覚醒

 ――死んでたまるか。


 ランの中で、ずっと燻り続けている感情。それは、ランに死を要求する現状に対する怒りだった。

 ささやかな幸福を人間によって壊されてからずっと。

 虐待めいた訓練を強要されているときも。

 同じ境遇の亜人たちと殺し合いを強いられたときも。

 ただ、生の渇望だけが、ランを今日まで生かし続けてきた。


 この薄汚い闘技場に、数多くの仲間と閉じ込められ、バトルロイヤルを命じられたときは、流石に絶望したが。

 それでも生き残りたい一心で、心を殺して、亜人たちを手に掛けてきた。

 ……それなのに。


「さあ、おいで!」


 ようやく生を勝ち取ったと思った瞬間に現れた一人の男。祭祀服を着た一回り歳上の彼は、十字剣を向けて、嬉々としてランに死を宣告した。

 まだか。ランは歯噛みした。どれほど足掻いても、世界はランの命を脅かすのを止めないらしい。世界に嫌われているような気さえした。あの〈狩人〉が言うように、神の祝福を受けなかったから。

 だが、それでも、死のうとは思わなかった。死んでたまるか。ランの中で、声が大きくなっていく。今度こそこんな殺伐とした戦いから足を洗って、昔のようなささやかな幸せの中で暮らして――


「さっきからずっと、笑っているよ?」


 男の指摘に、動きを止めた。口元に手をやると、確かに自分は笑みを浮かべていた。愕然とする。殺しは好きではなかった。仕方なくやっていたつもりだった。楽しさを感じるだなんて、そんなはず――

 だが、このたかぶりはなんだろう。

 心臓は激しく鼓動を打ち、頭の中はふわふわする。胸は切なく締めつけられ、一方で全身は激しく燃え上がる。

 ――生きている。

 心の中で、誰かが叫ぶ。間違いなく今、自分は生きている。呼吸をしている。血の流れを感じている。

 この悦びを、なんと言おうか。

 視界が開けたような気がした。


「ふ、ふふふ……」


 笑い声が漏れた。一度認めてしまうと、自分を偽ることはできなかった。楽しい。戦うのが、楽しい。迫りくる死から生を掴み取る、それがどれほど刺激的なことか。

 ランは自分を抱きしめ、笑った。目端に涙が浮かぶほど、声を上げて笑い狂った。


「殺してやるよ!」


 床を蹴り、祭祀服の男に飛びかかる。爪を振れば、男は剣で受け止めた。その顔には、ランと同じように愉悦が浮かんでいる。


「やってみなよ」


 お互いに笑みを見せつけあった後、ランは相手の胸を蹴り、宙返りした。着地と同時にしゃがみ込み、足払いを仕掛ける。男はランの左足を跳び上がって躱した後、長い脚でランの顔を蹴りつけてきた。右掌で受け止め、相手の脚を押しやる。バランスを崩したところで、もう一度爪を振りかぶる。男はまた受け止めた。金属のぶつかり合う音が辺りに響く。

 距離を取ろうと後退する。〈狩人〉の男が追い縋る。剣を爪で弾きながら、ランは次の一手を考える。頭の中はこれ以上ないほど活性化していた。あそこへ打ったら? きっと防がれる。なら、こちらは? いや駄目だ、自分が死ぬ。


 立ちはだかる壁は、これまで以上に高かった。大勢を一度に相手にするより、この男一人のほうが厄介だった。しかし、だからこそ、より一層奮い立つ。この壁を乗り越えた先に見える景色は、きっと素晴らしいに違いないだろうという期待を抱いて。


 蹴りを放つ。男が受け止めた瞬間に跳び上がり、空中で身体を横転、もう一方の足で男の頭を蹴りつけた。脳を揺らす攻撃に、男は二、三歩よろめいた。敵が倒れなかったことに感嘆しながら、距離を詰める。左腕の爪甲クローを振り上げて、相手の胸を斬り裂いた。


「ははっ」


 深手とは言えないまでも傷を受けたその男の顔から、粘着質な笑みは剥がれなかった。むしろその黒い眼は爛々と輝いている。同じだ、とランは思った。こいつも自分と同じように、戦いの中に生きる悦びを感じている。

 ランは切なささえ抱きはじめた。ランの命を狙う以上、殺さなければならない相手。けれどもしかしたら、おそらく初めて出逢っただろう、互いを理解し合えるニンゲン。殺すということは理解者を喪うということで、ランは勝利という喜びの先に、果たして生の充足を見出すことができるのか。


 ――ずっとこうしていたい。

 ときに攻め、ときに受けながら、ランは思う。まるで恋人とダンスをしているときのような、夢のような時間。

 しかし何事にも終わりは来る。


 その身に剣を受けつつも、戦況はランが押していた。爪によるダメージは少なかったが、ランの拳が、蹴りが、着実に男の中に蓄積していた。剣さばきは鋭さを欠き、足下は覚束ない。男の動きは明らかに精彩を失っていた。

 それでも男の笑みは崩れない。夢見る眼差しに変わりはない。死を前にした状況で、男は一身に生を感じている。

 目の前にさらけだされた首筋に、感傷を抱きながらランは爪を立てようとした。祈るような気持ちで、とどめを刺そうとして――


 ふと、ランの身体から力が抜けた。

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