3
俺は思い出す。お前とこのアパートに引っ越してきたときのことを。辺鄙な田舎町を抜け出して、俺は料理学校に、お前は教育学部に通うために、せっかく同郷ふたりで都会に上がって来たんだから、一緒に住もうということになって、俺たちはせいぜい同じ高校の同じ部活に数年通っていただけの関係性だったけれど、でもとにかく、そこから俺たちの生活は始まった。
想いを告げて受け入れられたとき、俺は舞い上がった。いわゆる文字通りの意味で、である。FM802からは『23時59分』が流れていて、俺たちはその軽やかな音楽に身を任せると、跳ねて、回って、じゃれ合った。
今思えば、なんて呑気で、幸せだったんだろう。
俺はお前のはにかむような笑顔を覚えている。弾んだ声を、驚きに見開いた目のきらめきを、テーブルや畳んだ洗濯物で狭いなか転ばないようにふざけ合った日々を、機嫌が悪い時の低い声、風呂上がりの柔らかな化粧水の香り、お前が大騒ぎしながら作ってくれた焼きそばの温かさ、二人でバイクに乗って旅した無数の景色、言い争いのあと弱々しく拳を叩きつけられたときの胸の痛み、気の抜けるような調子の鼻歌、夜の睦言のこそばゆさ、お前の肌の温もりを。ぜんぶ、全部。
多分お前は気付いていない。時折お前の口をつく言葉が、聞き覚えのない言語に変わっていることを。まるで蠅の羽音のような高く耳障りな音を交えて、お前は喋る。そんなとき、俺は何でもないような顔をして、お前の名前を呼ぶ。変化を気取らせてしまったら、お前が戻ってこなくなるような気がして。だから、せめて、願いのありったけを込めて呼び戻そうとするのだ。
お前の目はもう俺を見ない。どこか虚ろに向けられている。俺の肩に触れようとするたび、お前の手は空を撫でる。転ぶことも増えた。だから俺はお前を抱きしめる。ここにいる。俺とお前はこの小さな部屋の中、確かに暮らしている。
「宗次」
「ん」
「愛してる。俺はずっと、お前の側におるよ」
「えへへ、ありがと」
お前は「僕も」と言い掛けて口を噤む。お前は嘘を吐けない。僅かにでも躊躇ってしまったら、もう。お前は泣き出した。悔しげに、何度も何度も拳を叩きつける。
「大事やったはずやのに。きっと僕は、君のこと、大事やったはずなんやけど、何も思い出せない。なんで、なんで。大事やったのに。大好きやったのに」
「大丈夫、俺がちゃんと覚えとる」
「大丈夫じゃない」
お前は叫んだ。
「君のこと覚えとらんかったら、僕はもう、手遅れやってことやないんか。それじゃ、いなくなったんと同じやろ。僕は君のこと忘れたない。僕が嫌なんや。怖い、嫌だ。ぜんぶ崩れてく、自分がダメになる、このまま」
夜が近づく。お前はやがて気を失ったように倒れ込むだろう。でも、俺にはもう、お前を抱きしめることしかできない。痣だらけの体を更に傷付けて。いたずらにお前を苦しめて。恐怖に歪んだ顔を直視することもできずに。
それでも、俺はお前を諦めない。昨日のお前が俺を諦めなかったから。今日のお前が否を叫ぶ限り。明日、お前が戻ってこなかったとしても。
明日はうんと美味い朝飯を作ろう。お前の好きな音楽を流そう。新しい景色を見よう。そして、何でもないようにふざけ合おう。やがて来る終わりにありったけの悪あがきを。お前が失った分の、それ以上の思い出を。
宗次、また明日な 藤田桜 @24ta-sakura
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