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 奇妙な夢を見るようになったのは、いつからだったろうか。


 暗がりの中で、宗次は何かに抑えつけられている。それは大きくて、泥のように不定形で、すべての温もりを奪おうとするかのように冷たかった。


 しばらくは睨み合いが続く。段々恐怖が脳を占めてきて、心が折れそうになったとき、それは滴り落ちてきて、眼球から、耳から、抉じ開けた唇から、鼻から、ありとあらゆる穴から彼を侵食しようとする。泥は皮膚の下でナメクジのように這い回ると、彼の細胞を一つずつ丁寧にぷち、ぷちと潰していく。まるで人皮でできた袋を作ろうとするかのように、何一つ見逃さない熱心さを持って、丹念に、執拗に。


 追い払おうと必死にもがく。もがくけれど、意味を成さない。それはもう、体の奥深くまで入っていってしまったのだから。


 声が聞こえる。蠅が羽を擦り合わせるような音が。それは何かを語り掛けてくる。甘く誘うような口調で。ずっと、ずうっと、永遠に。意識が溶けていく。いつしか凍えるような冷気に覚えていたものは、親しみだった。次第に力が抜けていく。まるで恋人と触れ合うかのような優しさで、泥は彼を愛撫する。頬は緩み、両の唇も虚ろに離れていく。何かが失われるのが分かった。自分が、変質していくのが。


 目が覚めるのはいつも、怪物に自分の何もかもを明け渡してしまった後だった。カーテンの隙間に零れた朝日のなか、宗次は半ばパニックを起こしながらハルに縋りつく。そして、愕然とする。自分が彼の温もりを、汗の匂いを、大好きなひとの顔を忘れてしまっていることに。


 次は戻ってこれないかもしれない。泥に海馬体の隅々まで犯されて、目が覚めても、ハルのことが分からなくなってしまったら、どうすればいい? きっと狼狽えることも、嘆くことも、怯えることもできないだろう。


 コト、と耳元に音が聞こえた。見やれば、コップの中に水が注がれている。包むような、ハルくんの、指。ごつごつした、人間の、鈍いベージュに、ほのかな朱の差した。それは宗次の手よりずっと大きい。彼は爪を最近伸ばし始めた。宗次の体に傷跡を残すため、こちら側に引き留めるための楔を打てるように。それがあったかくて、嬉しい。例えそれが脆い抵抗の仕方だとしても、彼が自分を諦めないでいてくれるのが、なりふり構わないでいてくれることが、嬉しかった。


「ゆっくり飲めよ。だいぶ汗かいてるみたいやったから、水分補給。朝飯は落ち着いてからでいい。後でお湯入れたるから、それも飲め」


「……ありがと」

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