長編ブロマンス小説『神春伊咲の生業』試し読み
※長編ブロマンス小説『神春伊咲の生業』の試し読みになります!
◎収録されている同人誌
→『神春伊咲の生業』/A6(文庫)判/700円(通販価格:800円)
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第一話
自分が自分であることに耐えきれなくて深夜の雪道を裸足で走ったことがある。というか、去年の秋冬は一歩間違えれば通報モノの深夜徘徊が日課だった。
「――一度、僕に人生を預けてみませんか?」
荒れ果てたゴミ捨て場の前で、俺の凍えて赤くなった指先を握ったのは、
静かな銀世界は相変わらず美しくて冷たくて残酷だったけれど、黒ずくめの彼の大きな影の中でなら、やっと息ができるような気がした。
*
「伊咲さん、お疲れ様です」
湯気のたつコーヒーを机の端に置くと、ノートパソコンと睨めっこしていた伊咲さんの眉間のシワがふっと緩んだ。
「ありがとう」
柔らかな垂れ目がこちらを振り返る。カップを持ち、事務用の椅子を後ろに引いて長い足を組む姿は、さながら海外のカリスマ俳優だ。
「そういえば
清潔感のあるオールバックと形のいい額に見惚れてぼーっとしていると、目の前で節ばった大きな手が揺れた。慌ててポケットから手帳を取り出す。六月九日のマスには『18:00 安土沙織』と書いてある。
「そうです。
「わかりました」
普段はキリッとしている形のいい眉が優しく下がる。この笑顔を誰にでも平等に、ことあるごとに振り撒くのだから、神春伊咲という人間はつくづく人たらしな男だ。
「じゃあまだ時間がありますね。ちょっとパソコンのことで聞きたいんですが、東雲君教えてもらえますか?」
二人しかいない事務所はとても静かだ。前の職場はいつでもザワザワと人の話し声が聞こえて心が休まらなかった。仕事は嫌いではなかったが、辞めて正解だったな、と思う。
「やっぱり東雲君は教えるのが上手ですね。できそうな気がしてきましたよ」
パソコンを引き取りながら伊咲さんが笑う。俺は何も答えずに目を逸らした。教員時代に流れるように口をついて出てきた言葉たちは、今はパタリと途絶えて姿を見せない。
「夕食はどうしますか?」
代わりに夕食の希望を尋ねる。「
「散歩に行ってきます」
「はい。気をつけて」
会釈をして事務所を出る。『神春お悩み相談所』は今にも崩れそうなオンボロビルの二階にあって、表へと続く階段は得体の知れない汚れだらけだ。
顔のように見えるシミをなんとなく避けながら階段を降りて、雨の匂いの残る空気を吸い込む。夕陽を反射する水分量の多そうな雲を見つけて、目を細める。
突き当たった大通りではやたらと居酒屋の勧誘がうるさくて、何事かと思考を巡らせれば今日は金曜日だった。金曜日の十六時三十分。機械のように黙々とプリントに花丸を書いていた時間だ。
華金なんて言葉は幻想で、二十三時まで教材研究や事務仕事があったし、土曜日は当たり前のように自主出勤だった。三月いっぱいで三年勤めた小学校を辞めた俺には、全てがもう関係のないことだけれど。
街路樹の脇で少し休憩をして、俺は再び歩き出した。あと五分歩いたら来た道を事務所へと戻る。朝晩それぞれ往復二十分の散歩が、心を病んで退職した俺の新しい習慣だ。
事務所の扉を開けると、伊咲さんは二十分前と同じ格好でパソコンを見つめ、難しい顔をしていた。
「戻りました。パソコン、どうしてもできないですか?」
「うーん。どうにもね」
「俺やります」
「いや、自分でできないと君がいなくなった時に困るから」
伊咲さんはパソコンやスマートフォンをまともに使えない。手順がどうとかではなく、エラーが多発したり謎に電源が落ちたりするのである。多分、機械の方が伊咲さんを嫌っている。
「……俺はいなくなりません」
独り言と会話の中間みたいなセリフが口からこぼれた。パソコンに集中している伊咲さんには届かなかったらしく、返事はない。
俺は部屋の隅の棚にお茶菓子があることを確認してから、扉の前まで歩いた。壁に掛けたままになっているホウキを持って床掃除を始める。
掃除を終えてぼーっとソファに座っていると、軽いノックの音が聞こえてきた。おずおずといった様子で扉が開き、小柄な女性が顔を覗かせる。
「十八時から依頼している安土です」
「ありがとうございます。お待ちください」
安土さんをソファに案内しながら、伊咲さんに目配せする。
「安土沙織さんですね。今回はご依頼ありがとうございます。こちらへどうぞ」
奥から歩いてきた伊咲さんを見て、安土さんの目が見開かれた。伊咲さんが例の人好きのする微笑みを向けると、緊張気味だった白い頬がサッと赤らむ。
「やだ、私ったらてっきり、女の人だと思って」
「はは、よく言われます。特に女性の方には」
壁際の応接スペースに置かれたソファに、安土さんが座った。ガラス製のローテーブルを挟んで、向かいのソファに伊咲さんが座る。
「今回は恋人と別れたいというご依頼でお間違いないでしょうか」
「はい」
「理由をお伺いしても?」
俺は給湯スペースでお茶とお茶菓子の準備をしながら二人の会話に耳をそばだてた。安土さんは少しの沈黙の後、意を決したように口を開いた。
「もともとモラハラ気味の人だったんです」
深いため息の後、「ここを見てください」と着ていたカーディガンの袖口をまくる。背中越しに盗み見ると、白い手首にはキツく握ったような赤いアザができていた。
「これはいつ?」
「今朝です。最近、出かける前にすごい強さで握ってくるんです」
「そうでしたか。他にこういったアザや傷は?」
「仕事終わりで機嫌が悪いと頬を打たれたりすることがあって。今年の四月くらいからですかね。部署異動があって……残業も増えて、すごく大変みたいで。私もなんとか支えられないかと頑張ったんですけど、もう耐えられなくて」
華奢な肩が震える。そっと近づいて煎茶と一口サイズのモナカをローテーブルに置くと、安土さんは小さく頭を下げてティーカップに口をつけた。
「自分で話すとどうしても情にほだされてしまいそうなので、依頼させて頂きました」
若干潤みつつも、何かを振り切ったような意志の強い瞳が伊咲さんを見つめた。
「事情はわかりました。お任せください」
伊咲さんの笑顔に安心したのだろう。安土さんは「ありがとうございます」と微笑んでティーカップを置き、今度は隣のモナカに手を伸ばした。
「これ、
「僕もです。彼がいつも買ってきてくれるんですよ」
伊咲さんが自分のティーカップを傾けながら俺の方に視線をやった。つられてこちらに顔を向けた安土さんに、丁寧にお辞儀をする。
「
秘書なんて名乗るのもおこがましい、ただの雑用係なのだが、書面上はそういうことになっている。
「しののめ……アジサイさん? 珍しいお名前ですね。もしかして六月生まれですか?」
「六月六日です」
「ついこの前じゃないですか。お名前もお誕生日も絶対に覚えてもらえますね」
安土さんはカラコロと笑った後、別れ話をする具体的な日時や場所を取り決めて席を立った。事務所に入ってきた時は物静かな印象だったが、一度打ち解けてしまえば話好きなようだ。
もともとそういう性格なのかもしれないし、時折覗く恥じらいの込もった視線を見るに、彼女も他の多くの女性依頼者と同じく、伊咲さんの甘いマスクに首ったけなのかもしれなかった。
(試し読み終わり)
同人誌試し読み 瀬名那奈世 @obobtf
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