終章

これから

 ──八岐大蛇との決戦から一週間が経った。

 雲一つない青い空。蝉がそこかしこで鳴き、太陽はじりじりと照りつけている。

 千早は縁側に座り、氷が入った麦茶を一口飲んでコップを盆の上に置いた。カラン、と氷が出す清涼感のある音が心地良い。

 すべて、夢だったのではないか。そう思うほどに、千早達はこれまでどおりの日常を過ごすことができている。

 変わったことがあるとすれば、櫛名村の雰囲気だろう。

 これまでは、どこか鬱々とした空気に包まれていた。それもそうだ、八岐大蛇の心臓が封印されていると言われる祠があり、その封印が弱まっている。朝日奈家と一七夜月かのう家がスサノオの血と力を継ぎ何とかするはずと思いきや、何もできていない。いつか八岐大蛇が蘇ってしまうのではないかとなれば、村全体の空気は悪くもなる。

 それが、千早が八岐大蛇を退治したと広まると、村の雰囲気が変わった。

 明るく、ゆったりとしている。これが櫛名村の本来の姿なのだろう。畏怖の対象であった朝日奈家に対しても、ぎこちないが関わりを持とうとするようになった。クラスメイト達は相変わらずだが。


「千早チャン、隣いい?」

「玉藻さん! どうぞ」


 ありがと、と玉藻は千早の隣に腰掛ける。


「いよいよ、帰ってまうなあ」


 空を見上げて話す玉藻の横顔に寂しさを感じ取った。その気持ちはわかる。顔を少し俯けたものの、千早はすぐに前を向いた。


「そうですね。でも、夏休みに会う約束してますから」


 今日、伊吹と伊織がこの櫛名村を発つ。

 八岐大蛇を倒したあと、眠り続けていた伊織が目を覚ました。角も取れ、塵となり、鬼の力は完全に消滅したようだ。

 そして、目を覚ました伊織は伊吹からすべてを聞いた。

 伊吹が八岐大蛇の手を取り、鬼となった理由。両親を、一七夜月家にいた者達を食らったこと。すべてを。

 それらすべてを聞いた上で、伊織は伊吹と一緒にいることを選んだのだ。

 聞いた当初は、伊織は涙を流し、嗚咽混じりに伊吹を怒鳴り散らしていた。掴み掛かり、激しい怒声を浴びせることもあった。それでも、伊織は最後にこう言った。

 許すことはできないが、伊吹の苦しみに気付くことができなかった自分にも責任があると。

 伊吹は、自分と似た境遇の子どもを救いたいと、そのような支援をしている団体に所属するそうだ。もう二度と、自分のような存在を出さないために。それが償いになると信じて。


「あの家はどうすんの?」

「一七夜月家は……取り壊すそうです」


 あのような惨劇があった家だ。もう誰も住めないだろうと、伊吹と伊織が取り壊すことに決めたそうだ。更地にし、慰霊碑を置くと祖父から聞いた。


「伊吹と伊織は一緒に住むんやっけ?」

「はい、そう言ってましたよ」

「ふーん……寂しなるなあ」


 二人の間に沈黙が流れる。さあ、と夏らしい爽やかな風が吹き、吊られているガラス風鈴が澄んだ音を鳴らした。

 その音が鳴り終わると、玉藻が口を開いた。


「ボクな、ほんまは気弧きこやってん」

「気弧? 野弧やこではなく?」


 気弧という言葉を初めて聞いた千早は首を傾げる。


「ほら、青い炎とか出してたやろ? 偉くなるために修行しててんけど……逃げてもて。それで野弧って名乗っててん。でも、伊織が前を向いたんやから、ボクも前向かなあかんよなあ。修行、再開してみよかなあ」


 玉藻は照れくさそうに笑った。


「あ、ここにはもちろんいるで! 千早チャンはどうするん?」


 返答に困り、千早は顔を俯けた。

 伊吹も伊織も玉藻も、これからのことについて考えている。動き出そうとしている。一方で、千早はこれからのことが何も浮かばない。何をしたいのか、何をすればいいのか、何も見えてこないのだ。

 優しく頭を撫でられる。顔を上げると、玉藻が目を細めて笑っていた。


「ごめんな、変なこと訊いて。ずっと八岐大蛇のことばっか考えてたもんな。そら、今は次どうしようって悩むわ」

「……はい」

「それに……この先長いからなあ」


 半神となったことは、祖父母、玉藻、伊吹、伊織には話した。

 外見が変わらなくなってしまったこと。不老となったこと。そして、スサノオの権能を継いでいること。

 伊吹と伊織は驚いてはいたものの「千早が決断したことなら」と受け入れてくれた。特に伊織は興味津々で、千早の持つ権能の力を直に見て興奮していたほど。

 祖父母は、言葉を失っていた。経緯を話すと寂しそうにしながらも「千早らしい」と受け入れてはくれていたが、祖母が涙を流していた姿は忘れられない。

 千早自身も後悔はしていないが、寂しさは感じる。皆、千早を置いて去ってしまうことに。だが、選んだのは自分だ。いろはもいてくれる。共にその寂しさを乗り越えていくつもりだ。


「ボク、これでもめっちゃ長いこと生きてるんよ。やから、何でもどどんと相談して! って言いたいところやけど、まずはいろはに相談してみ」

「いろはさんに?」

「いろはと一緒に生きるって決めたんやろ。やったら、いろはに相談せな」


 玉藻の言うとおりだ。千早は小さく笑みを浮かべ、そうですね、と頷く。


「それでもやっぱりわからん! あかん! ってなったら、ボクんとこおいで」

「はい、そのときはよろしくお願いします」


 さてと、と玉藻が立ち上がった。


「もうちょっとで伊吹と伊織が出る時間やな」

「そうですね。笑顔で送り出しましょう」

「そやな、しんみりするんはあかん」


 玉藻は「じゃあ、またあとで」とどこかへ行ってしまった。また一人になった千早はぼんやりと外を見る。


「わたしは、何がしたいのかなあ」


 八岐大蛇のことだけを考えて生きてきたため、それ以外のことについてはなおざりになっていた。

 しかし、千早は高校三年生。進路を決めなければいけない時期も来ている。進学するのか、就職するのか。

 思わず笑みが溢れた。半神となった今、千早は不老だ。誕生日を何度迎えても外見は変わらない。されど、今の時点では高校三年生ということもあり、進路を考える必要がある。半神でこのような悩みを抱えたのは千早くらいではないだろうかと、そう思ったのだ。

 ふう、と息を吐き出し、空を見上げる。両腕を天井に向けて伸ばしたあと、ゆっくりと後ろに倒れた。


「ずっと、八岐大蛇のことばっかりだったなあ」


 それ以外、何も見てこなかった。だから余計に何も見えてこない。周りがやりたいことを見つけて動き出そうとしていると、早く、早くと焦りが出てくる。

 目を瞑りかけたとき、部屋に誰かが入ってきた。身体を起こそうかと思ったとき、千早の視界に入るようにしていろはが顔を出す。


「いろはさん」

「千早を呼びに来たのだが、玉藻と話をしているようだったから終わるのを待っていた」

「あ……」


 聞いていたのだろうか。視線を逸らすと、千早の隣にいろはが腰掛ける。さすがに寝転んではいられないと千早も上半身を起こした。


「いい天気だ。暑いのが難点だが、伊吹と伊織の旅立ちを祝福しているようだな」

「……そうですね」

「千早が八岐大蛇を退治したことで未来が護られたから、二人は旅立てる」

「あ、あはは、それは大袈裟ですよ」


 頭にぽんと手を置かれ、雑に撫でられる。髪の毛がぐちゃぐちゃとかき混ぜられているようだ。


「あ、あの、いろはさん?」

「大袈裟なものか。あのスサノオですらできなかったことを成し遂げたのだぞ? もっと胸を張れ。そして、少し休むといい。そんなに焦ってしたいことを決める必要はない」


 いろははそう言うが、周りが動き出しているのにゆっくりしていていいのか。あの、と言いかけたとき、遠くから祖母の声が聞こえてきた。


「千早、いろはさん。そろそろ伊吹くんと伊織ちゃんが出ますよ」


 祖母の声にいろはは立ち上がり、千早に手を差し出した。その手に自身の手を乗せ、千早も立ち上がる。空いている手で髪の毛を整えつつ、いろはと共に部屋を出た。


 ──焦らなくてもいいの? 本当に?


 それは、何故。気になる。もっと話がしたい。

 いや、まずは伊吹と伊織を見送らなければ。気持ちを切り替え、二人は祖母の元へ向かった。

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