はっとした。
「サンプロン峠も取り締まりが厳しくなりましたなあ。」
「誠に」
「いや、リヨンの厳しさは比べ物にもならんそうですよ。」
近くの乗客たちが喋っているのだ。イザベラは、思わず彼らの方を見た。
彼らは暫く夢中で喋っていたが、イザベラに気づくと話しかけてきた。
「尼様は、どちらからいらっしゃいました?」
イザベラの顔から血の気が引いた。
「ミラノです。」
「ミラノはどちらの教会ですか?」
「あの・・・サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教」
「いつまで起きていらっしゃるんです。」
不意にアントニオが睨みながら強い口調で言った。
「また、病がぶり返しますぞ。」
「あっ、貴男もサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の方ですか?」
「いえ、残念ながら私は違うんです。
パオラ様、早くお休み下さい。」
言われるままにイザベラは、坐ったまま目を閉じた。彼らは、また話を始めた。
そうするうちに、疲労からイザベラは深い眠りに落ちた。
「パオラ様、パオラ様」
揺り起こされてイザベラは、はっとした。
「お船を乗り換えるんです。」
侍女がささやいた。 あたりは既に夜のとばりが降りていた。
船から降りたイザベラは、思わず立ち尽くした。
眼前に大きな湖が広がっているのだ。 それは、レマン湖だった。
暗い湖面には月光が映え、銀の波が静かに光っていた。
見つめているうちに、来し方行く末のことが胸をよぎり、イザベラは暗い湖面に涙を落した。
「お妃様、船が出ます。」
振り返ると、アントニオだった。
イザベラは、アントニオの後について船に向かいながら、そっと袖で涙をぬぐった。
「これが今日の最後の船なんです。 毎日、あの川船が着くのを待って出ているそうです。」
アントニオは、張りのある声で言った。
この船に乗れば、いよいよリヨンである。
夜の湖を渡る風は冷たく身にしみた。
イザベラは、侍女たちと小さな船室に入ることになった。
「お妃様」
イザベラが部屋に入ろうとすると、アントニオが小声で呼びとめた。
「ここより先はフランスに近く、人とは極力御顔を合わされません様、船室においで下さい。」
「わかりました。」
「到着した暁のことを思うにつけ、今のうちに少しでもお身体をお安め下さい。」
イザベラは、身の引き締まる思いがした。
「我々従者一同は、隣の部屋に控えて居ります。」
アントニオは一礼して走り去った。
船室に入るとイザベラは、忠告に従って、すぐに衣をかぶって横になった。
侍女たちも、ほとんど喋らず、寝たり起きたりしていた。
イザベラは、何度も目を覚ました。強く弱く船に打ち寄せる波の音だけが船室を包んでいた。
何度目かに目を覚ました時は、朝だった。水面の反射する朝日が、窓際の天井にまばゆい光の波を映していた。 イザベラは、それをぼんやりと見つめた。暫くして、イザベラはまた目を閉じた。
夕方、船はリヨンに着いた。
「あれは・・・」
イザベラは絶句した。皆も茫然と立ち尽くした。
船から降りた人の列が、延々と続いているのだ。そして、その先には取り調べの役人たちが立っていた。
「これは相当厳重ですね。」
従者が小声でささやいた。
「もう、おしまいだわ。」
イザベラは衣の上から母の指輪を押さえた。
一人一人の取り調べには、かなり時間がかかっている様だ。夕日が町を赤く染めていた。
その時、列の中程でざわめきが起こった。
見ると、老婦人がうずくまっていた。
役人の一人が走って来た。
「医者、医者はいないか。」
役人は叫んだ。 しかし、名乗り出るものは誰も無かった。役人は狼狽して、老婦人の頬を叩いたり、背中をさすったりした。
「私たちが治しましょう。」
その瞬間、イザベラは心臓が止まるほど驚いた。アントニオがそう言って、列から一歩踏み出したのだ。アントニオはイザベラの袖を掴むと、もの凄い力で引っ張った。イザベラは茫然自失になって、ふらふらとついて出た。
「そなたたち、何者じゃ?」
役人は呆気に取られて言った。
「見ての通りの旅の僧尼でございます。」
「ほお」
「こちらの修道女様はあらたかな御方で、祈祷で治せぬ病は十に一つ、いえ、百に一つでございましょうか。」
イザベラは、口も利けなかった。
「そんなことが出来るのか?」
「はい。」
アントニオは、胸を張って言った。
アントニオは懐から薬を出すと、先ずそれを老婦人に飲ませた。
そして、役人に頼んで敷物を持ってきてもらうと、その上に老婦人を寝させた。
「それでは、パオラ様、御祈祷をお願い致します。」
アントニオはそう言うや、老婦人の首と肩と背中を揉み始めた。
イザベラは我に帰り、必死で手を合わせてラテン語を暗唱した。
「見事な読経じゃ。」
役人は思わず唸った。
「こんな凄いラテン語は初めてだ。」
「よっぽど偉い尼さんなんだ。」
居並ぶ人々も、ひそひそと話し始めた。
アントニオは額に汗して老婦人の首や背中を揉み続けた。
あたりはいつか日が暮れて、かがり火がたかれていた。
一式暗唱し終えると、イザベラは手を合わせたまま黙々と祈り続けた。
「すみません。 御蔭様で、具合が良くなりました。」
不意に老婦人が顔を挙げた。イザベラは、息が止まりそうになった。
「何と」
役人たちは立ち上がった。
「胸の苦しいのが治りました。めまいも良くなりました。」
老婦人はイザベラとアントニオに向かって何度もお礼を言った。役人たちは茫然と見ていた。
「それでは、これで私たちも」
いきなりアントニオが荷物に手を掛けた。
「いや、ちょっとお待ち下さい。」
「どうか市庁舎まで」
「えっ」
「よほど高位の聖職の御方とお見受けしますが、夕食くらい召し上がって行って下さい。」
「せっかくですが、先を急ぎますから」
「そうおっしゃらずに、今晩はお泊りになって、有難い御話の一つもお聞かせ」
「あっ、ちょっと」
アントニオは、駈け出しながら叫んだ。
「お構いなく。 すべては神の御心ですから」
それに続いて皆も駈け出した。
「ちょっと待って下さい」
役人たちが大声で呼んだが、誰も振り返らず、一目散に駈け抜けた。
人気のない路地まで来ると、皆は荷物を投げ出して、肩で息をした。
「これからお宿を探すのですか?」
侍女が言った。
「いや、あの役人たちに、今度会ったら百年目だ。今すぐ馬を借りてこの町を出ましょう。」
この時刻にやっている馬主は殆ど無かったが、やっと一軒見つけて馬を借りると、暗い夜道をロアール川目ざした。
「ああ、恐かった。」
イザベラはつくづくとため息をついた。
「アントニオ殿ったら、無茶をなさるんですもの。」
「もう、どうなることかと、生きた心地がしませんでしたわ。」
侍女たちも口々に言った。
「そんなこと言ったって、ああでもしなけりゃあの取り調べは突破できないよ。」
「アントニオ殿、あのよく効くお薬は何ですか?」
イザベラは聞いた。
「あっ、あれですか?
あれは大した薬じゃないんです。その辺にある普通の丸薬ですよ。
胸が痛い時や苦しい時は、水を飲むと治まることがよくあるんです。
あれが効いたんなら、薬ではなく水を飲んだのが良かったんでしょう。」
「でも、それだけではありませんでした。アントニオ殿が肩や首を揉んでいるうちに治った様に見えました。どうして、あんなことがお出来になったのですか?」
アントニオは満面に笑みを浮かべた。
「あれは、うちの婆ちゃんによくやってやるんですよ。そしたら、大概の病気は一発で効くんだから。 なんでも、心の臓の働きを助けて、血の巡りを良くするらしいんです。」
「へえ」
皆は感心した。
「この前、殿様が御危篤になられた時も、いちかばちかでやってみたんです。」
「まあ」
イザベラは身を乗り出した。
「或る晩、殿様が息も絶え絶えになられた時に、明け方まで、お首や肩や背中を揉んだり押したりし続けました。そしたら、もうみんな諦めていたのに、急に殿様は持ち直されたんです。」
「そうだったのですか」
イザベラは涙ぐんだ。
「そ、そんな、お妃様、大したことじゃありませんよ。 それより」
アントニオは、イザベラの方に向き直った。
「一体、何時の間に経典なんか覚えられたんですか?」
皆も真顔になってイザベラを見た。
「あれは、ヴィルギリウスなんです。」
「えっ」
一斉に皆はのけぞって笑った。
その日は、馬の背に揺られながら交代で眠った。
イザベラは、5年前のフランチェスコの手紙を思い出した。自分は日夜馬の背に揺られて行軍を続け、体がもっているのが不思議なくらいだ、と書かれたあの戦場からの手紙を。
未明の道は、草の葉に露が光っていた。
一行は、やがてロアール川の岸辺に差しかかり、そこで川船に乗った。もう、このままブロワに行き着くのを待つばかりである。イザベラは、ベールで顔を覆って侍女たち二人と小さな船室で息をひそめた。
イザベラは、ルイ十二世に言うべき言葉を考えた。恐怖と不安に胸は張り裂けそうで、血の涙がこみ上げてくる様だった。
それでもイザベラは、ルイ十二世に言うべき言葉を考え続けた。隣の部屋には従者たちが控えているはずだが、物音一つしなかった。
イザベラは、国をいでしより、キアーラにだけは迷惑をかけてはならないと考えていた。 しかし、ここに至って最後に一つの問題が残った。この修道女の姿は、王城に入るには寧ろ好都合かも知れないが、ひとたびルイ十二世の前に立った時、自分はマントヴァの侯妃であらねばならない。国の威信にかけても、この姿で王にまみえることは出来なかった。イザベラは、整えだけはキアーラを頼ることにした。
窓には幾たびか光と闇が訪れ、2日後、船は遂に運命の地ブロワに着いた。
上陸したイザベラは、振り返り、東の空を見た。この空の続きにマントヴァがあるのだ。
「参りましょう」
イザベラは、静かに言った。
その時、先程からこちらを見ていた役人が歩み寄って来た。
「その方たち、この土地のものではなさそうだが、何処へ行く?」
「モンパンシエ公爵様のお屋敷です。」
従者が言った。
「何の用で行くのだ?」
誰も答えないのを見ると、役人は薄笑いを浮かべた。
「一体、何の用で行くのか、聞いておるのだ。」
「奥様が、奥様の御健康が優れませんので、祈祷を頼まれたのです。」
イザベラが言った。
「ほお」
役人はイザベラの顔をまじまじと見た。
「良かろう。わしがこれからそなたたちをモンパンシエ邸まで案内して進ぜよう。 そして、直接奥様にあって確かめてみる。」
役人は歩き出した。侍女たちは青ざめ、震えていた。皆はうつむいて役人の後について歩いた。
「お蔭で道に迷わないや。」
アントニオは小声で笑った。
イザベラだけが笑った。
じきに立派な門が見えてきた。モンパンシエ邸は、広い庭の向こうに壮麗なたたずまいを見せていた。役人は門番に挨拶して入った。一行もそれに続いた。広大な庭園は、自然の美しさを取り入れ、華麗で優雅な造りであった。
表玄関の前まで来ると、役人は取次に出た執事に訳を話した。
少し待つと、きぬずれの音をさせながらキアーラが現れた。
「これは、これは、奥様」
役人は恭しく一礼した。
「畏れながら、この僧尼たちにお見覚えはございますか?」
「は?」
キアーラは狐につままれた様な顔をして役人の顔を見た。役人は口元に薄笑いを浮かべた。侍女たちは、がたがたと体を震わせた。
「私です。」
イザベラは、キアーラの前に進み出た。
「えっ」
キアーラは不思議そうな顔をして、イザベラの顔を穴が開くほど見た。
「あっ、貴女・・・」
不意にキアーラは叫び声を挙げたきり、唇を震わせた。
「なんだ、お知り合いでしたか。 それでは」
役人は、そそくさと一礼すると帰って行った。
暫くの間、キアーラは胸に手を当てたまま声も出なかった。
「ああ、驚いた」
やっとキアーラは、乱れた息でそう言った。
「一体、どうなさったの?」
「お姉様、お願いがございます。」
「じゃあ、中へお入りになって。」
すぐに食事の支度がされ、従者たちは食堂に案内された。
「あら、貴女も召し上がらないの?」
「有難うございます。ですが、今すぐお姉様にだけお聞きいただきたいことがございます。」
「まあ」
キアーラはイザベラを自分の部屋に連れて入り、人払いをした。
二人だけになるとイザベラは今までのことを全て語って聞かせた。
みるみるキアーラは蒼白になった。
「やめて」
キアーラは涙ぐんだ。
「私も少しはマントヴァのことを聞いて居りました。 マントヴァは私の生まれた国。夢にまで見る祖国です。
でも、貴女を失うのは、いや。」
キアーラは泣き崩れた。
「貴女は、私が生きる望みを失った時に、立った一人私を済度して下さった方なの。」
イザベラは頭を垂れた。失意に打ちひしがれるキアーラを必死で励ました。ただそれだけのことを、キアーラはこんなにも思ってくれているのだ。イザベラの目から涙がこぼれた。
「わかったわ。」
キアーラは静かに顔を挙げた。
「どんなにお止めしても、貴女は聞いて下さらないでしょう。」
キアーラはイザベラの顔を見た。
「明日、一緒にお城に参りましょう。」
「えっ」
「絶対に、貴女一人では無理よ。このお城こそ最難関だということを忘れないで。」
イザベラの顔から血が引いた。
「明日、私が国王陛下の御機嫌伺いに上がりますから、貴女は私の遠縁の者ということでついていらしてちょうだい。」
「お姉様、それではお姉様に御迷惑がかかります。」
イザベラは必死で言った。
「いいえ、私にも何かさせて欲しいの」
「いけません。その様なことは、私の命に代えてもしていただく訳には参りません。」
イザベラの目に涙が溢れた。
「お姉様、お姉様のその御言葉だけで、私は胸がいっぱいです。でも、お姉様に御迷惑をお掛けするくらいなら、私は死んだ方がましです。」
イザベラは立ち上がった。
「本当に有難うございました。
私はやっぱり今からこのままお城に参ります。」
「待って。私の話を聞いて。」
キアーラは嗚咽で声が詰まった。
「私は生まれた時から弱虫だったの。ひ弱くて何もできない自分が嫌でたまらなかった。
でも、弱い人間ほど、或る時、一途になれるの。身を捨てることが出来るの。」
キアーラはイザベラを見上げた。
「私は、ゴンザーガの娘です。
これだけは、やらせて。 もし、お聞き下さらないのなら、私は何のためにこの世に生まれてきたのか、自分でもわからなくなってしまうわ。」
「お姉様」
イザベラはキアーラの前に膝まづいた。
キアーラはたたみかけた。
「お願い。これをやらせて下さらなかったら、もう私は私でなくなるの。」
イザベラはうつむいて身を震わせて泣いた。
夜通しキアーラとイザベラは、明日の手はずを話し合った。
「やっぱり、貴女の仮のお名前は考えておかなくちゃ。その方が、何かと好都合よ。」
イザベラは首を振った。
「それでは、お姉様に嘘を言っていただかねばなりません。
もうこんなにお世話になりました上で、今さらとお思いになりますかも知れませんが、やっぱりそれだけはおやめ下さい。お姉様はこれからもずっとフランスの宮廷でお暮しになるのですから。」
「私は構わないのですけれど・・・じゃあ、いざという時だけ、マリー・ド・モンパンシエということに致しましょう。」
2時間だけ仮眠を取ると、明け方から支度にかかった。
「これ、私の若い頃のなんですけれど、お召しになって。」
キアーラは、見事な縫い取りをした服を出してきた。
廊下の奥からイザベラが現れると、皆は息を飲んだ。
フランス風の若々しい衣装に身を包んだイザベラは、花が咲いた様な、水際立った美しさであった。モンパンシエ家の家臣や侍女たちも、思わずため息を漏らした。
イザベラは、キアーラと馬車に乗った。侍女二人は、その向かいの座席に座った。 そして馬車の後には、マントヴァからの従者を含む沢山の随臣たちが騎馬で従った。
一行は、ものものしく王宮に向かった。 イザベラは、身を固くして一点を凝視し続けた。
間もなく馬車は城門の前に着いた。随臣の一人が何か言うと、番兵たちは敬礼し、丁重に通した。
馬車は王宮の正面玄関に停まった。
馬車から降り立ったイザベラは、初めてあたりを見渡した。ブロワ城は、ロアール川右岸の高台にそそり立っていた。中庭には、ルイ十二世の父シャルル・ドルレアンの時代の回廊がある。その横には、赤煉瓦と石組みの対照が美しいゴシック様式の翼棟の建築が進んでいた。
そして、川の対岸には、大きな森が広がっていた。 ソローニュの森である。
イザベラは、意を決して王城に入った。
お城の廊下ですれ違う人々は皆、イザベラを振り返って見て行った。イザベラは蒼白になりうつむいた。
「大丈夫。 貴女が美しいからよ。」
キアーラが耳打ちした。
国王への取次ぎを頼むと侍従が現れ、丁重に立派な部屋へ通された。
「ここで暫くお待ち下さいませ。」
そう言って侍従は出て行った。
しかし、いつまで待っても誰も姿を見せなかった。
「おかしいわ。こんな事一度も無かったわ。」
キアーラが言った。イザベラはうつむいて身を固くしていた。
その時、扉が開き先程の侍従が現れた。
「実は、陛下は急な御用でお出かけになり、暫くお帰りになれません。」
「まあ」
「それで、誠に畏れ入りますが、今日のところは」
「あの・・・どちらへ」
「それは残念ながら、申し上げることは出来ません。」
「それでは、いつお帰りになりますのでしょう。」
「それも今はまだわかりません。ですから、今日の所はお引き取りいただけませんでしょうか?」
キアーラは、立ち上がった。
「是非とも至急、陛下の御耳に入れたきことがございます。
国王代理は、どなたが」
「は、はい、その、シャルル殿下が」
「殿下に今すぐお越しいただけませんでしょうか?」
「はあ、それが」
侍従は口ごもった。
そこをキアーラは重ねて言った。
「何卒、お願い致します。」
有無を言わさぬその響きに押され、侍従は一礼して立ち去った。
「シャルル殿下はね、国王陛下の御親戚なの。王位継承順位はそれほど上ではいらっしゃらないけれど、第1位のフランソワ様達がまだ御幼少だからでしょう。それに、なかなか聡明な御方らしいの。」
イザベラは黙って聞いていた。
暫く誰も現れなかった。
「一体、今日はどうなっているのかしら。」
キアーラは落ち着かない表情で天井を見上げた。
「お待たせ致しました。」
不意に扉が開き、神経質そうな青年が入って来た。
「国王代理です。」
キアーラもイザベラも立ち上がり、フランス式の礼をした。
シャルルは青白く、愁いを帯びた表情の若者だった。イザベラは、その顔を見るなり、この人は決して笑わないのではないかと思った。
イザベラは、一瞬のうちに様々な思いが駈け廻り、心が決まらなかった。
その時、キアーラが言った。
「殿下にお会わせしたい人がございます。」
イザベラは、意を決してシャルルの前に進み出た。
「マントヴァ侯妃イザベラ・デステでございます。」
その言葉に、シャルルはのけぞった。
「国王陛下にお話したきことがございます。
何卒、お目通りを。」
シャルルの額に蒼く血管が浮いた。
「既にお聞きの通り、陛下は急な御用でお出かけです。 何卒お引き取り下さい。」
「焦眉の問題でございます。何処へいらっしゃいましたか、お聞かせ下さいませ。」
「何故です。 何故そうおっしゃるのです?」
「はい、もしもいつまでもお戻りになりません様なら、そこまで参って陛下にお目通りいただきます。」
「えっ」
シャルルは目をむいた。額に汗がにじんでいた。
「それは困ります。外部の方には断じてお知らせ出来ません。」
「それでは、せめて、いつお戻りになりますかお聞かせ下さいませ。」
「それも致しかねます。」
「わかりました。それでは陛下がお戻りになるまで、いつまでも待たせていただきます。」
「えっ」
シャルルは絶句した。
「それは、それは断じて困ります。何卒今すぐお引き取り下さい。」
「殿下」
イザベラは、シャルルの目を見た。
「もしも私が、陛下のお顔を一目も見ずにイタリアへ帰りましたら、何と言われますでしょう。この噂はたちまち伝え広まり、イタリア全土で、陛下が重病だとか、或いはそれ以上のことが取り沙汰されるに違いございません。」
シャルルは、肩を落とした。
「お好きなだけ御滞在下さい。バスタル・ド・ブルボンが捕虜になった時の御恩もあります。御滞在中は、出来るだけのことはさせていただきましょう。」
そう言ってシャルルは出て行った。
「貴女、よくやったわ。」
キアーラは、蒼い顔をして涙ぐんでいた。イザベラは、体の震えが止まらなかった。
やがて一行は、お城の一角に立派な部屋を幾つもあてがわれた。
「お姉様、有難うございました。ここまで来られましたのも、お姉様の御蔭でございます。これより先は」
「お願い、一緒にいさせてちょうだい。貴女を置いて帰ったら、私、心配で死んでしまうわ。」
そう言ってキアーラは、とうとう帰らなかった。イザベラは、頭の下がる思いだった。キアーラがいてくれることは、ただ一つの救いだった。
「お姉様、私はおかしいと思うんです。」
イザベラはキアーラに言った。
「今日の有様は、ただ事ではございません。」
キアーラは、身を乗り出した。
「もしかして、ルイ十二世陛下は、本当に御病気なのでは」
キアーラは息を飲んだ。そう言われてみれば、確かに思い当たる節がある。王の行く先と帰着の日時を決して言わない対応、口ごもり、そして、イザベラに
「このままでは、フランス国王は重病という噂が流れます。」
と指摘された時のシャルルの狼狽。
「そうかも知れないわ。何だか、そんな気がしてきたわ。」
キアーラは、声を震わせた。
「この戦時下ですもの、もしそうなら絶対に極秘よ。」
「お姉様、その場合はどうなるのですか? どなたが決定なさるのです?」
「それは、国王代理よ。」
イザベラは、心に決めた。
「お姉様、もう、私は陛下を待ちません。
明日からは全力で、シャルル殿下と交渉致します。」
キアーラは、不安な表情を浮かべた。
「気をつけて。貴女も御存知の様に、あの重臣たちがマントヴァを狙っているのよ。 シャルル殿下は聡明で、気難しいまでに潔癖な御方とは聞いているけれど、まだお若いし、あの重臣たちがついていたのでは・・・」
そう言ってキアーラは顔を曇らせた。
次の日、イザベラはシャルルの執務室を訪れた。シャルルは不在であった。
取次に出てきた女官に訳を話すと、女官は丁重にイザベラを中へ入れた。
イザベラは椅子に掛け、シャルルを待った。
1時間、2時間・・・イザベラは、時計の針を見続けた。しかし、シャルルは現れなかった。
イザベラは、それでも待ち続けた。
不意に扉が開いた。
「殿下」
イザベラは立ち上がった。
シャルルは仰天し、すぐさま出て行こうとした。
「お待ち下さい、殿下。」
シャルルは扉に手を掛けたまま、少しの間、動かなかったが、やがておもむろに中へ入って来た。
「国王陛下は、まだお帰りではありません。」
シャルルは、平然と言った。
「殿下、私は今日は殿下に御用で参りました。」
「えっ」
シャルルは一歩後ずさりした。
「もう私は決めました。焦眉のことゆえ、いつお戻りになるかも知れぬ国王陛下をお待ちすることは出来ません。私は殿下にお話をお聞きいただきとうございます。」
「そ、それは困ります。私は時間もありませんし。」
「一国の運命がかかっているのです。」
イザベラはシャルルの目を見据えた。
「戦のことなら重臣たちを呼びます。」
シャルルは強い口調で言い、戸口に向かおうとした。
「お待ち下さい。」
イザベラは、シャルルの前に立った。
「私は殿下に、お話をお聞きいただきたいのでございます。
私は殿下を見込んで来たのです。」
「いや、戦のことは重臣たちです。私におっしゃって下さっても困ります。」
シャルルは強硬に言った。
「殿下」
イザベラは涙ぐんだ。
「私はこうして殿下にお話し致しますだけでも、胸が張り裂けそうなのでございます。 それをこの上」
シャルルはうつむいた。
「殿下、私は殿下を非常に聡明な御方と承りました。その殿下を見込んで参りましたのです。」
シャルルは力無く椅子に座った。
「私は忙しいのです。時間が無いのです。」
「今日が御無理でございますなら、日を改めて何時か」
シャルルは顔を挙げた。
「また、時間を作りますから、どうぞ今日のところは」
イザベラは、一礼すると力無く執務室を出た。
部屋に戻ると、キアーラが震えながら待っていた。
「どうだった?」
キアーラは、イザベラの姿を見るとすがりついた。イザベラは、消え入りそうな声で事の成り行きを話した。
「お姉様、どう思って下さいます? これは、どういうことなのでしょうか?」
キアーラは考え込んだ。
「相当、重臣たちにたきつけられていらっしゃるみたいね。」
「えっ」
イザベラは蒼くなった。
「でも、かなり貴女の誠意が通じたみたいよ。」
「本当ですか、お姉様。」
「ただ、これで終わっては駄目よ。重臣たちがまた何か言わないうちに。」
「殿下は、そのうちお時間を作って下さるとおっしゃいましたが。」
「その様なこと、沙汰やみになってしまうでしょう。殿下も、こんな大変なお話は避けて通りたく思っていらっしゃるはずだわ。」
イザベラは泣きそうな顔になった。
「わかりました。私は明日から毎日、殿下がお話をお聞き下さるまで執務室で待たせていただきます。」
イザベラは、次の日も執務室へ行った。シャルルはまた不在で、昨日と同じ女官が出て来て、イザベラを中へ通した。
今日もシャルルはなかなか姿を見せなかった。イザベラは待ち続けた。待ちながらイザベラは、言うべき言葉を心の中で繰り返した。心臓が早鐘の様に打つのが聞こえた。
「殿下」
イザベラは立ち上がった。
シャルルは扉に手を掛けたまま、動かなかった。
「困るんです。時間が無いんですから。」
シャルルは強い口調で言った。
「時間が無くても結構です。」
「えっ」
「お時間が出来ますまで、私は何時までもここで待たせていただきます。」
「そんな」
シャルルはうろたえた。
「困るんです。本当に。もうずっと予定が詰まっているんです。」
「結構です。」
「どうか、もう」
シャルルはうなだれた。
「ここで待たせていただきますと、心が落ち着くのです。
殿下までどこかへ行ってしまわれるのではないかと、私は心配でなりません。
ここにいるのが一番落ち着くのです。」
シャルルは顔を挙げた。
「わかりました。3日後の午前10時に、ここで会いましょう。」
イザベラは、一礼すると静かに部屋を出た。
三日間をイザベラは千秋の思いで待った。
もうこれで本当に最後なのだ。この一日をしくじれば、自分の命も、そして国の命も消え失せるのだ。
運命はまさに風前の灯に思われた。
イザベラは、身を震わせて待った。
午前10時、部屋の扉が叩かれた。
侍女が開けると、シャルルからの使いが立っていた。
「殿下がお待ちでございます。」
イザベラは立ち上がった。
見送るキアーラの顔は蒼白で、瞳は震えていた。
イザベラは部屋を出、使者について静かに執務室へ向かった。
執務室の前でイザベラは、着物の上から懐剣を押さえた。
イザベラは、落ち着いた足取りで執務室に入った。
シャルルは立ち上がり、丁重にイザベラに椅子を勧めた。
机を間に向き合って坐ると、先ずシャルルが口を開いた。
「侯妃、私はまず貴女に賛辞を呈しましょう。」
イザベラは、目を見開いた。
「これは、率直な心からです。貴女はよく女人の身でこの様なところまで来られましたね。
普通、貴女には二つの道しか残されていないでしょう。」
イザベラは黙ってシャルルの目を見た。
「生きてこの城をお出にならないか、或いは、捕らわれの身となられてマントヴァを逆落としに窮地に追い込まれるか」
「いいえ、殿下」
イザベラは静かに言った。
「私には、もう一つ道がございます。」
「とおっしゃいますと」
「マントヴァを攻めないとの御言葉をいただいて、生きて還る道でございます。
私は殿下を、その様な御方と信じて居ります。」
シャルルはうつむいた。
「殿下、マントヴァは小さな国です。
ただ、あるのは文化です。フランスがマントヴァを攻略しても、得るものは殆どございません。
唯一残るべき文化も、その暁には灰塵に帰しましょう。
しかし、」
イザベラの声に力がこもった。
「フランスがマントヴァを攻略しました暁には、失うものこそ甚大です。
マントヴァは小さな国ゆえに、国民は一致団結してフランスに立ち向かう覚悟でございます。
フェラーラ戦争の折り、私の父が病臥して居ります間に、国民は手に手に武器を持って立ち上がり、押し寄せる法皇・ヴェネツィア連合軍に立ち向かっていきました。
そして、勝利を収めたのです。
今、マントヴァでは、まさにあの時と同じ光景が繰り広げられて居ります。
国民は自ら武器を揃え、子供たちまで戦の訓練に励み、フランスの大軍を前に一歩も引かない構えでございます。
マントヴァは戦い抜きます。最後の一人が倒れる日まで。
それは、もはや抑え難い、湧き上がる国民の力なのでございます。
凱歌と共に侵入したフランス軍は、そこに累々たる屍の山と廃墟と、そして草一本生えない荒れ地を見るのみでございましょう。
その暁には必ずや、フランス軍も埋め難い痛手を負うことは必定です。」
イザベラは、静かに言った。
「殿下、マントヴァは野に咲く花です。
殿下はそれを手折る様な御方ではない、と私は信じて居ります。」
シャルルは暫く頭を垂れて動かなかったが、やがて出し抜けに顔を挙げると言った。
「もうすぐ会議が始まります。今日の所はお引き取り下さい。」
イザベラは、その夜眠れなかった。
全ては終わったのだ。しかし、シャルルは何を思ったのか全く分からなかった。
明け方の薄青い光を見ながら、イザベラは涙をこぼした。
数日後、不意に部屋の扉が叩かれた。
侍女が開けると、侍従が立っていた。
「殿下がお呼びです。 お越し下さい。」
イザベラは口も利けずについて行った。
執務室の扉の前でイザベラは足を止めた。
そして、着物の上から懐剣を押さえると、意を決して部屋に入った。
「これに御署名ください。」
シャルルは、今何か書き終えたらしく、羽根ペンを収めると、羊皮紙をイザベラの方へ向けた。
見るなりイザベラは我が目を疑った。
それは、まさにマントヴァとフランスの不可侵条約というべき内容であった。
そして、両国を全く平等に処遇するものであった。
「私が国王代理である間、これは有効です。
そして、陛下がお戻りになった暁には、必ず同じ内容で正式な不可侵条約を発効することをお約束致します。」
イザベラは、体の震えを抑えながら、マントヴァ侯爵フランチェスコ・ゴンザーガの名を署名した。
イザベラは、出国手続きを願い出た。
しかし、受諾されず、暫く待つ様に言って来た。
「変だわ。どういうことなのかしら。」
イザベラもキアーラも、一気に不安に突き落とされた。
「いくらあの様にお約束下さっても、ここから出られない限り」
イザベラは泣きそうになった。
「でも、それならわざわざあんなことなさる必要は無いと思うの。」
キアーラは言った。
「じゃあ、どういうことなのでしょう、おねえ様。」
「わからないわ、全く。」
次の日も、その次の日も、出国許可は下りなかった。
イザベラは、廊下の突き当りでぼんやりと外を見つめていた。
ここには美しい椅子とテーブルが置かれ、小さなサロンになっているのだ。
そして、窓からはロアール川がよく見えた。
キアーラは落ち着かないのか黙々と刺繍に耽り、イザベラは部屋にいて切なくなるとここに来るのだった。
「あっ、殿下」
イザベラは、はっとして立ち上がった。シャルルが通りかかったのだ。
「殿下、御許可はまだでございますか?」
シャルルは黙ってうつむいた。
「私は一日も早く国へ帰り、人々に殿下の寛大な御心を知らせて喜ばせとうございます。」
「もう少し、待って下さい。」
シャルルはそう言うと立ち去った。
次の日も許可は下りず、イザベラはいたたまれない気持ちで廊下のサロンの椅子に掛けてロアールの流れを見つめていた。
不意に向こうから賑やかな声がして、数人の若者が現れた。
そして、その中にシャルルもいた。
イザベラは驚いた。 シャルルが笑っているのだ。いつも悲しげな表情で、絶対に笑わないのかと思っていたシャルルが。
イザベラは我が事の様に嬉しくなり、明るい顔で部屋へ帰った。
依然として許可は下りず、イザベラは毎日矢も楯もたまらない思いで過ごした。不安で胸は絞めつけられた。
イザベラは部屋を出た。心の休まる場所は、あのロアールの流れが見える廊下の突き当りの小さなサロンしか無かった。
イザベラは足を止めた。そこに、シャルルが数人の若者たちと立っているのだ。シャルルはイザベラの顔を見ると、子供の様な笑みを満面に浮かべた。
そして、イザベラの前を笑みを浮かべたままうつむいて通り過ぎ、廊下の向こうに行ってしまった。
イザベラはそれを見て、力無く部屋に戻った。これ以上、出国許可のことを口にするのは許されない様な気がした。
イザベラは、それから何日も殆ど部屋を出なかった。
イザベラは、或る夜、久しぶりにあの廊下の小さなサロンに行った。この時刻ならシャルルは姿を見せないであろう。イザベラは窓から夜のロアールの流れを見つめた。川面には美しい月影が映っていた。
イザベラは、はっとして振り返った。
シャルルが立っているのだ。
シャルルは向かいの椅子に座り、一点を凝視した。
「私は、独りぼっちなのです。」
不意にシャルルはそう言うと、蒼白の顔をしてうつむいた。
やがてシャルルは立ち上がり、黙って窓際に歩み寄った。 そして窓辺に手をかけ、暗い外を見た。
「殿下」
イザベラは、静かに言った。
「私は初め、殿下はお笑いにならない御方かと思いました。 いつもお寂しそうな、もの悲しげな御顔で、私は心配致しました。
殿下が初めてお笑いになったのを見ました時、嬉しかったのです。とても。」
イザベラは、目頭を押さえた。
「私には、フェラーラに4人の従弟たちが居りました。殿下を拝見して居りますと、あの従弟たちのことを思い出すのです。」
イザベラは静かに、あの4人の従弟たちのことを話し始めた。11年前の光景が鮮明に胸に甦った。
シャルルは身じろぎもしなかった。
「あの無邪気な笑顔。 あの従弟たちは私にとって、命と同じくらい大切な、かけがえの無い宝でした。」
イザベラの目に涙が光った。
「私は、一心に壁掛けを刺繍しました。小さな壁掛けを。」
イザベラは、夢を見る様な目をした。
「クリーム色の布に、薔薇の花、百合の花、そしてひな菊、花かごの絵を刺繍したのです。幾夜も寝ずに。出来上がりましたのは、フェラーラを発つ三日前でした。弟に届けてもらったのです。 でも」
イザベラは目を伏せた。
「4人とも、誰も見送りには来てくれませんでした。」
イザベラが話し終わっても、シャルルは身動きしなかった。
イザベラは、遠くの一点を見つめていた。
シャルルは静かに立ち去った。
イザベラは顔を挙げた。窓は白々と黎明を告げていた。
イザベラは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
昨夜、イザベラは部屋に戻ると、キアーラに刺繍の道具を借り、クリーム色の布を探してきて、記憶をたどりながらあの同じ花かごの絵を刺繍し始めた。イザベラは、夜通し一心に刺繍し続けた。何度も指を突いたが、それでも構わずにイザベラは、一針一針心を込めて刺しては抜き、また刺しては抜いた。まるで何かに導かれる様に、不思議な速さで針は運び、そして今、小さな壁掛けが出来上がった。
イザベラは、夜明けのブロワに静かな感動を覚えた。
その時、不意に部屋の扉が叩かれた。
まだキアーラも侍女たちも寝て居り、イザベラは急いで開けに行った。
「ただ今、出国許可が下りました。」
イザベラは、口も利けなかった。
「こちらが通行証書でございます。」
それにはシャルルの署名が成されていた。
「有難うございます。 今すぐ殿下に御礼を申し上げたいのですが。」
「それが・・・殿下は今しがたソローニュの森へ狩りにいらっしゃいました。」
イザベラは震える手で通行証書を受け取り、その筆跡を見つめていた。
キアーラは、涙を流して喜んでくれた。
そして急いで朝食を済ませると、お城を出る支度にかかった。
午前11時、全てが完了した。
「お姉様たちは、どうか先にお行き下さい。私は、あと少しだけ用がございます。」
「そう。それでは先に馬車に乗ってますわね。」
皆は行ってしまった。
やがて、イザベラは独り部屋を出た。
イザベラは、あの廊下の突き当りの小さなサロンへ行った。
そして、昨夜一心に刺繍した小さな壁掛けを取り出すと、しばらくじっと見つめていたが、そっとそれをテーブルに置き、静かに立ち去った。
馬車に乗る前にイザベラは振り返り、ソローニュの森を見やった。
ソローニュの森は、フランス特有の真珠色の空の下に、深緑にけむっていた。
馬車の座席でイザベラは、決して振り返らず、馬車が王宮から離れて行く車輪の音を聞いていた。
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