提案

 死んだ、と思った。

 蹴りを躱した際に傾けた首筋に、狼少年の爪の先が迫るのを見て、クロメルの胸は打ち震えた。ずっと渇望していた、生の輝きがここにあった。

 死んでもいい、とクロメルは思った。

 待ち望んでいた瞬間に出会えた。自分と対等に渡りあえる存在に出会えた。クロメルの割れた杯は今、溢れていた。敗北に至る絶望よりも、法悦に浸るような充足を得て人生の幕を閉じることに、この上ない幸福を感じていた。


 だから、狼少年が突如地に伏したとき、クロメルは愕然とした。


「ちょっと――」


 声を掛ける。少年は頭をわずかに動かして反応したが、身を起こさなかった。粗い呼吸。藻掻く足先。立ち上がる意志はあるけれど、身体が追いついていない。

 ここに来て、狼少年の身体は限界を迎えたのだ。 


「……なんだよ。せっかく良いところだったのに」


 あーあ、と天を仰いだ。玩具を取り上げられた気分だった。興醒めだ。胸にぽっかりと穴が空く。喪失感に苛立ちを覚えた。地団駄を踏む。神を罵る。子どものような癇癪を止める者はなく、虚しさだけが建物内に響いた。


「……ま、仕方ないか。これだけの連中を殺した後となっちゃあ」


 ひとしきり喚いたあと、クロメルは周囲を見渡した。あちこちに転がっている十数の死体たち。少年は彼ら全員と渡りあった後に、クロメルと戦った。つまり少年にとっては第二戦。体力は削られていただろうし、もしかしたら負傷もあったかも。

 そんな状態であれだけの激しい戦闘を繰り広げられたのだから、もしかすると今地に伏している彼は、賞賛にあたいすべきものなのかもしれない。


「でもなぁ、俺、お前のこと殺さなきゃあいけないんだよね」


 戦いに昂っている中でも、クロメルは仕事を忘れてはいなかった。クロメルの所属するサライア教会において、狼人間を含めた亜人は〝異端〟。クロメルが〈狩人〉である限り、亜人は殺さなければならない。


「だからさ」


 狼少年の前に立ったクロメルは、その喉元に突き立てんと剣を真下に構えた。虚ろな水色の瞳がこちらを向く。恐怖や拒絶の色はなかった。ただ、未練の光だけがあった。全力を出しきれず負けるのが悔しいのだ、とクロメルは読んだ。この戦いの中で、お互いが似た者同士であることをすでに察している。

 ――ああ。

 クロメルは肩を落とした。ひょっとすると運命の相手だった。自分を負かすことができるほどの実力者。彼が万全だったのなら、いったいどうなっていただろう?


 狼少年の喉元に剣先を突きつけながら、クロメルは逡巡した。その間に、少年は意識を失っていた。今なら楽に死なせてあげられる。聖職者としては最良の選択だ。いくら亜人とはいっても、無駄に苦しめて殺すことを、教義は良しとしていない。

 ――でも。


「……やめた」


 クロメルは剣を下ろした。左手の指輪に刀身をぶつけると、指輪の中に剣を戻した。重く息を吐き出して、少年の前に屈み込む。少年の脇に手を入れると、抱えあげた。

 どういう生活を送っていたのか、少年の身体は軽かった。これなら運ぶのにも苦労しなさそうだ。クロメルは少年を肩に担ぎ上げると、陰惨な闘技場を後にした。




 黄昏時。藍色の東の空から赤い西の空へと鳥が一文字になって飛んでいくのを、クロメルは自動車の運転席から眺めていた。座席にもたれ、ただぼうっとフロントガラス越しの空を見上げる。

 狼少年を拾って一時間。乗ってきた車に運び込み、怪我の治療をした。その後は後部座席に転がして、起きるのを待つ。これからどうするかなー、なんて考えたりして。

 衝動的、といえばそうだった。亜人を助けるなんて、〈狩人〉にあるまじき行動だ。クロメルは教義にこだわってはいなかったが、一応立場くらいは考える。このまま馬鹿正直に狼少年を連れて帰れば、面倒なことになるのは分かりきっていた。

 そうだとしても、この少年を助けようと思った。気まぐれ。まあ、そうだ。だが一応、きちんとした理由がある。


 サイドミラー越しに後部座席を見る。もぞもぞと灰色の物体が動いた。


「あ、起きたー?」


 身をひねって後部座席を覗き込めば、呆けた少年の顔があった。犬耳がぴくぴくと動き、水色の瞳がせわしなく動く。


「……ここは?」

「俺の車の中」


 少年の眉間に皺が寄った。理解不能、と表情が言っている。


「情けをかけたっていうのか」


 助けられた、というのは、察しているらしい。怪我が治っていることにも気づいているのかもしれない。クロメルののお陰で、少年の傷はすっかり癒えているはずだから。


「いや、全然。俺、そんなもの持ち合わせていないし」


 慈悲を与えるというのは神官の仕事であって、同じ聖職者でも〈狩人〉の仕事ではない。むしろ情けなんぞを持ち合わせていたら仕事にならない。〈狩人〉とはそういうものだ。

 じゃあなんで。少年は訝った。


「お前を生かしたのは、俺のため」


 手合わせしたときの興奮が忘れられない、クロメルのわがままのためだった。


「君さぁ、俺と一緒に来ない?」


 提案に、狼少年はぽかんと口を開ける。


「…………は?」

「俺と一緒に、〈狩人〉の仕事をやらない? って言ってるの」


 少年を殺すのをやめたクロメルはずっと考えていた。先程のような戦いを、どうすればまた楽しむことができるか。少年を治療し、体力の回復を待って、再戦というてもあるかもしれない。しかし、それだけではなんだか味気ない。

 そこでクロメルが思いついたのが、少年に成長の場を与えることだった。〈狩人〉の仕事を手伝わせるのだ。〈狩人〉の仕事に戦いは付き物。戦いに身を置かせ、より強くなるのを待ち、いつか再戦しようというのだ。

 野放しにするというのも考えた。だが、確実に巡り会えるという点で、一緒に行動していたほうが良い。

 クロメルの計画を聴いた少年は、より一層あんぐりと口を開けた。


「お前、馬鹿だろ」


 ぼそり、と吐かれた言葉に、クロメルは少し傷付く。自分の同類の少年なら、同調してくれると思ったのに。


「だいたいオレは、亜人だ」


 お前の〝狩り〟の対象だろ、と少年は追及する。


「そうだね。だから、教会に内緒でこっそり手伝ってもらうことになるんだけど」

「……バレても知らないぞ」


 そのときはそのときだ、とクロメルは考えている。万が一このことが知られ、教会を敵に回しても、戦う相手が変わるというだけで、クロメルに支障はない。

 ……いや、考えようによっては、有りだ。教会の〈狩人〉たちなら、下手をすると亜人たちよりも、手応えのある戦いができる。

 そう返すと、お前馬鹿だろ、と再び少年が返してきた。だが、拒絶はしない。提案に否やはないのだ、とクロメルは確信した。


「それじゃあ、今から俺の相棒ってことで」


 運転席から身を捻って右手を少年に差し出す。少年は半眼で胡散臭そうにその手を見つめた。


「俺はクロメル。お前は?」

「……ラン」

「ランちゃんか。よろしくね」


 クロメルの右手に、軽い衝撃が走る。少年が掌を軽くはたいたのだ。素直に握手をしない、反抗期みたいな態度に、クロメルは苦笑する。


 こうして、クロメルが〈狩人〉を辞めるまでの一年が幕を開けた。

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君と死の淵で生のダンスを 森陰五十鈴 @morisuzu

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