第四話

「すまん……もう、立てそうもない」

「諦めずにここまで歩けただけ、褒めて差し上げます」


 気が遠くなるぐらい果てしなく歩き続けた気がしたが、実際はただ血だまりの糸を僅かに伸ばしただけ。だが、これ以上どうすることもできそうになかった。すでに手足の感覚はない。


「……すまない」

「そう思うなら、結婚初夜には生娘を相手にするように優しくしてくださいましね」


「……おれは、いつでも優しくしていただろう」

「そうですね。肝心の言葉はなく、雰囲気で押し切ろうという部分はありましたけど。ええ、お優しかったですよ。たまにはちょっと強引に迫って欲しい時もあるぐらいには、お優しくて……できることなら、初めてはお義兄さまがよかったぐらいには」


 一緒に崩れ落ちた義妹の、座り込んだ膝に頭を乗せられた。

 無意味で虚しいだけの会話を繰り返す。吐息交じりの囁く様な声しか出せていないのに、義妹はなぜかちゃんと聞き取って返事をしてくれた。


「……物足りなかったと」

「そうは申しておりません。たまには味変も必要だと、申し上げているだけです。今の様に、普段から饒舌にしていただきたいとは思っておりますけど」


「言葉を惜しむのは、おれの悪い癖だな。改めることにしよう」

「そうしてください」


「……子ができなかったのは、残念だったな」

「…………欲しかったのですか?」


「どうだろうな……わからん。ただ、そのうちできるような気がしていたんだ……。いや、やはり本当はどこかで期待していたのかもしれん」

「そう、ですか」


「おれの子であれば、男でも女でも間違いなく美しく気立ても良く、文武に優れた子であったろうに」

「相変わらず自己評価が高いですわね」


「王太子だからな」

「寡黙を気取り、言葉が足りていないところはございますが、王太子でなくとも、わたくしには十分魅力的ですよ」


「別に気取っていたわけでは……まあいい。そう、魅力的なんだ、おれは。お前が惚れた男だからな。お前も、そんなおれに愛された女だ。誇っていい」

「ええ、誇りに思っております」


「……思っていたよりは、最悪な気分でもないな。こうして好いた女の膝を枕に死ねるなら、そう悪いものでもないんだろう。ナディア、お前のおかげだ」


「何をお一人で満足なさっているのですか。その好いた女をこんなところに一人置き去りにする不義理を、泣いて詫びるべきでございましょう」


「泣くべきか」

「ええ。そして泣いて詫びるお義兄さまを、わたくしが甲斐甲斐しくお慰めするのです」

「それも、悪くないな」


 思わずこぼれた笑い声と共に、深い息が漏れた。


「なぜもう少し深く抉ってくれなかったのかと、恨めしく思っていたんだが。多少、あいつに感謝したい気分だ」


「そんな必要はないと思いますが、確かに、首でも刎ねられていたら、こうしてお喋りすることも叶いませんでしたわね」

「ああ」


「それに免じて、あの弑逆者を殺す際は、ひと思いに致しましょう。慈悲をくれてやることに致しますわ」

「……そうしてやってくれ」


 放り出された手に、義妹の華奢な手が重なった。白い指先が絡みつき、握りまれた手に感覚はない。

 だが、それがもたらしてくれる確かな熱を、まだ覚えている。


「民に、すまないことをした。駄目な王太子だったな……」


「そうですね。でも、酌量の余地はあると思いますよ。それに、民にはわたくしも一緒に謝ってさしあげます」


「それは心強い。……ナディア」

「はい、お義兄さま」


「……ナディ、ア」

「はい、お義兄さま。お義兄さまのナディアはここにおりますよ。ずっと、大好きなお義兄さまのそばに」


「ナ……ディ……」

「はい、お義兄さま」


「……ど……か……いき……」

「はい……お義兄さま。お義兄さまの分も、生きるとお約束致します………………お義兄さま」


 返答は、いくら待ってもやってこない。

 永遠に、その声を聞くことはできない。

 触れる指に熱が灯ることはない。喪われた命は二度と戻らない。


「……お義兄さま、お返事をください。ねえ、もう、逝ってしまわれたのですか? ナディアを置いて、逝ってしまわれましたか? ねえ、お返事をなさって。ねえ、お義兄さま」


 ナディアはそっと、愛しい王太子の目元に触れた。仄かな熱がまだ、感じられるような気がした。


 泣き崩れるのは容易い。でも、まだその時ではない。

 二度と動かない瞼を下ろし、物言わぬ躯に語り掛ける。


「……実はひとつだけ、言えなかったことがあるんです。でも、お義兄さまが悪いんですよ。こんな時でもなければ何ひとつ言葉にしてくださらないから。……でも、望んでくださっていたのなら、わたくしは期待に応える女です。誇りを胸に、誰に恥じ入ることもなく、この子を産み立派に育て上げましょう」


 ナディアは、投げ出したレイピアの柄を再び握った。


 一緒に、逝きたいと思う気持ちがあった。

 だからこそ、弟の手勢に無理やり連れ出された城外から、火が放たれたことを知っていても戻って来た。こんな世界に残されて、一体どんな希望があるというのだろう。死んでしまいたかった。きっとその方がずっと楽な気がする。


 だが、それはもうできない。


 王太子として、彼は最後まで足掻いてくれた。ほんの僅かであっても歩んだ距離がある。

 ならばそれを強いたナディアもまた、同じように足掻かねばならない。


「お義兄さま、あなたは王族としての責務を見事果たされています。後はわたくしにお任せください。どうか安らかに、眠って」


 王は、希望だ。国にとって、民にとって、生きる寄る辺となる。寄る辺を与え続けることこそが、王の勤め。

 希望であれ。寄る辺であれ。


 ナディアの王は、たった今、失われた。

 しかし希望はまだ残されている。希望はある。寄る辺がある。まだ、残されているのだ。生きている。生きているのだから。


「生き汚く、どのような目に合おうとも、生きて生きて生き抜いて、生きて見せましょう。誰よりも元気に、精一杯長生きしてこれから先の人生を謳歌いたします。お約束します。そしてお義兄さまの子を、美しく気立ても良く、文武に優れた子に育てます」


 生きるための武器となるレイピアを、血糊で滑り取り落とさないよう、ドレスを裂いて手に縛り付ける。


 予感にも似た確信がある。腹に宿るこの命は、この子は、きっと王になる。そのために生まれてくる。この国に、希望をもたらすために。


「必ずや、善き王に」







 そして、城が落ちた。

 燃え広がった炎が城と共に殺された王族全ての亡骸を喰らい尽くし、国が堕ちた。


 何者かによって斃された王が残した唯一の王族。そう見做された弑逆者が、王として担ぎ上げられるのはこれよりすぐのことである。


 この時はまだ、誰も知らなかった。弑逆者が巧妙に隠した裏の顔を。


 そして、真実も、唯一の希望が残されていることも。

 まだ、誰も知らない。

 燃える城からぼろぼろになって、それでも落ち延びた女がいたことを、知る者はいない。その生存を信じる弑逆者による執拗な追求を掻い潜り、彼女が果たした約束を知る者はいない。


 荒廃した氷と山に閉ざされた小国で、非道の限りを尽くし民と国を嬲る弑逆者が倒れるまで、新たな王が立ち斃すその希望に満ちた春はまだ遠い。


 だが決して、潰えてはいないのだ。

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病める王国の春を謳う姫君 ヨシコ @yoshiko-s

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