三十八万キロを越えて

藍﨑藍

 

 鉛ガラス越しに見る今宵の月は輝いていた。草も木も生えていない、岩石に覆われた大地をひたすら進む。


 小高い丘に位置する交信機スポットには数人の先客があった。かつては地下コロニーの近くに多数設置されていた交信機スポットも、今となっては地球全体で数えるほどにまで減少している。

 少年同様、そこに来る者は薄汚れた白い防護服とゴーグルを装着している。揃いの格好で集う者は皆、遠い誰かを求め虚空に手を伸ばしている。


 少年は厚い手袋をはめたまま、防護服のポケットからスマートフォンを取り出した。画面のひび割れたそれを月の浮かぶ空へ掲げ、シャッターボタンを押す。

 カシャリ。

 シャッター音とともに、空と地球のこの瞬間が切り取られる。そして少年はその写真だけをSNSに投稿する。


 今日、少年が地球で生き延びた証として。

 月にいる、会ったことのない君へ向けて。


 ぽこんという通知音とともに、「月に住む君」からは今日もハートマークいいねだけが送られてきた。


 ◇◆◇


 一九九〇年。東西冷戦は終結を迎えることなく、世界を巻き込んだ全面的な核戦争へと発展した。第三次世界大戦、第四次にあたる世界宇宙戦争。百年にもわたる二度の大戦を経て、草木の茂る大地は焼け野原となり、海も空気も放射線で汚染された。

 追い打ちをかけるように極めて致死性の高い病原性ウイルスも出現し、地上はもはや人類の住める環境ではなくなった。


 人々が地下コロニーでの不自由な生活を余儀なくされていたところ、人類生存の命運をかけた月への移住計画が発表された。当然のことながら、地球に残っている十万人ほどの人間を全て移住させることは不可能だった。


 人選はどのように行うのか。資源は、燃料は。


 議論は紛糾し、大多数の人類が納得しないまま宇宙船は飛び立った。地位の高い者、裕福な者、影響力のある者、優れた技術者、そして枯渇しつつある地球の資源を大量に積み込み、彼らは復路のない旅へ出た。


 地球には知識も技術もない九万人が取り残された。資源も底を尽きかけ、決定的な打開策も無いまま時間だけが無情に過ぎていく。

 未来のない地球に絶望して自死を選ぶ者。救いを求めて新興宗教にすがる者。残された九万人は三者三様でありながら、ただ不安と焦燥に駆られていた。


 地球を飛び立った無国籍の月政府は、地球との一切の交信を禁止した。遠く離れた地球からの無害な反発ではなく、地球との交信で月政府の在り方に疑念を抱く月人を憂慮しての措置であろう。

 だが何事にも抜け穴というものは存在する。地球人が月へ行った家族を思うように、月へ行った者もまた地球に残した友人を思う。人が人を思う気持ちは三十八万キロもの距離を越え、非合法の交信スポットを生むことに繋がった。


 少年が三十八万キロもの距離を越えて君に会ったのも、非合法の交信機スポットを介してのことだ。


 父はある晩、少年の手を引いて外へ出た。防護服にゴーグル、手袋、放射線線量計。これらの装備で身を固めて地上へ赴くのは、幼い少年にとって冒険のように思われた。それは母が脚気で死んだ翌日のことであり、十三夜でもあった。思えば父は妻を看取るときでさえ、一度も涙を見せなかった。——輝かしくも寂寥感のある月の下を除いては。


 父は鉛ガラスの下で頬を濡らしながら月の写真を撮り、SNSに投稿していた。少し欠けた美しい月に亡き妻を重ねていたのかもしれない。

 月の写真にリアクションがついたのを見ると、父は目を細めた。


「誰に送っているの」


 少年は幼いながらも月との交信が人目を避けるべきことなのだと理解していた。防護服越しの小声は聞き取りづらく、父は何度か聞き返した。同じやり取りを何度か繰り返したあと、父は濡れた目を細めた。「友達だ」


 友達だと言うわりに、父は「月に住む君」のことを一度たりとも名前で呼んだことはなかった。いや、父も実のところ知らなかったのかもしれない。広い宇宙の中で小さな点と点が頼りない糸で繋がっている。それだけが頼りで、それだけで良かったのだろう。


 父は間もなく癌に倒れ、以後一度も地下から出ることは叶わなかった。父亡き後、少年は十年以上月の写真を撮り続けている。


 ◇◆◇


 ある晩、少年が交信機スポットへ行くと、よく見かける男たちが話をしていた。

 元々、月との交信が禁止されたのは月政府の一方的な取り決めにすぎない。そのため月との交信は地球では罪に問われることではなかった。だが、月への憧れは翻って自分たちの置かれた恵まれない環境を呪うことでもあり、夢想家と揶揄されることもある。そのため交信機スポットに通う人は限られていた。

 

「何かあったんですか」と少年が尋ねると初老の男は力なく首を横に振った。


「ついに交信機スポットがここだけになったらしい」


 少年は眉をひそめた。


 交信機スポットの減少理由は主に機械の故障が原因だ。修理する部品となる原料はすでに地球では尽きている。政府を欺くことができるほどの機械を作り上げた技術者も、その多くは病に倒れ、知識は受け継がれぬまま壊れた交信機が放置されているのが現状だ。


 交信機スポットが消滅すれば、月との繋がりは絶たれてしまう。広い宇宙の中で、忘れ去られて消えていく。そんな一人の恐怖は周りに伝染し、集団パニックになったコロニーが消滅したこともあった。

 交信機スポットを絶やしてはならない。そう考えた少年は口を開いた。


「俺に修理方法を教えてください」


 この初老の男はかつて交信機スポットの修理屋として働いていた。父の存命中、父がこの男とともに作業を行っていたことを覚えている。少年の属するコロニーに近い、この機械が動き続けているのは、ひとえにこの男のおかげだった。


 少年の予想に反し、男は首肯しなかった。


「どうしてですか」


 呆然と男を見つめる少年に、男は寂寞を顔に滲ませて嘆息した。


「直してどうする」

「直して、また使えるようにします」

「そうやって、ありもしない希望を持たせるのか」

「ありもしないって」


 ぶつけようのない苛立ちを消化できず、少年は唇をかみしめた。鉄の味を感じながら拳を握りこむ。


「俺だって昔は思っていたさ。こんなところでくたばってたまるかって」

「そうですよ」

「でも、もう理解わかっちまったんだよ。俺だけじゃない。みんな気づいちまった」


 男は苦笑した。


「少年よ。お前さんも気がついているだろう。地球に未来はない。俺たちはここで死んで終わる。それだけだ」


 少年と呼ばれているが、少年はもはや青年と呼ぶ方が正しい年齢だ。しかし周りの人間に少年と呼ばれているのは、少年がコロニーの中で、いや、全人類で最も若い部類に入るからだ。おそらくは放射線の影響と言われているが、地球人はもう何年も子を孕むことができていない。


「なに、俺たちだって今まで多くのことを忘れ去ってきただろう。他国間の戦争、災害、流行り病。人が近づいて素手で触ろうとするのなんて一瞬だ。都合の悪いことを忘れるのが悪ってわけじゃない。よく知りもせん奴にいちいち同情してたんじゃ、いくら心があっても足りん」


 男は丘の上で空を見上げる。


「仕方ないことだ。俺たちが忘れ去られる側になっただけのことだ。どれだけ抗おうと、変わりはせん」


 男は少年の胸を軽く拳で叩くと、片手を挙げて地下コロニーへと戻って行った。


 少年はすでに母の顔をほとんど思い出せなかった。父の顔ですら、細部はおぼろげになっている。

 それも全て、仕方のないことなのだろうか。


 半月を撮影し、三十八万キロ先の君へ送る。

 少し遅れてハートマークいいねがつけられた。


 やがて修理屋も、ひっそりと息を引き取った。


 ◇◆◇


 そしてついに、人々が恐れていた事態が現実とものとなる。


交信機スポットが壊れました」


 息せき切って地下コロニーへ飛び込んできた少年は、地上を指さした。


「画面が暗いままで、どのボタンを押しても点かないんです」


 すぐさま年嵩の男が数人、丘の上へ向かった。しばらく後、徒労感を滲ませて帰ってきた彼らは防護服越しにも顔色が悪いことが見てとれた。いや、青ざめていたのはその場にいた全員だった。——ただ一人を除いては。


 一人にしてほしい。そう少年が告げて部屋を出ようとするも、それを止める者はいなかった。


 防護服もゴーグルもつけずに地上へ出ることは初めてだった。肌で直接感じる風は少し冷たく、穏やかで温かくもあった。暗く高くどこまでも延々と続く空に、薄くかかった雲が緩やかに流れている。そして雲の向こうからは金色の月光が柔らかく漏れ出ていた。


 少年は一人交信機スポットへと向かう。急いた気持ちを抑えるように、一歩一歩踏みしめて向かう。無人の丘は物寂しく、人の営みから切り離されたようだった。


 少年はその場にしゃがみ込み、少し手前の地面を手で掘り起こす。

 以前、修理屋の男が穴を掘っていたことをぼんやりと覚えていた。人目を忍び、所在不明の電源を探し当てることは容易ではなかった。少年は何度も丘に通い、ついに今日、電源を落とすことに成功した。

 人目から隠すために土を軽くかけていただけなので、目的の金属部分にはすぐにたどり着いた。

 取っ手を掴んで上に引き上げると、人類から忘れ去られた電源ボタンが姿を現す。少年がそれを数秒押すと、交信機スポットの画面は光を取り戻した。


 だが、この見慣れた機械に光が灯るのはこれが最後だ。何十回、何百回と繰り返した接続作業も今日で終わりを迎える。


 薄雲は風に流され、月が煌々と輝き始めた。眩い金の光に目を細め、左端が僅かに欠けた月をスマートフォンに収める。

 カシャリ。

 シャッター音によってこの瞬間は切り取られ、永遠のものとなる。

 少年はいつものように写真を君に送りかけ——そして止めた。それまで使ったことのなかったテキスト機能を立ち上げ、ぎこちない手つきで入力する。


「この交信は今日で終わりです」


 いつものようにハートマークいいねが押されるのかと思ったが、通知音とともに現れたのは短いテキストメッセージだった。


が終わらせる、ということですか』


 少年は息を飲み込んだ。

 月と交信できない、のではなく終わらせようとしているのは少年自身だ。それも、残された数少ない仲間人類全員を欺いて。


 その罪の重さを知らないわけではなかった。だが、君から送信された端的なメッセージは「その覚悟はあるのか」と問い、少年の喉元にナイフを突きつけているも同然だった。


「そうです」

『なぜですか』


 少年が欺こうとしているのは地球人だけではない。月に住む人類もまた、地球と交信できなくなる。

 少年は大きく息を吐き出すと、素早く画面をタップした。


「忘れ去られてしまうのが嫌だからです」


 いつの日か、地球に残った唯一の交信機が故障すれば、月に住む者も悲しむだろう。だが、それも一時的なものだ。一ヶ月、一年、十年が経てば、かつての同胞が地球に住んでいたことは歴史に成り果てる。記録には残るが、誰の記憶にも残らない。誰の心にも残らない。それが忘れ去られる、ということだ。


 年老いた修理屋はそれを「仕方のないことだ」と言っていた。人生の荒波を越え、強かに生き抜いてきた者特有の諦念に満ちていた。

 しかし少年はそうではない。どれほど種としての終末を肌で感じようと、修理屋のようにはなれなかった。


「この広い宇宙で、顔も知らないあなたにだけは覚えていてほしいんです」


 先ほど撮影した写真を送信する。

 少年は空を見上げ、返信を待った。初めて直接吸った外気はからりと爽やかで、放射線や病原菌で汚染されているというのが嘘のようだった。


 しばらくして、ぽこんという音とともに送られてきたのは写真だった。

 暗い闇の中、青く光る細い月——地球であった。

 それは風前の灯の地球人のように、儚く闇に浮かんでいた。


 君から送られてきたメッセージは短かった。


『この美しい星を生涯忘れはしないでしょう』


 少年は燦然と輝く月の下で静かに頬を濡らした。震える手で交信機の電源を落として配線を焼き切り、そして丁寧に土をかけた。


 ◇◆◇


 二一XX年。かくして三十八万キロ離れた交信は途絶え、星を異にする人類の繋がりは終焉を迎えた。無限に広がる宇宙の中で、孤立した彼らの行く末を知る者はいない。——ただ、そこにいた人々を除いては。

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三十八万キロを越えて 藍﨑藍 @ravenclaw

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