第14章 ミラノ陥落

翌1498年4月、イタリアは重大な運命の転機を迎えた。


「イザベラ、どうした?」

ミラノ公ロドヴィコ・スフォルツァからの手紙を読むイザベラの手が震え、

顔はみるみる蒼白になっていった。

イザベラは手紙を差し出した。フランチェスコは引き取ると、食いつく様に読み始めた。

「・・・フランス国王シャルル八世陛下崩御」

フランチェスコの顔から一気に血の気が引いた。

「・・・王に御世継ぎ無く、ルイ・ドルレアン公即位したもう由承り候・・・はや我が命運も極まれりと」

ロドヴィコは、ミラノが狙われていることを知った。新国王ルイ十二世は、スフォルツァ家によって倒された元のミラノ公爵ヴィスコンティ家の末裔であり、ミラノの支配および北イタリアの征服という大きな野望を抱いていたのだ。

フランチェスコは戦慄が走るのを覚えた。3年前、対仏大同盟の総大将としてオルレアン公ルイをノヴァーラで包囲し、遂に陥落させた時のことがまざまざと脳裡に甦った。あのルイが今、王位に就き、虎視眈々と機会を伺っているのだ。


ロドヴィコは即座に神聖ローマ皇帝マクシミリアンと同盟を結んだ。

そして、この新しい同盟軍の指揮官をフランチェスコに依頼して来た。


「殿、どうしても駄目でございますか?」

「落ち着いて考えてみて。それは僕だって、出来る限りのことはして差し上げたい。 でも、これだけは無理だ。」

「殿、後生でございます。」

「どうして・・・どうして、分かってくれないんだ。聡明な君が。

これは、絶対に勝ち目の無い戦なんだ。」

イザベラは、涙を浮かべた。

「私は、どうしてもロドヴィコ様をお見捨てすることは出来ません。」

フランチェスコは何も言えなかった。

フランチェスコは何時もイザベラを賛嘆の目で見ていた。どんな男性も真似のできない不思議な力の持主だと信じていた。イザベラは、この8年間にマントヴァの名を一気にヨーロッパ中に知らしめた。誰からも愛され、どんな難しい相手も説き伏せ、そして絶えず周りの人間に信念に満ちて希望を説くイザベラ。フランチェスコは、自分があの数多の勝利を収めることが出来たのもイザベラの御蔭だと信じていた。そして、フランチェスコは、イザベラのこの不思議な力の根源にあるのが愛情深さだと知っていた。これがイザベラを何事も愛さずにはいられない思いへと駆り立て、全てのことに全身全霊で打ち込ませ、そして人の心を打つのだ、と。

今、あらゆるイタリアの諸侯が、窮地に立つロドヴィコから離れて行こうとする時に、イザベラは独りロドヴィコを見捨てることが出来ないと言う。

フランチェスコは、目をつむって受諾書に署名した。


ロドヴィコは狂喜し、是非マントヴァへ行きたいと書いて送った。直接会って御礼が言いたい、と。

マントヴァでは、ミラノ公を迎えるための支度で大騒ぎになった。

イザベラは、ロドヴィコがベアトリーチェのためにまだ喪服を着ていることを聞いて涙がこみ上げた。

そんなロドヴィコに、涙を振り払って前向きに生きる自分の思いが・・・ベアトリーチェへのこの自分の思いが理解してもらえるだろうか、と思うと心が暗然とした。

「私はもう泣いていない。喪服も着ていない。でも、それはベアトリーチェへの思いが浅いからではない。

私が精いっぱい明るく生きようとしている姿を御覧になってロドヴィコ様が

『自分には、やらねばならないことがあった。』

と思い出して下さいます様に。」

イザベラは、そう祈った。

ロドヴィコは悲しみのあまり自らの棺を作らせ、今はただ未来永劫ベアトリーチェの横に眠ることをのみ願っていると聞いていた。


6月8日イザベラはミラノに派遣した秘書のカピルピに手紙を書いた。

「閣下の御滞在中は、私の部屋を全て明け渡して、閣下の御使用に供します。『フレスコの間』と、その前室『日輪の小部屋』、そして格天井の部屋、その他です。閣下には、格天井のお部屋にお泊りいただこうと考えて居ります。

ここには黒と紫の壁飾りを用意致します。閣下はまだ喪に服して居られるとお聞きしましたが、黒一色に致しますより、少しでも御心を和ませて差し上げたいと思うゆえでございます。そして、この折りだけでもしばし悲しみをお忘れいただきたいという私たちの切なる願いを表したかったのでございます。

でも、このことを一度、ご相談いただけませんでしょうか? もし、直に閣下にこの様なことを申し上げるのは良くないとお考え下さいますなら、ヴィスコンティ様およびフェラーラの使節アントニオ・コスタビリ様にお話し下さいませ。そして、その方々の御意見をお知らせ下さいませ。たとえ閣下が御自分のお気に入りの壁掛けを持ってお越しになる様なことがございましても、こちらで全く壁飾りを用意致しませんのは不都合かと存じます。

それから、前にもお願い致しましたが、閣下が日々どの様なワインをお召しか、そして私は如何なる服を、やはり黒い服を着ますべきか、お知らせ下さいませ。」

ロドヴィコは、このイザベラの心遣いに深く心を打たれた。そして、自分がどんなに感激したか、率直に手紙に書いてきた。

数日後イザベラが過労から熱を出したと聞くと、ロドヴィコはすぐ自分の道化師バローネを呼び、面白い芸で侯妃をお慰めする様申しつけてマントヴァに遣わした。


1498年6月27日ロドヴィコは1000人の従者を従えてマントヴァに入場した。

ロドヴィコは何よりも宮殿の壁という壁を覆い尽くす見事なフレスコ画と、ストゥディオーロに集められた珠玉の芸術品に驚異の目を見張った。

「いつの間に・・・」

ロドヴィコは絶句した。

やがて、イザベラの方に向き直ると、ロドヴィコはしみじみと言った。

「羨ましい。 貴女の若さが。 そして、この国の若さが。」

ロドヴィコは椅子に掛けた。

「ミラノは大木です。しかし、もう老木です。倒れるを待つだけの」

イザベラは、首を振った。

「侯妃、何故・・・貴女は何故見捨てないのです? イタリア中がこのロドヴィコから離れて行こうとする時に。」

イザベラは、目に涙をためた。

「紫のゆかりでございます。」

ロドヴィコは顔を挙げた。

「一本(ひともと)の紫草を愛すれば、同じ野に咲く花はみな愛惜せずにはいられません。」

イザベラの頬を涙が伝った。

ロドヴィコはうつむき、声を立てずに肩を震わせた。


フランチェスコはロドヴィコのために数々のトーナメント(騎馬試合)や喜劇を催した。ミラノの廷臣たちは、公爵がこんなに明るい顔をして笑ったのは一年ぶりだ、と言った。

3日間の忘れ難い滞在を終え、ロドヴィコは何時までも船の上から手を振りながらミラノへ帰って行った。


11月初旬、フランチェスコとロドヴィコの間に協定が調印された。

ロドヴィコはイザベラの尽力に感謝し、心を込めて御礼状を書いた。




1499年が明けた。

「早馬でございます。お妃様からの早馬でございます。」

「何っ」

フランチェスコは立ち上がった。

イザベラは今、フェラーラにいた。

フランチェスコは手紙を受け取るや、荒々しい手つきで封を切った。

「ヴェネツィア・フランス間に条約締結との急使が、ただ今フェラーラに到着しました。一刻も早く御耳に入れたく、早馬送ります。」

フランチェスコは頭を強打された様な気がした。


事態はとどまるところを知らなかった。

フランス国王ルイ十二世は、ローマ法皇の息子チェーザレ・ボルジアに支援金と爵位を与え、ローマを味方に引き入れた。さらにフィレンツェとも手を結び、完全なミラノの孤立化を図った。


1499年5月、遂にフランチェスコは極秘にルイ十二世と会見し、剣を預けた。

ルイ12世は喜び、聖ミカエル勲章を贈呈した。


イザベラは、ただひたすらロドヴィコのために祈り続けた。

秋になり、イザベラは風にも虫の音にもミラノを思い、涙を抑えることが出来なかった。


「イザベラ、イザベラ」

揺り起こされてイザベラは薄目を開けた。

「あっ、殿」

イザベラは、枕元のフランチェスコにしがみついた。

「どうだ、具合は。」

侍女たちも心配そうに取り囲んでいた。

「ミラノが・・・ミラノが燃えているんです。」

イザベラの唇は蒼白だった。

「可哀想に。君は夜中に高熱を出してうなされていたんだ。」

その時、部屋の扉が激しく叩かれた。急いで侍女が開けに行った。

侍女は、後ずさりした。

泥まみれの若者が両肩を抱えられて担ぎ込まれた。一気に部屋中に硝煙のにおいが立ち込めた。

「ミラノよりの急使でございます。」

イザベラは、息を飲んだ。

「昨日、ミラノが、ミラノが陥落しました。」

部屋はどよめきに包まれた。

「スフォルツァ家の傭兵隊長トリヴルツォが裏切ったのです。トリヴルツォはフランス軍の手先となり、先頭を切って侵入しました。

ミラノ公はベアトリーチェ様のお墓に立ち寄られ、最後のお別れをおっしゃると、いづこへともなく落ちて行かれました。」

いつかあたりはすすり泣きに変わっていた。


イザベラは、或る晩フランチェスコに呼ばれた。フランチェスコは、何通かの手紙を見せた。

「マントヴァへの亡命の要請なんだ。スフォルツァ家ゆかりの人々から。」

イザベラは、うつむいた。

「他の国々は、フランスを恐れて拒否している。」

フランチェスコは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

「僕は」

フランチェスコは、暗い外を見た。

「僕は受け容れようと思う。」

イザベラは驚いて顔を挙げた。

「もう、乗り掛かった舟だ。

困った人を助けて神様がお見捨てになるわけが無いって、君はいつも言ってるだろう。」

フランチェスコは振り返った。

「私のために、私のためにそうおっしゃって下さるのですか?」

「違う。僕の考えがそうなんだ。君と一緒にいるうちに、いつの間にか僕までそんな人間になってしまったんだ。」

フランチェスコは笑った。

「僕はどこまでも君と一緒だ。それでだめなら悔いは無い。死出の旅路も一緒に行こう。」

フランチェスコはイザベラの目を見た。

「万に一つの折りは、エレオノーラのことはエリザベッタに頼もう。」



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