第15章 レオナルド・ダ・ヴィンチ

その年(1499年)の秋から冬にかけて、沢山の人々がミラノから亡命してきた。その殆どがスフォルツァ家の親族、廷臣、そしてロドヴィコに仕えた芸術家や学者たちであった。

イザベラは、国を失って亡命して来た人々の悲しみに胸が絞めつけられる思いで、誠心誠意もてなした。

既に心は決まり、フランチェスコもイザベラも秋の空の様な明るさをたたえていた。


「イザベラ、大変な人に会わせてあげよう。」

ミラノから来た子供たちにせがまれてトランプをしていると、フランチェスコが入って来た。

イザベラはフランチェスコに入れ替わると、急いで冬の居間へ行った。

50歳くらいの上品な、しかし、どこかただ者ではないと感じさせる眼光の紳士が立っていた。

「レオナルド・ダ・ヴィンチでございます。」

イザベラは、息を飲んだ。

「ミラノより仮の宿りを求めて参りました。」

「先生」

イザベラは頬を染めた。

「先生の様な御方にお会いできて、夢かと思います。」

レオナルドは戸惑いの表情を浮かべ、深く一礼した。


或る日、イザベラが廊下を通りかかると、レオナルドは独りアーチ形の窓から中庭を見つめていた。

イザベラは足を止めた。

暫くすると、レオナルドは振り返った。レオナルドは何も言わずにイザベラの顔を見つめたが、やがて眼に涙を浮かべた。

「お許し下さい。 ミラノの亡きお妃様のことを思い出したのです。」

レオナルドは、遠くを見る様な目で言った。

「サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会で『最後の晩餐』を描いて居りました時、お妃様はよく、いつまでもたたずんで御覧になり、そして静かに帰って行かれました。」

レオナルドは、はっとした。イザベラの肩が小刻みに震えていた。レオナルドは黙ってうつむいた。

イザベラは振り返り、涙に濡れた目に笑みを浮かべた。

「先生、お願いがございます。」

イザベラは、急に思いつめた表情をした。

「先生の様な偉大な御方にこの様なお願いを申し上げますのは、消え入りたい思いでございますが、私の肖像画をお描きいただけませんでしょうか。」

イザベラはうつむいて笑った。

「私は昔から肖像画を描かれるのが大嫌いでした。ちょっと、はにかみ症なんです。それに、肖像画って、なかなかそっくりに出来上がりませんし、全然似てないことが殆どでございました。」

イザベラは、顔を挙げた。

「先生、私にはもうすぐ6歳になる娘が居ります。

人の世のはかなさを思う時、私はもう自分がいつ死んでもおかしくないと思って居ります。ただ、その時、心に残りますのは幼い娘のことでございましょう。

私は娘に、せめて一枚の肖像画を持たせてやりとうございます。」

レオナルドはイザベラの瞳がかすかに震えているのを見た。


その夜、レオナルドはまんじりともしなかった。

「あの侯妃は死ぬつもりらしい。肖像画が出来上がるのを待って。」

レオナルドは、そんな直感を振り払うことが出来なかった。


夜が明け、約束の時間が来た。

レオナルドはカンヴァスに向かって坐り、静かに待った。

扉が開いて、イザベラが現れた。イザベラは黒い服に身を包んでいた。

カンヴァスの前に坐ったイザベラを、レオナルドは暫く、射る様な目で見据えた。

「お妃様、御髪をほどいて下さい。」

イザベラは、我が耳を疑った。

イザベラは、静かな声で言った。

「先生、申し訳ございませんが、既婚夫人はその様なことは致しません。」

しかし、凝視したままレオナルドは強い声で言った。

「聖母像の様に、髪を垂らしてほしいのです。」

イザベラは目を伏せ黙っていたが、やがて立ち上がると、静かに出て行った。


暫くして、イザベラは戻って来た。

その豊かな髪は肩に垂らされていたが、その上を、有るか無きかの薄いベールが覆っていた。

レオナルドは黙々と素描を始めた。イザベラは恐ろしい様なものを感じた。仕事をしている時の天才の目が、これほど突き通す様なものかとイザベラは驚いた。それは、カンヴァスから離れた時のあの穏やかな表情からは想像も出来ないものだった。


夜、レオナルドは独り机に向かい、考えに耽っていた。

もう、彼の頭の中には構図が出来上がっていた。

そして、これこそ、彼の死後数十年経って、ゆくりもなく「モナリザ」と命名されたあの絵だった。

レオナルドは、様々な角度でイザベラの肖像画の素描を何枚も描いた。

そして、どれも頭部の寸法を正確に21㎝にした。

そればかりでなく、組んだ手の位置も、あらゆる素描を通じて殆ど一致する様、心がけた。

後にこれらの素描から正確に寸法を測り取って、油彩に描くためである。

レオナルドが複数の角度でイザベラの素描を描いたのは、透視法を重んじ、奥行きや立体感を追求する彼の自然科学的理念からであった。


この絵をレオナルドは、終生離さなかった。最晩年、フランス国王フランソア一世のたっての要請で招かれアルプスを越えた時も、そして今わの際までレオナルドはこの絵を決して離さなかった。


「お妃様、お疲れではありませんか。」

「いえ、大丈夫です。」

「それでも、少し休憩に致しましょう。

今日は面白いものを持って参りました。」

レオナルドは、古いスケッチ・ブックを取り出してイザベラに差し出した。

「これは、私の最初のスケッチ・ブックです。もう40年も前になりますが。」

イザベラは、一頁一頁丁寧にめくった。イザベラは、わけもわからず涙が出て来て、どうすることも出来なかった。

レオナルドは続けた。

「私の育った環境は複雑で、私は物心ついた時から、生きていくことはつらい事と思う様になって居りました。

あれから40年。私は何度も死を考えたことがあります。

それでも死ぬことが出来なかったのは、絵があったからです。ひとたび絵を描くことを知った人間は、どうしても、どんなにつらくても死ぬことは出来ません。」

レオナルドは、イザベラの目を見た。

「お妃様、貴女様は絵をお描きになりますか?」

「いいえ。」

「それでは、これから私が手ほどき致しましょう。 きっと早晩、貴女様も」

「先生、私に絵が描けるのですか?」

イザベラは、小さく叫んだ。

「私はいつも素晴らしい絵を見るたびに、同じこの世に生きて、こんな高い境地を見ることが出来たなら、その場で死んでも構わないと、そう思って参りました。」

レオナルドは涙ぐんだ。

「あっ」

レオナルドは、やにわにそのスケッチ・ブックから、僅かに残った白い紙をはぎ取った。

「これを差し上げます。」

イザベラは、震える手で受け取った。

「この紙に何か描いて下さい。」

イザベラは、花を描き始めた。

イザベラは、憑かれた様に描き続けた。

何時間経っても一心不乱に描き続けているので、レオナルドは心配になり、そっと背後から覗き込んだ。

レオナルドは、我を忘れて声を挙げた。

「ラファエロだ」

イザベラは驚いてレオナルドの顔を見上げた。

「まだ16歳の少年ですが、彼は天才です。」

レオナルドはイザベラの目を見た。

「お妃様、貴女様は何としてもこの世に生きねばならない御方です。」

その言葉に、イザベラは目を伏せた。


年の暮れ、レオナルドは肺炎で倒れた。

イザベラは侍女たちと、つきっきりで容態を見続けた。この一両日、レオナルドはやっと峠を越した様であった。


「ここにいたのか。」

フランチェスコがつまらなそうな声を出してレオナルドの病室に入って来た。

「まあ、殿、そのお怪我は」

イザベラは驚いて立ち上がった。フランチェスコの頬に血がにじんでいた。

「ちょっと桜の木にぶつかったんだ。」

「まあ。 今お薬をつけて差し上げますわ。」

「いいよ、いいよ。」

フランチェスコは困った様な顔をしたが、イザベラが塗り薬をつけると上機嫌で出て行った。

暫くするとフランチェスコは、エレオノーラを肩に乗せて入って来た。イザベラは振り返ってレオナルドが眠っていることを確かめると、小声で言った。

「殿、エレオノーラが肺炎になったらどうするんです。」

フランチェスコは慌ててエレオノーラを連れて出て行った。

夜になってフランチェスコは独りでまたやって来た。そして、侍女たちを下がらせ、冗談を言ったりしながらいつまでも部屋を離れなかった。

「君は疲れているから、もう休みなさい。後は僕が見ていてあげるよ。」

フランチェスコはそう言いながら、間もなく椅子に掛けたまま子供の様な顔をして眠ってしまった。燭台の光がその寝顔を暗い部屋の中に照らし出していた。

イザベラは、長い時間泣いた。

夜半、イザベラは窓の外が明るいことに気がついた。イザベラは静かに窓辺に歩み寄り、そっとカーテンを開けた。外は一面うっすらと雪が降り敷いていた。

「ああ、雪だわ。」

イザベラは、天を見上げた。イザベラには、雪の降る音が聞こえる様な気がした。


1500年が明けた。

肺炎から回復すると、レオナルドはまた素描を描き始めた。そうしながらも、レオナルドは不安を払いのけることが出来なかった。

「侯妃はこの絵の完成を待って、何か事を起こすつもりだ。そして、それは死を意味することらしい。」

レオナルドは、もはやこの国にいることは出来ないと思った。

カンヴァスに向かって描きながらも、いつか手は止まっていた。

「先生、どうかなさいましたか。」

「い、いえ。」

「先生、もしやお体の御加減が」

レオナルドは向き直った。

「お妃様、今日まで黙って居りましたが、私は、実はもうこの国を去らねばならないのです。」

「えっ」

「お許し下さい。この絵を今ここで完成することは出来ません。

どうか、どうかお待ち下さい。」

「先生、必ず完成して下さいますか。」

「はい、この絵は私の命です。私はこの絵に、お妃様の御姿だけでなく、魂まであますなく描いてみせます。」

イザベラの目に涙が溢れた。

「お妃様、待っていて下さい。

待つ人なくしては、絵があわれです。」


いよいよレオナルドが発つ日が来た。

イザベラは、お城の表玄関まで見送りに出た。

まだ、あたりは暗かった。

「先生、この世に生まれて先生の様な御方にまみえることが出来、私は幸せでございました。」

イザベラは涙ぐんだ。

レオナルドは、何も言えず深く一礼した。

行きかけて、レオナルドは振り返った。

「お妃様、どうかいつまでも、このお城にいらして下さい。」

イザベラは、涙を抑えてうなづいた。



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