天羽々斬へ、愛を捧ぐ

「おじいちゃん、おばあちゃん。お世話になりました!」


 伊織は涙目になりながら頭を下げる。玉藻の「ボクには?」という言葉には何の反応も見せない。代わりにいろはが「黙っておけ」と玉藻の頭を小突いていた。


「元気でな。身体には気を付けるんだぞ」

「帰ってくるときは連絡ちょうだいね」


 祖父母は伊吹と伊織の顔を見て微笑んだ。伊織の隣に立っている伊吹は、気まずそうに視線を逸らす。

 今日まで伊吹も伊織も朝日奈家で寝泊まりをしていたのだが、ずっとこの調子だ。祖母とは特に何もなかったが、祖父とは言い合いまでしていた間柄。加えて、伊吹自身が引き起こした件では祖父が動いてくれていたため、余計に気まずいのだろう。


「ほら、お兄ちゃん。何か言いなよ。お世話になったんでしょ」

「わかってるよ。その……いろいろ、ありがとう。じいちゃん」


 迷惑をかけてごめん、と軽く頭を下げる伊吹に、祖父は「たまには帰ってこい」と声をかけた。


「千早ちゃん、夏休みにまたこっち来るけど、あたしのとこにも遊びに来てね! いろはさんと玉藻さんと一緒に!」

「え? あ、うん、遊びに行くね」

「……まあ、何かあったら言えよ。聞くくらいならしてやる」

「伊吹さんの話も聞いてあげてもいいですよ」


 言い返すと伊吹は目を丸くしていたが、言うようになったな、と笑った。

 実のところ、これまでのこともあり、言い返していいのかとは思ってしまう。それでも、こうして少しずつ打ち解けていくことができれば。

 別れの挨拶を済ませた伊吹と伊織は、手を振りながら千早達に背を向けて歩いて行く。その姿は小さくなっていき、やがて見えなくなった。祖父母は家の中へ入り、いろはと玉藻それに続く。千早だけは、二人が見えなくなったあともずっと見つめていた。


「あの二人が羨ましいか」


 千早が来ないことに気が付いたのか、いろはがやってきた。


「わたしは……ずっと、八岐大蛇のことばかり考えて生きてきました。退治した今、心にぽっかり穴が空いてしまったみたいで、自分が何をしたいのかわからないんです」


 振り返り、千早はいろはを見る。

 いろはなら、何か言ってくれそうな気がしたのだ。焦らなくていいと言った、いろはなら。

 千早が気付いていない何かに、気付いていると思ったのだ。

 数十秒ほどの沈黙のあと、いろはが口を開いた。


「焦らなくていいと言ったのは、千早が自分自身のことを考える余裕がなかったように思えたからだ」

「わたし自身のことを……?」

「今、千早は自分自身と向き合えているか。周りばかりを見て、前へ踏み出すことに気を取られ、向き合えていないのではないか」


 いろはの言葉が、すとん、と胸に落ちたような気がした。

 さあ、と風が吹く。千早の焦りを取り除いていくかのように。


「とにかくだな、今は中に入らないか。冷房とやらが効いた部屋に今すぐ入らないと溶けてしまいそうだ」


 ぱたぱたと手で扇ぎながら疲れた顔をしているいろはに、千早はくすりと笑いつつ頷いた。

 二人は家の中に入ると、透明のガラスコップに氷を入れた麦茶を用意して千早の部屋へ向かう。部屋は冷房が効いていてひんやりとして涼しい。

 中に入るといろはは空いているところに座り、麦茶を飲み干す。はあ、と気持ちよさそうな声を出し、空になったコップを盆の上に置いた。


「いろはさんの言うとおりです。伊吹さん、伊織ちゃん、玉藻さんが前へ踏み出していくから、自分も早く踏み出さなきゃって焦ってました」


 千早はいろはの向かいに座り、膝を抱える。


「焦る割には、何がしたいのか全然思いつかなくて。それが更に焦りにつながってしまって」

「ずっと、千早は前を歩んでいただろう。八岐大蛇という目標に向けて。それを達成させたのだ。一度立ち止まり、次の目標を考えればいい」


 何がしたいのかわからないのは、何故なのだろうか。そう考えたとき、思い浮かぶのは八岐大蛇のこと。そのことばかり考えていたからだ、と結論が出る。

 ならば、次は。八岐大蛇のこと以外を考えればいいのかもしれない。

 だが、どうやって。どのように。思い浮かばないのは──八岐大蛇のことしか考えていなかったから。

 なんて自分の世界は狭いのだろう。木を見て森を見ずというのは、まさにこういうこと。

 わかっていたはずだ。八岐大蛇のことしか考えていなかったこと、見てこなかったこと。わかっていて、向き合うこともせずに狭い世界で何かを見つけようとしていた。

 思わず笑みが溢れた。それは見つからないわけだ。

 もう、八岐大蛇はいない。千早は狭い世界から飛び出してもいいのだ。


「わたし、伊織ちゃんから遊びに来てって言われたとき、驚いたんです。村から出てもいいの? って。出ても、いいんですね」

「そうだ。千早はどこに行ってもいい」


 いろはに引き寄せられた。優しく抱きしめられ、頭を撫でられる。


「一緒に、行ってくれますか?」

「言うまでもない。伊織も言っていたではないか、遊びに来いと」

「それはそう、なんですけど。他にも、いろいろと行きたいです。いろはさんと一緒に」


 たくさん見て、聞いて、触れて。

 きっと、知らないことで満ち溢れている。

 そして、見つけるのだ。千早がしたいことを。


「それにしても、千早。何故先に玉藻に話した? 少し悲しいぞ」


 いろはは口を尖らせながら千早の髪の毛を一房手に取り、指にくるくると巻き付ける。髪の毛はさらりと解け、千早の肩に落ちた。


「す、すみません。話すというか、その返答に困ってしまって……どこから聞いてたんですか?」

「いよいよ、帰ってまうなあ、と言うところからだ」


 ほぼほぼ最初からだ。千早を呼びに来たとは言っていたが、まさかそんな最初の方からいたとは。

 ちらりといろはを窺うが、彼はむすっと拗ねたような表情でずっと千早の髪の毛をいじっている。玉藻もいろはが聞いていることには気が付いていたのだろうか。


 ──そういえば、話の途中でいろはさんの名前が出てきた気がする。


 気が付いていなかったのは、千早だけということだ。


「千早」

「は、はい!」

「私より、玉藻がいいか」


 拗ねていたはずが、今度は寂しそうな目をしている。千早は右手を伸ばし、いろはの頬に触れた。その手に、いろはは髪の毛をいじっていた手を止め、重ねる。


「千早、私は今自分がどのような存在なのかわからない。ただわかるのは、千早の愛で生きているということだけだ。千早の愛がなければ、私は」

「わたしが愛しているのは、いろはさんだけです。これからも、ずっと」


 そうだ、と千早は口角を上げた。


「いろんな場所に行って、わたしは自分のしたいことを見つけます。いろはさんは、自分の存在について答えを探しませんか? きっと、何かあると思うんです」


 これまでは、付喪神という存在だったいろは。では、今は何か。わからないから不安で、千早からの愛だけが存在理由になってしまっている。

 だったら、自分は何か、探しに行けばいい。

 その先にどのような答えが待ち受けていても、いろはへの気持ちは、想いは変わらない。精霊であろうと、妖であろうと、はたまた別の何かであろうと。


「千早を励ますつもりが、励まされたな」

「これが、支え合うってことですよ。きっと」


 いろはの顔に笑顔が戻った。


「では、早速明日からどこかへ行くか」

「どこに行きましょうか。わたし、隣町ですら行ったことがないんです」


 ああ、やっぱり。

 千早はいろはに体重を預けながら目を瞑る。

 あのとき、人間に戻るという選択肢を取らなかったことは、間違いではなかった。

 取っていれば、どうなっていたのだろう。いろはとは二度と会えなかった。前を向くこともできなかったかもしれない。

 不安はないとは言えないが、どれほどの長い時が待ち受けていようと、いろはとならば乗り越えられる。

 こうして支え合っているのだから。愛し合っているのだから。きっと──。



<了>

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天羽々斬へ、愛を捧ぐ 神山れい @ko-yama0

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