孤月

鳥尾巻

孕み月

孤月こげつ

銀の光芒こうぼう揺らめく紺青こんじょう川面かわも一葉いちようの小舟。


暮方くれかた

凪の水面みなも舳先へさきの裂く水のさざめき。

き波の紋様が束の間に尾を引くばかり。


緘黙かんもく

河岸の両に伸びるすすきの陰に絶えぬ虫の音以外は――。

 


 流れに任せ進む舟の上には一組の男女。

 女は、舟の中ほどに座し、白皙はくせきおもてをやや傾けてそらを仰いでいた。年の頃は十九、二十。上等ではあるが地味な小袖に黒の帯。ほつれたまげを結い直しもせず、乱れた黒髪が妙に艶めかしく白いうなじにかかる。

 月光が蒼白い面輪おもわを冴え冴えと染め、伏した長い睫毛が頬に影を落とす。


 舟は咎人とがにんを運ぶもの。女を流刑地まで送る任に当たった役人の男は、内心、己の不運を嘆いていた。晩秋の宵の寒さに加え、川から立ち上る霧が身体の芯を冷やす。食い扶持の為とは云え、こんな日に不愉快な職務が回ってきたことを恨むしかない。

 

 口書くちがきによれば、女は豪商の娘であったが、どこの馬の骨とも知れない漂泊ひょうはくの者を家に引き入れ、父親である大店おおだなの主人とその継母を害したという。盗まれた物はなく、血濡れた畳の部屋はなぜか大水にでも襲われたかのように水浸しであったらしい。

 本来ならば女は死罪であったが、女自身も傷つき倒れていたことと、既に身重の身体であったことから一等軽い刑となった。下手人とみられる男は、今も逃奔とうほん中である。

 当初、女は頑なに男の存在を否定していた。しかし、聞けば強欲な父親は若い後妻に入れあげ、実の娘をないがしろにし、継母は美しい娘を妬んで毎日のようにしいたげげていたという話である。

 身重の女の細腕で家中を荒らし、体格の良い男をしいするのは妖術でも使わねば不可能である。おおかた駈落ちを邪魔された男が、凶行に及んだのだろうと見做みなされた。

 

 遠島えんとうを申し渡された咎人は、重い罪を犯した者ではあるが、その全てが凶悪・獰猛な人間であるとは限らない。予期せぬ出来事でとがを負った者も多く、故に身内の見送りは愁嘆場になることも多い。

 女に見送りはなかった。だが、舟に乗り込む段、手を貸すと、女は晴れ晴れとした表情で軽く会釈をして、先刻の位置に大人しく収まったのである。しかし夜を引いて渡る舟に任せ眠るでもなく、冴えた月を楽しげに見つめている。時折、白い手で膨れた下腹を撫でては、鼻唄でも歌い出しそうな様子である。


 親を殺され、身重の身で恋した男に棄てられ、半ば気が触れているのかもしれない、と役人は思った。そうであれば気の毒に思わないこともない。

 もうすぐ海に出る。役人は磯の香りを感じながら、暫く黙って仔細を窺っていたが、そのうちこらえ切れなくなって女に呼びかけた。


「何を考えておる」


 女は初め、不思議そうに細い項を傾け、それからゆっくりと居住まいを正した。存外に視線はしっかりと定まり、切れ長の美しい目は賢し気な光を宿している。


「なに、とは」


 凛とした声は鈴音にも似て、川岸の虫の音に掻き消されぬ確かさで役人の耳に届く。尋ねたのは自分であるのに、まるでヘマをやらかしたような心持ちで、男は言い訳のように言葉を発した。


「いや。特にわけがあって尋ねたのではない。お前の在りようがあまりにも凪いでおるので、ちと奇妙に思えたのだ」


 すると、女はにっこりと笑った。赤い唇の端が持ち上がると、冷たく見える美貌が和らぎ、いとけない童女のようにも見える。


「はい、お役人様。わたくしは嬉しいのでございます」


「嬉しい?」


 罪を犯して流されることの何が嬉しいのか。狼狽する役人に向かって、女は尚も言いつのる。


「はい。この舟はまるで花嫁御寮はなよめごりょうの嫁入り舟のようではありませぬか。空の月も見守っているよう」


 罪人の乗る粗末な小舟が嫁入り舟とは。やはり気が触れているのか。役人は背筋に薄ら寒いものを感じながら、女から目を逸らした。

 女は頓着とんじゃくせず、まるで歌うように腹の子に話しかける。


「もうすぐオトさまがお迎えに来ますからね」


「……なにを」


「あの方はわたくしを救ってくださったのです。畜生にも等しいあの男と女を殺してくれと頼んだのはわたくしでございます」


 心を抑えた密やかな声。役人が振り返ると、美しき孕女はらみめが妖しく嗤った。折しも川面を渡る激しい風が女の長い髪を乱し、月が雲に隠れる。

 訪れた闇。とぷり、と舟底に寄せた黒い波。水に浮かぶ木の葉の如き頼りない小舟が、沖から押し寄せる波にぐらぐら揺れる。突如見通しを奪われた役人は畏れ慄き、胸の内で必死に念仏を唱えた。


 刹那せつな亦候またぞろ、月は雲間から顔を覗かせたが、そこに居たはずの女は煙のように消え失せている。役人が慌ててを辺りを見渡せば、遥か彼方の海に、巨大な波と見紛みまご銀鱗ぎんりんのうねり。

 切れ切れに聞こえてくる女の声。愛しいモノとまみえた歓びが、風のように宙を切り裂く甲高い笑い声と変わる。しかして、銀のうねりは波と女を連れて大海原の底に吸い込まれていった。

 

 果たしてあれは一体なんであったのか。役人は魂を吸い取られたように、ぼんやり口を開けたまま行方ゆくかたを見つめる。

 次第に高く昇る盈月えいげつの夜。孤影を乗せた小舟は、銀を散らした黒い水面を静かに滑って行った。


【完】

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孤月 鳥尾巻 @toriokan

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